第一部 第十八章「攫われる子どもたちを知る」
その日、セフィは水を汲みに、グレタの家を訪ねていた。あの日以来、すっかり足が遠のいていたが、グレタだけは、変わらず温かく迎え入れてくれていた。
家の中には、干した薬草と、煮出した茶の匂いが、ほんのりと漂っていた。竈の火が、小さく爆ぜる音を立てている。
「よく来たね。まあ、座りな」
グレタは、いつも通りの態度で、セフィに椅子を勧めてくれた。周りの視線が変わっても、グレタの態度だけは、微塵も変わらなかった。
「グレタさんは、怖くないんですか。その……」
セフィが遠慮がちに尋ねると、グレタは、豪快に笑い飛ばした。
「怖い? 何が怖いんだい。あんたは、あんたじゃないか」
その言葉に、セフィは、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
「わたしゃね、長く生きてるとね、目に見えるものだけが、全部じゃないってことくらい、分かるようになるのさ」
グレタは、そう言って、茶を一口すすった。
「それに、あんたが良い子だってことは、この目で、ちゃんと見てきたからね」
その言葉に、セフィは、思わず涙ぐみそうになった。村中の視線が冷たくなる中、こうして変わらずにいてくれる人がいることが、どれほど心強いか、改めて実感した。
「ありがとうございます、グレタさん」
「礼はいいから、お茶をお飲み。冷めちまうよ」
*
お茶を飲みながら、他愛のない世間話をしていると、グレタが、ふと声を落として言った。
「そういえば、もうすぐ、あの季節だね」
「あの季節?」
セフィが首を傾げると、グレタは、憂鬱そうにため息をついた。
「毎年、この時期になると、村の子どもが何人か、姿を消すのさ」
「え……」
セフィは、思わず息を呑んだ。
「姿を消すって、どういうことですか」
「帝国の連中が、獣人の子どもを、何人か連れていくんだよ。『調査のため』とかなんとか、もっともらしい理由をつけてね」
グレタの声には、隠しきれない怒りと、諦めに似た響きが混じっていた。
「連れていかれた子は、どうなるんですか」
「戻ってきた子は、今まで一人もいないよ」
その一言が、セフィの胸に、重く突き刺さった。
*
「毎年、同じことが、起きてるんですか」
「ああ。もう、五年は続いてるかね。最初の頃は、村中で抗議したもんさ。だが、帝国の兵に睨まれちゃ、何もできやしない」
グレタは、悔しそうに拳を握りしめた。
「今じゃ、みんな、諦めちまってる。獣人の子を持つ親は、この時期になると、なるべく子どもを人目につかせないようにするしかないんだ」
「そんな……」
セフィは、言葉を失った。里で受けた迷信や差別とは、また違う種類の、理不尽な暴力がそこにはあった。
「なんで、そんなことが、許されてるんですか」
セフィが震える声で尋ねると、グレタは、力なく首を振った。
「帝国のやることに、この辺境の村が、逆らえるわけないだろう。何か言えば、村ごと潰されかねない」
その言葉の重みに、セフィは、拳を強く握りしめた。
「表向きは『不審な力の調査』とか言ってるらしいがね、本当の理由は、誰も知らないのさ」
グレタは、そう付け加えた。
「調査って、何を調べるんですか」
「さあねえ。獣人の血や、力について、何か調べてるんじゃないかって噂もあるが……本当のところは、闇の中さ」
セフィは、その言葉に、微かな胸騒ぎを覚えた。里で出会った兵士たちの、あの探るような視線を思い出す。もしかしたら、この一件も、あの視線と、どこかで繋がっているのかもしれない。
「グレタさんは、これまで、何もできなかったんですか」
セフィが尋ねると、グレタは、悔しそうに顔を歪めた。
「若い頃は、何度も掛け合ったさ。だが、聞く耳なんて持ってもらえなかった。それどころか、うるさく言う家は、真っ先に目をつけられるようになってね」
「そんな……」
「だから、今は、みんな黙っているしかないんだよ。悔しいけどね」
グレタの声には、長年積み重なった無力感が滲んでいた。セフィは、その重みを、しっかりと胸に刻み込んだ。
*
家に戻る頃には、日はすっかり沈み、藍色の空に、星が瞬き始めていた。狭い家の中、ランプの灯りだけが、頼りなく揺れている。家に戻ったセフィは、その夜、リアナに、今日聞いた話を、詳しく伝えた。
「毎年、子どもが攫われて、帰ってこないなんて……」
セフィの声は、怒りと悲しみで、震えていた。
「酷い話ね」
リアナも、表情を曇らせた。
「グレタさんが言うには、獣人の血や力を、調べているんじゃないかって。里で会った、あの役人のことも、思い出した」
「あの、セフィの目を見て、冥人の血がどうとか言っていた人ね」
「うん。もしかしたら、同じことを調べてるのかもしれない」
リアナは、しばらく考え込むように黙っていた。
「セフィ、どうしたいの?」
リアナが静かに尋ねると、セフィは、はっきりとした声で答えた。
「助けたい。今度、そういうことが起きるなら、絶対に、助けたい」
「簡単なことじゃないわよ。相手は、帝国の兵士たち」
「分かってる。でも……」
セフィは、拳を握りしめた。
「見て見ぬふりなんて、したくない。もし、セフィが同じ目に遭ったら……きっと、誰かに助けてほしいって、思うから」
その言葉に、リアナは、優しく目を細めた。
「セフィにも、力があるでしょう。死者の声を聞く力。それに、リアナお姉ちゃんも、一緒にいてくれる」
「ええ、もちろん、一緒に考えるわ。でも、無茶だけはしないでね」
「うん、約束する」
リアナは、しばらく黙り込んでいたが、やがて、静かに頷いた。
「分かったわ。一緒に、考えましょう。どうすれば、その子たちを助けられるか」
「うん!」
「まずは、いつ、どんな風に子どもたちが連れていかれるのか、詳しく調べる必要があるわね」
「うん。グレタさんに、もっと詳しく聞いてみる」
「それと、もし本当に何かをするなら、今よりもっと、力をつけておかないと」
「修行、もっと頑張る!」
セフィが意気込んでそう言うと、リアナは、頼もしそうに微笑んだ。
「ええ、一緒に頑張りましょう」
セフィの目に、強い決意の光が宿った。理不尽に奪われる命を、これ以上見過ごしたくない――その想いが、まだ幼いセフィの胸の中で、確かな芯となって育ち始めていた。
窓の外では、夜風が、静かに木々を揺らしていた。次の"季節"まで、あと数ヶ月。二人にとって、新たな戦いへの準備が、この夜から静かに始まろうとしていた。




