第一部 第二十七章「共闘」
翌朝、兵士たちが、慌ただしく動き回る気配で、セフィは目を覚ました。
牢の中は、じめついた土の匂いと、かび臭い石の匂いが、重く漂っていた。天井は低く、大人が立てば頭がつかえそうなほどで、隙間から差し込む朝の光だけが、埃っぽい空気の中に、細い筋を作っている。石壁の向こうから、怒声にも似た指示の声が、断片的に聞こえてくる。いつもより、足音が慌ただしい。
「何か、様子が変ね……じゃなくて、変だね」
小声で言い直すと、キーラが、鉄格子の隙間から、外の様子を窺った。狭い通路の奥、油の切れたランプが、頼りなく揺れているのが見える。
「本部から、伝令が来たみたいだ。何か、緊急の用件らしい」
「チャンス、かも」
セフィは、目を閉じ、意識を集中させた。感応の力で、周囲の気配を、丁寧に探っていく。普段の修行で鍛えてきた感覚が、ここぞという場面で、静かに研ぎ澄まされていくのを感じた。
「……いる。人の気配が、いつもより少ない」
「見張りが、手薄になってるってことか」
キーラの目に、鋭い光が宿った。
*
「今のうちに、動こう」
セフィが小声で言うと、キーラは、懐に忍ばせていた、小さな鉄片を取り出した。
「これで、鍵をこじ開ける。多少、時間がかかるけど」
「セフィも、手伝う」
セフィは、鉄格子に手をかけ、意識を集中させた。同調の力で、かつて出会った、鍛冶職人の霊から受け継いだ、金属の扱いに関する知識の断片を、引き出そうと試みる。
「……こう、かな」
セフィの手つきが、まるで熟練の職人のように、迷いなく動き始めた。キーラが目を見張る中、鍵の機構が、静かに外れる音がした。
「開いた!」
「お前、地味にすごいな」
*
牢を抜け出した二人は、他の捕らわれた子どもたちにも、そっと声をかけた。
「今のうちに、逃げるよ。静かに、ついてきて」
怯えていた子どもたちも、セフィの落ち着いた声に、勇気づけられたように頷いた。
通路を進む途中、前方の角から、松明の灯りが、揺れながら近づいてくるのが見えた。
「伏せて!」
キーラが、素早く両腕を広げ、先頭にいた子どもたちの肩を、まとめて壁際の窪みへと押し込んだ。もう一人の手で、後ろにいた子の頭を、そっと低く抑えつける。セフィも、身を屈めながら、残りの子どもたちを、影の中へと引き寄せた。
足音が、石畳を踏む硬い音を立てながら、まっすぐこちらへ近づいてくる。兵士は、松明を片手に、通路の奥から歩いてきた。視線は、正面と、時折、左右の壁に向けられている。窪みの暗がりまでは、届いていないようだった。
セフィは、息を止めた。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。兵士の足音が、窪みのすぐ横を通り過ぎる瞬間、松明の熱気が、頬にまで届いた気がした。
兵士は、一度だけ、窪みの方角に、ちらりと視線を向けた。けれど、立ち止まることなく、そのまま通路の先へと、足早に歩き去っていった。足音が、次第に遠くなっていく。
「……行った」
キーラが、押さえていた手を、ゆっくりと放した。
「キーラ、身のこなし、すごいね」
「これくらい、当然だ」
キーラは、そっけなくそう言ったが、その口元には、微かな得意げな色が浮かんでいた。
*
出口へと向かう途中、行く手を、二人の兵士が塞いだ。
「おい、お前ら、何をしている!」
「まずい……」
セフィが息を呑む一方、キーラは、腰の短剣を、素早く抜き放った。布に包まれていた、二本の短剣。使い込まれた柄が、彼女の手に、しっくりと馴染んでいる。
「下がってろ、セフィ。ここは、わたしが」
「キーラ、危ない――」
キーラは、二本の短剣を構え、迫る兵士に向かって、躊躇なく踏み込んだ。狼のような俊敏さで、兵士の懐に潜り込み、鋭い一撃を繰り出す。
「くっ……!」
兵士が、怯んだ隙に、キーラは、もう一人の兵士にも、素早く斬りかかった。日頃の鍛錬の成果が、その一挙一動に、確かに表れていた。研ぎ澄まされた動きの中に、積み重ねてきた歳月の重みが、はっきりと滲んでいた。
「セフィ、子どもたちを!」
「うん!」
セフィは、震える子どもたちの手を引き、キーラが切り開いた道を、必死に駆け抜けた。
*
石造りの通路は、松明の灯りだけが頼りの、薄暗い空間だった。壁からは、じっとりとした冷気が滲み出し、走るたびに、足音が反響して、幾重にも重なって聞こえる。所々、天井から滴る水音が、規則正しく響いていた。分岐する通路のどれもが同じような顔をしていて、一度迷えば、二度と戻れないような不気味さがあった。
「同調――」
セフィは、走りながら、意識を集中させた。かつて出会った、足の速い旅人の霊から受け継いだ感覚が、体の奥から、じわりと湧き上がってくる。淀んだ空気の中、行く先の道筋だけが、頭の中に、くっきりと浮かび上がっていくようだった。
「みんな、こっち!」
セフィの導きで、子どもたちは、入り組んだ通路を、迷うことなく駆け抜けていった。壁に反射する松明の灯りが、走る影を、幾つも壁に躍らせている。
背後から、兵士たちの怒声が響く。けれど、その声は、次第に遠ざかっていった。
「あそこ、外への出口!」
キーラが叫んだ先に、微かな光が差し込む、小さな裏門が見えた。錆びついた鉄扉の隙間から、外気の匂いが、微かに流れ込んでくる。土と緑の匂い――地下の淀んだ空気とは、明らかに違う、生きた匂いだった。
「みんな、走って!」
セフィとキーラは、子どもたちを先に行かせながら、最後まで、その場に踏みとどまった。
「キーラ、まだ、追ってくる?」
「ああ、だが、もう少しだ」
二人は、互いに背を預けるようにして、迫る兵士たちに、最後の抵抗を試みた。セフィの導く直感と、キーラの磨き抜かれた剣技――二つの力が、この瞬間、確かに噛み合っていた。
「行くぞ、セフィ!」
「うん!」
裏門を抜け、森の中へと、二人と子どもたちは、一斉に駆け出した。頭上を覆う木々の枝葉が、朝の光を細かく砕き、地面に、まだらな陰影を落としている。落ち葉を踏みしめる音と、荒い息遣いだけが、森の静けさの中に響いていた。追手の声が、次第に小さくなっていく。
「やった……逃げ切れた、かな」
セフィが、息を切らしながら呟くと、キーラも、荒い息を整えながら、頷いた。
「ああ。よくやったな、セフィ」
「キーラこそ。すごい強さだった」
二人は、顔を見合わせて、安堵の笑みを浮かべた。子どもたちを守り切ったという達成感が、疲れた体に、確かな温もりをもたらしていた。
けれど、まだ、完全に安全になったわけではない。二人は、気を引き締めながら、子どもたちを連れて、ケルヴィンへの帰路を急いだ。




