第一部 第二十六章「キーラの過去」
夜も更け、他の子どもたちが寝静まった頃、セフィは、まだ眠れずにいるキーラの隣に、そっと座った。冷たい石壁が、背中に張り付くように感じられた。
「眠れないの?」
「……ああ」
キーラは、膝を抱えたまま、暗闇の一点を見つめていた。その横顔には、隠しきれない緊張と、何か深い痛みが滲んでいた。月明かりが、格子の隙間から、微かに差し込んでいる。
「よかったら、聞かせて。なんで、志願してまで、ここに来たのか」
セフィが静かにそう尋ねると、キーラは、しばらく沈黙していた。けれど、やがて、ぽつりぽつりと、語り始めた。
*
「三年前……わたしには、兄がいた」
キーラの声は、低く、抑えられていた。
「二つ年上の兄で、いつも、わたしの面倒を見てくれた。狩りの仕方も、戦い方も、全部、兄から教わったんだ」
セフィは、黙って耳を傾けた。
「不器用だったけど、優しい人だった。わたしが転んで泣いてる時も、いつも、真っ先に駆けつけてくれた」
キーラの声に、微かな柔らかさが滲んだ。それは、失われた日々を、慈しむような響きだった。
「兄は、わたしより先に、この"選定"に選ばれた。あの日のことは、今でも、はっきり覚えてる」
キーラの拳が、強く握りしめられた。
「兄は、抵抗した。わたしを庇って、兵士に食ってかかった。でも……」
言葉が、そこで一度、途切れた。
「あっさり、殴り倒された。それでも、兄は立ち上がって、また抵抗して……最後は、無理やり、馬車に押し込められた」
「そんな……」
「わたしは、何もできなかった。ただ、泣きながら、兄の名前を呼ぶことしか」
キーラの瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。けれど、それが零れ落ちることはなかった。まるで、涙を流すことさえ、自分に許していないかのようだった。
*
「それから、兄は、二度と戻らなかった。噂じゃ、これまで攫われた子は、誰一人として、生きて帰ってきたことがないらしい」
「じゃあ、お兄さんは……」
「多分、もう、この世にはいない」
キーラの声は、驚くほど静かだった。その静かさが、かえって、彼女の抱える悲しみの深さを、物語っているようだった。
「わたしは、ずっと、この日を待っていた。強くなって、いつか、ここにいる奴ら全員に、報いを受けさせるって」
「報い、って……」
「殺す。ここにいる兵士も、上に立つ奴らも、一人残らず。この手で、全員」
キーラの声には、迷いのない、冷たい決意が滲んでいた。セフィは、その言葉の重さに、思わず息を呑んだ。
「今日、志願したのも、そのためだ。中に潜り込んで、隙を見て、皆殺しにする。それが、わたしの目的だった」
「皆殺し……」
「兄を殺した奴らだ。生かしておく理由なんて、ない」
*
「復讐のためだけに、生きてきたんだ。他には、何もなかった」
キーラは、自嘲するように、小さく笑った。
「稽古も、鍛錬も、全部、そのためだった。短剣の扱いも、独学で覚えた。誰かに認められたいとか、そういうんじゃない。ただ、いつか、この手で――」
「待って、キーラ」
セフィが、その言葉を遮るように、鋭い声を上げた。
「ここにいる兵士を、全員殺したとして……それで、終わりになるの?」
「終わりって、何が」
「この誘拐、今年で終わる? 来年は、もう起きない?」
キーラは、一瞬、言葉に詰まった。
「……それは」
「グレタさんが言ってた。もう、五年も、続いてるって。ここにいる兵士を殺しても、また別の兵士が送られてくるだけじゃないの?」
セフィの声には、静かだが、揺るぎない芯があった。
「キーラが殺したいのは、目の前にいる兵士なのか、それとも、こんなことを毎年続けさせている、もっと大きな何かなのか」
キーラは、拳を握りしめたまま、俯いた。
「……分からない。ただ、目の前の奴らを、殺したかった。それだけしか、考えられなかった」
「気持ちは、分かる。でも、ここで何人殺しても、来年、また同じことが起きる。別の誰かの、お兄さんや、妹が、同じ目に遭う」
その言葉に、キーラは、はっとしたように顔を上げた。
*
「セフィは、何がしたいんだ」
キーラが、震える声で尋ねた。
「まずは、この子たちを、無事に連れ帰りたい。それから、この事件を、根本から終わらせる方法を、探したい」
「根本から……そんなこと、できるのか」
「分からない。でも、殺すことよりも、それの方が、ずっと意味があると思う」
セフィは、キーラの手を、そっと握った。
「キーラの力、貸してほしい。復讐じゃなくて、この子たちを守るために」
キーラは、しばらくの間、黙り込んでいた。長年抱え続けてきた、たった一つの目的が、根底から揺さぶられているようだった。
「……分からない。でも、お前の言うことも、一理ある」
「キーラ」
「兄が生き返るわけじゃない。分かってる、そんなことは、最初から」
キーラは、絞り出すように、そう呟いた。
「でも、この手で、決着をつけないと、わたしは、前に進めないと思ってた」
「決着のつけ方は、一つじゃないと思う。この子たちを助けることも、キーラにとっての、決着になるかもしれない」
セフィの言葉に、キーラは、長い沈黙の後、小さく頷いた。
「……分かった。今回は、お前に、賭けてみる」
「ありがとう、キーラ」
「礼を言うのは、まだ早い。子どもたちを、無事に連れ出せてから、言え」
キーラは、そっけなくそう言ったが、その声には、確かに、迷いが晴れたような、力強さが戻っていた。
*
「セフィは、なんで、こんなにお人好しなんだ」
キーラが、ぽつりと尋ねた。
「お人好し、かな。ただ、誰かが辛い思いをしてるのを、見過ごせないだけ」
「危なっかしいな、それ」
「よく言われる」
セフィが笑うと、キーラも、微かに口元を緩めた。
「わたしも、少しは……お前みたいに、なれたらいいのかもな」
その言葉に、セフィは、嬉しそうに頷いた。
「キーラなら、なれるよ」
「根拠のない励ましだな」
「でも、本当にそう思うから」
セフィがまっすぐにそう言うと、キーラは、少し戸惑ったように、視線を逸らした。
「……変な奴だな、お前」
「よく言われる、それも」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑い合った。重苦しい空気の中に、ほんの束の間、柔らかな温もりが差し込んだ。
薄暗い牢の中、二人の距離が、確かに縮まっていくのを、セフィは感じていた。復讐という重い荷物を背負ったキーラの心に、ほんの少しでも、寄り添えたなら――そう願わずにはいられなかった。




