第一部 第三十章「旅立ち」
リアナが消えてから、数日が経った。
セフィは、その間、ほとんど誰とも口をきかず、ただ、ぼんやりと日々を過ごしていた。食事も喉を通らず、夜も、ろくに眠れなかった。空になった隣の布団を見るたびに、胸が締め付けられた。
「セフィ、大丈夫か」
キーラが、心配そうに、セフィの家を訪ねてきた。
「……うん、平気」
そう答えるセフィの声には、まるで力がなかった。キーラは、それ以上、何も聞かずに、ただ、セフィの隣に座った。
窓の外では、いつも通りの村の暮らしが続いている。子どもたちの笑い声、荷馬車の車輪の音――そうした当たり前の日常が、今のセフィには、ひどく遠いもののように感じられた。
*
「なあ、セフィ」
しばらくの沈黙の後、キーラが、静かに切り出した。
「そのリアナって奴が、最後に、何か言ってなかったか」
セフィは、俯いたまま、小さく頷いた。
「バルドウィックに、行けって。死者の声に詳しい人が、いるんだって」
「なら、行くしかないだろう」
キーラの、あっさりとした言葉に、セフィは、驚いて顔を上げた。
「でも……」
「悲しむのは、悪いことじゃない。でも、いつまでも、ここで立ち止まっていたら、その人の言葉が、無駄になっちまうんじゃないか」
キーラの言葉は、不器用ながらも、確かな真心が込められていた。
「わたしも、一緒に行く。約束、しただろう。力を貸すって」
*
その夜、セフィは、久しぶりに、リアナとの日々を、一つ一つ思い返した。
出会った日の絶望。共に過ごした旅路。修行の日々。そして、突然訪れた別れ。
「リアナお姉ちゃん」
セフィは、静かに呟いた。
「セフィ、ちゃんと、前に進むね。リアナお姉ちゃんが教えてくれたこと、全部、大事にするから」
涙は、まだ完全には涸れていなかった。けれど、その涙の中に、少しずつ、前を向く力も、芽生え始めていた。
*
翌朝、セフィは、グレタの家を訪れた。
「グレタさん、しばらく、旅に出ようと思います」
「そうかい。バルドウィックに、行くんだね」
グレタは、既に、事情を知っているようだった。
「気をつけて行きな。何かあったら、いつでも、ここに戻ってくるといい」
「ありがとうございます、グレタさん」
セフィは、深く頭を下げた。この村で受けた温かさを、決して忘れることはないだろうと、改めて心に刻んだ。
*
グレタの家を出て、家路につこうとしたところで、セフィは、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「おい、坊主。ちょっと、待ちな」
振り返ると、あの質屋の店主が、息を切らしながら、こちらに向かって歩いてくるところだった。
「あの……何か、御用ですか?」
セフィが戸惑いながら尋ねると、店主は、懐から、小さな包みを取り出した。
「これを、持っていきな」
差し出されたのは、あの日、質に入れた、リアナの母の形見の首飾りだった。
「え……」
セフィは、思わず、言葉を失った。
「この前、あんたが、獣人の子どもたちを助けたって話、村中に広まっててね。あの誘拐事件を、終わらせる手伝いをしたんだろう」
店主は、ぶっきらぼうな口調で、そう続けた。
「大事なもんなんだろう、これ。礼だ、持っていきな。金は、いらない」
「でも、そんな……」
「いいから、持っていきな。良い行いをした奴には、良いことがある。それだけのことさ」
店主は、そっけなくそう言って、包みを、セフィの手に押し付けた。
*
首飾りを両手で包み込んだ瞬間、セフィの中で、堰き止めていたものが、一気に溢れ出した。
「うっ……うわあああああ……!」
セフィは、その場に座り込み、大粒の涙を、次から次へとこぼした。この首飾りを外した時の、リアナの震える手。質屋に向かう道すがらの、複雑な表情。そして、もう二度と、その手にこの首飾りをかけてあげることができないという事実。
「リアナお姉ちゃん……リアナお姉ちゃん……!」
嗚咽が、何度も、セフィの口から漏れた。店主は、驚いた様子を見せながらも、それ以上、何も聞かずに、ただ、セフィが泣き止むのを、静かに待っていてくれた。
「ごめんなさい……こんな、大事なもの、返してもらったのに」
ひとしきり泣いた後、セフィは、涙を拭いながら、そう謝った。
「謝ることじゃないさ。大事なものだからこそ、そうやって、大事に泣けるんだろう」
店主の言葉に、セフィは、もう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大切にします」
「ああ、気をつけてな」
セフィは、首飾りを、大切に懐にしまい込んだ。これは、もう二度と手放さない――そう、強く心に誓いながら。
*
広場では、ミナが、少し遠慮がちに、セフィを見送りに来てくれていた。
「セフィ、元気でね」
「うん、ミナも、元気で」
以前のような屈託のなさは、まだ戻っていなかったけれど、それでも、こうして見送りに来てくれたことが、セフィには、何よりも嬉しかった。
「また、いつか」
「うん、また、いつか」
*
「準備は、いいか」
キーラが、荷物を背負い直しながら、尋ねた。
「うん、大丈夫」
セフィは、懐に忍ばせた、トビにもらった木彫りの鳥に、そっと触れた。そして、リアナと過ごした日々の記憶を、胸の奥に、大切にしまい込んだ。
家の中を、もう一度、ぐるりと見回した。二人で手を入れた壁、二人で囲んだ竈――どれもが、リアナと過ごした証だった。
「行ってきます」
誰もいないはずの部屋に向かって、セフィは、そっとそう呟いた。
「行こう、キーラ」
「ああ」
二人は、ケルヴィンの柵を抜け、バルドウィックへと続く道を、歩き始めた。振り返ると、ケルヴィンの村並みが、少しずつ、小さくなっていく。
セローズを失い、リアナと出会い、そして見送った。この一年足らずの日々で、セフィは、多くのものを失い、そして、多くのものを得た。
「バルドウィックには、何が待ってるんだろう」
セフィが、ぽつりと呟くと、キーラは、前を見据えたまま、答えた。
「行ってみなきゃ、分からないさ。でも、一人じゃない。それだけは、確かだ」
「うん」
二人の足取りは、迷いなく、まっすぐ前へと向かっていた。空は高く澄み渡り、遠くの街道の向こうに、新しい旅路が、静かに広がっていた。
セフィの、成長の物語は、ここから、また新しい章へと、歩みを進めていく。




