第一部 第二十四章「攫われる日」
その日は、朝から、村全体に、張り詰めた空気が漂っていた。
「今日、来るらしいよ」
「うちの子は、絶対に外に出さない」
村人たちの間で交わされる、緊張した囁き。グレタから聞いていた通り、"あの季節"が、ついに訪れたのだった。
窓の外を見ると、獣人の子を持つ家々は、一様に戸を固く閉ざしていた。いつもは賑やかな広場も、今日ばかりは、人影がまばらだった。空気そのものが、重く張り詰めているようだった。
「セフィ、本当に、やるのね」
家の中で、リアナが、改めて確認するように尋ねた。
「うん。やる」
セフィの声は、緊張しながらも、揺るがなかった。耳と尻尾を、丁寧に装着し、前髪で左目を隠す。鏡代わりの水面に映る自分の姿は、もう何度も練習した、獣人の少女そのものだった。
「怖くない?」
「怖い。でも、やらなきゃ」
セフィは、震える手を、ぎゅっと握りしめた。
「セフィ、これだけは約束して。本当に危なくなったら、すぐに助けを求めること。無理は、絶対にしないで」
「うん、約束する」
リアナは、セフィの肩に、そっと手を置いた。
「わたしは、直接あなたを助けることはできないかもしれない。でも、できる限り、そばで見守っているから」
「ありがとう、リアナお姉ちゃん」
*
昼過ぎ、馬の蹄の音が、村に響いた。
「来た……」
セフィは、物陰から、その様子を窺った。数騎の兵士たちが、村の広場に、獣人の血を引く子どもたちを、一列に並ばせている。物々しい甲冑を纏った兵士たちの姿に、セフィの心臓が、早鐘のように打ち始めた。
「並べ、並べ」
兵士の一人が、無感情な声で、そう命じた。恐怖に強張った子どもたちの顔が、セフィの胸を、鋭く締めつけた。中には、涙を堪えきれず、泣き出してしまう小さな子もいた。
その光景を目にした瞬間、セフィの中に燻っていた恐怖よりも、強い怒りが込み上げてきた。*絶対に、こんなことを、許しちゃいけない。*
セフィは、深呼吸を一つしてから、その列に紛れ込んだ。
「お前、見ない顔だな」
兵士の一人が、セフィに目を留めた。
「よそから、来たばかりなので」
セフィは、努めて平静を装いながら、そう答えた。心臓が、痛いくらいに脈打っている。
兵士は、しばらくセフィを見つめていたが、やがて興味を失ったように、視線を逸らした。
「よし、選定するぞ」
*
兵士たちは、子どもたちを一人ずつ検分し始めた。何を基準にしているのか、セフィには分からなかった。ただ、時折、何かの器具を子どもに近づけ、微かな反応を確かめているようだった。小さな水晶のようなものが、時折、淡い光を灯すのを、セフィは見逃さなかった。
*あれで、何かを、調べてるんだ。*
セフィは、緊張しながら、自分の番が来るのを待った。隣に並ぶ子どもたちの震える肩が、痛いほど目に入った。
「この子と、この子。あとは……」
兵士の指が、セフィを差した。
「お前も、来い」
その瞬間、セフィの心臓が、大きく跳ねた。計画通りとはいえ、実際に選ばれた瞬間の恐怖は、想像以上のものだった。
「い、行くのですか」
「四の五の言わず、大人しくしていろ」
兵士に腕を掴まれ、セフィは、他の選ばれた子どもたちと共に、馬車へと押し込まれた。
*
馬車の荷台には、他に三人の子どもが、怯えた顔で座っていた。皆一様に、獣の耳や尻尾を持つ、獣人の子どもたちだった。荷台の中は薄暗く、外の景色は、隙間からわずかに覗ける程度だった。
「大丈夫だよ」
セフィは、隣で震えている、小さな男の子に、そっと声をかけた。
「な、なんで、平気そうなの……」
男の子が、涙目でそう尋ねた。セフィは、精一杯の笑顔を作った。
「大丈夫。きっと、助けが来るから」
その言葉が、根拠のない気休めではないことを、セフィ自身は、知っていた。この状況を、自ら望んで選び取ったのだから。
「お姉ちゃんも、怖くないの?」
別の女の子が、震える声で尋ねてきた。
「怖いよ。でも、みんなを一人にしないから」
セフィは、そう言って、女の子の手を、そっと握った。小さな手が、縋るように、セフィの手を握り返してきた。
馬車の外、遠く離れた木陰から、リアナが、こちらの様子を見守っているのが、セフィには分かった。姿は見えなくとも、その存在を、確かに感じ取ることができた。
*リアナお姉ちゃん、見ててね。セフィ、頑張るから。*
心の中でそう呟きながら、セフィは、膝の上で拳を強く握りしめ、馬車が走り出すのを待った。
やがて、馬車が動き出す。がたごとと揺れる荷台の中、セフィは、これから向かう先で、何が待ち受けているのか、まだ知る由もなかった。ただ、自分の選んだ道を、最後まで貫き通す――その決意だけを、胸に強く抱きしめていた。




