第一部 第十三章「ケルヴィンへ」
森を抜けた先に、遠く、煙が立ち上るのが見えた。
「あれ……もしかして」
セフィが指差すと、リアナも目を細めて、その方角を見つめた。
「ケルヴィンかもしれないわね」
出発から、既に一月近くが経っていた。当初の見込みでは、十日ほどで着くはずだった道のりが、修行を重ねながらの旅路になったことで、大きく延びていた。それでも、二人の間に、後悔の色はなかった。
「やっと、着くんだね」
セフィの声には、安堵と、少しの寂しさが入り混じっていた。この一月、リアナと二人きりで過ごしてきた日々は、辛いことも多かったが、それ以上に、かけがえのない時間になっていた。
「そうね。人のいる場所に、やっと辿り着けるわ」
リアナの声にも、どこか複雑な響きがあった。
しばらくの間、二人は無言のまま、遠くに見える煙を見つめていた。森での暮らしに、いつの間にかすっかり慣れてしまっていたことに、セフィは今更ながら気づいた。焚き火の匂い、川のせせらぎ、木々の合間から差し込む光――それらが、当たり前の日常になっていたのだ。
「人がいっぱいいる場所、久しぶりだね」
セフィがぽつりと呟くと、リアナも頷いた。
「そうね。少し、緊張するわね」
「リアナお姉ちゃんでも、緊張するの?」
「もちろんよ。あなただけじゃないわ」
そう言って笑うリアナの表情には、いつもの余裕が滲んでいたが、その奥に、微かな緊張も見え隠れしていた。
*
その日の野営は、いつもより静かなものだった。焚き火を挟んで座る二人の間に、これまでとは少し違う空気が流れていた。
「リアナお姉ちゃん」
セフィがぽつりと呼びかけた。
「なあに?」
「この一月、ありがとう。リアナお姉ちゃんがいなかったら、セフィ、絶対に生きてこられなかった」
改まったその言葉に、リアナは驚いたように目を瞬かせた。
「急に、どうしたの」
「なんとなく。ちゃんと、言っておきたかった」
リアナは優しく微笑み、セフィの頭を撫でた。
「わたしこそ、ありがとう。あなたと一緒だったから、わたしも、ここまで歩いてこられたのよ」
「これからも、一緒にいてくれる?」
セフィが不安そうに尋ねると、リアナは迷わず頷いた。
「もちろん。約束したでしょう、あなたが一人前になるまで」
「一人前って、いつ頃?」
「さあ、どうかしらね。まだまだ、先は長そうよ」
そう言って笑うリアナの表情に、セフィは安心して、寄りかかるように体を預けた。
焚き火がぱちぱちと爆ぜる音を聞きながら、セフィはこの一月の日々を、一つ一つ思い返した。食料に困った最初の数日、罠を仕掛けて喜んだ日、夜通し泣いた日、修行に励んだ日々――どれもが、色褪せることのない、大切な記憶だった。
「なんだか、あっという間だった気もするし、すごく長かった気もする」
「そうね。濃密な一月だったもの」
「これから先も、こんな風に、色んなことがあるのかな」
「きっとね。でも、どんなことがあっても、乗り越えていけると思うわ。この一月で、それだけの力を、あなたはちゃんと身につけたもの」
リアナの言葉に、セフィは、握りしめた拳を、そっと開いたり閉じたりしながら、小さく頷いた。
*
「ねえ、ケルヴィンに着いたら、リアナお姉ちゃんのこと、なんて紹介しよう」
セフィがふと思いついたように尋ねた。
「なんて、とは?」
「だって、名字とか、聞かれるかもしれないし」
「ああ……そうね」
リアナは少し考え込んだ。自分の家のことを、詳しく語ろうとすると、なぜか記憶が霞むような、そんな感覚があった。
「リアナ、とだけ、名乗っておきましょう。詳しいことは、聞かれたら、はぐらかせばいいわ」
「分かった」
「それと、セフィ」
リアナが少し真剣な顔になった。
「里で何があったか、聞かれることもあると思うの。辛いことを、無理に話す必要はないのよ」
「うん……分かってる」
「もし辛くなったら、わたしが代わりに答えるから」
「ありがとう、リアナお姉ちゃん」
「あと、わたしたちの関係も、聞かれるかもしれないわね。姉妹だと思われるかしら」
「リアナお姉ちゃんは、セフィのお姉ちゃんだよ」
セフィが迷いなくそう言うと、リアナは目を細めて笑った。
「ふふ、そうね。血の繋がりはなくても、立派な姉妹よね」
「うん!」
そんな打ち合わせをしながら、二人は、これから待ち受けるだろう、新しい生活への心構えを整えていった。
*
翌朝、二人は身支度を整え、ケルヴィンへの道を歩き始めた。この一月で、二人の間には、単なる保護者と子どもという関係を超えた、深い絆が育まれていた。修行を共に乗り越え、悲しみを分かち合い、笑い合った日々――それらすべてが、二人を強く結びつけていた。
けれど、セフィは今も変わらず、リアナのことを「お姉ちゃん」と呼び続けていた。師匠と弟子という関係を超えて、家族のような、それでいて対等な、不思議な絆がそこにはあった。
歩みを進めるうちに、木々の隙間から見える景色が、少しずつ変わっていった。獣道のような細い道が、次第に踏み固められた広い道へと変わり、遠くから、家畜の鳴き声や、人々の話し声が、かすかに聞こえてくるようになった。
「本当に、人がいるんだね」
セフィが、どこか感慨深げに呟いた。この一月、ずっと二人きりだった世界に、また別の誰かが加わろうとしている。それは、安堵であると同時に、少しの怖さも伴うものだった。
「見えてきたわ」
リアナの声に、セフィは顔を上げた。木々の合間から、木造の柵に囲まれた、小さな村の姿が見えてくる。ケルヴィンだった。柵の向こうには、藁葺き屋根の家々が並び、井戸端らしき場所で、人影がいくつか動いているのが見えた。
「ついに、着いたね」
「ええ。ここから、また新しい生活が始まるわね」
セフィは、リアナの手をしっかりと握った。不安がないと言えば嘘になる。里の人々にどう見られるか、何を聞かれるか――考え始めると、きりがなかった。けれど、隣にリアナがいてくれる限り、どんなことでも乗り越えられる――そんな確信めいた気持ちが、セフィの胸の中にはあった。
「大丈夫よ、セフィ。何があっても、わたしが一緒にいるから」
リアナがそっと囁くように言った。その言葉に、セフィは小さく頷き、深呼吸を一つした。
二人は、村の入り口へと向かって、しっかりとした足取りで歩き出した。この一月の旅路で得たものは、食料の調達術や、修行の成果だけではなかった。何よりも大きかったのは、どんな困難も、二人でなら乗り越えられるという、確かな信頼だった。
柵の入り口が、少しずつ近づいてくる。セフィは、これから始まる新しい章に向けて、静かに心を整えていた。




