第一部 第十章「顕現の兆し」
制御の壁を乗り越えた翌日から、セフィの様子に、小さな変化が現れ始めた。
朝靄がまだ薄く残る道を、二人は連れ立って歩いていた。土の湿った匂いと、鳥のさえずりが、静かな朝を彩っている。
「あ……」
朝、水を汲みに川へ向かう途中、セフィは足元の小石に躓きかけた。けれど、体が勝手に動いて、驚くほど滑らかに体勢を立て直していた。転びかけた体が、まるで別の誰かに操られているかのように、するりと軸を戻したのだ。
「今の、すごかったわね」
リアナが感心した様子で言うと、セフィ自身も、驚いて自分の足元を見つめた。
「なんか……体が、勝手に動いた」
「もしかして、それが『顕現』かもしれないわ」
「けんげん……ついに?」
セフィは、まだ半信半疑の様子で、自分の両手を開いたり閉じたりしてみた。何も変わっていないように見えるのに、確かに、何かが違う気がする。
*
その日の昼、二人は森の中で、大きな倒木に行く手を阻まれた。普段なら回り道をするところだったが、セフィは何気なく、その倒木に手をかけ、するりと軽やかに乗り越えてしまった。
「あれ……?」
セフィ自身も、自分の身のこなしに驚いた顔をしていた。今までなら、もっと苦労していたはずの動きが、まるで体に染み付いているかのように、自然にできてしまったのだ。
「セフィ、今の動き、すごく綺麗だったわ」
「なんか、体が覚えてるみたいな……」
セフィは自分の手のひらを見つめた。薬草のおばあさんとの同調で得た知識だけでなく、あの日々の中で出会った、様々な死者たちの記憶の断片――そうしたものが、少しずつ、セフィの体の動きにも、影響を与え始めているようだった。
*
夕方、川辺で水を汲んでいた時のことだった。足を滑らせたセフィが、体勢を崩しかけた瞬間、無意識のうちに、體を捻って川に落ちるのを避けていた。
「危ない!」
リアナが慌てて駆け寄ったが、セフィは既に、危なげない様子で岸に立っていた。
「大丈夫、平気」
「今の動き、まるで熟練の猟師みたいだったわ」
リアナが目を丸くして言うと、セフィは不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、この前、あのお爺さんの気配を感じた時、少しだけ、猟のことについて話した気がする」
「対話しただけで、そんなことまで?」
「うん、なんとなく」
セフィ自身も、はっきりとは説明できなかった。ただ、様々な死者たちと関わる中で、ほんの断片的にでも、彼らの持っていたものが、自分の中に染み込んでいるような感覚があった。
「なんだか、不思議な力ね。使えば使うほど、いろんなことが分かるようになっていく」
「うん。でも、まだよく分からないことも、たくさんある」
「それでいいのよ。少しずつ、理解していけば」
リアナはそう言って、濡れた水桶をセフィから受け取った。
*
「これが、顕現なのね」
リアナが感慨深げに呟いた。
「受け取ったものが、ちゃんと、体の動きとして出てくるようになった。素晴らしい進歩だわ」
「なんか、不思議な感じ。前より、体が軽い気がする」
セフィは、自分の体を確かめるように、その場でくるりと回ってみせた。危なげない、軽やかな動きだった。
「もっと、色んなことができるようになるのかな」
「きっとね。あなたの中に、少しずつ積み重なっていくものが、これから先も、あなたを助けてくれるはずよ」
その言葉に、セフィは口元を緩めながらも、両手を握ったり開いたりする仕草を、何度も繰り返していた。力が増えていくことは嬉しい。けれど、それと同時に、自分がどこまで変わっていくのか、まだ見当もつかなかった。
「試してみましょう。何か、簡単なことでいいから」
リアナの提案で、二人は近くの木の枝を使って、簡単な組手のような真似事をしてみることにした。リアナが枝を軽く振ると、セフィは、まるで予測していたかのように、それを避けてみせた。
「今の、どうやったの?」
「分からない……なんとなく、動きが見えた気がした」
「すごいじゃない! それも、誰かから受け継いだものかもしれないわね」
「もう一回やってみて」
セフィにせがまれ、リアナはもう一度、枝を振ってみせた。今度は少し速さを変えてみたが、セフィは同じように、危なげなくかわしてみせる。
「本当に、避けられてる……」
リアナは半分呆れたように、半分嬉しそうに、そう呟いた。
「じゃあ、今度はセフィが振ってみて」
「分かった」
セフィが枝を軽く振ると、リアナも軽やかにそれをかわした。
「あら、わたしも、意外とできるものね」
「リアナお姉ちゃんも、顕現できるの?」
「どうかしら。もしかしたら、わたしにも、何か眠っているものがあるのかもしれないわね」
二人は、しばらくの間、そうした簡単な動きの確認を続けた。セフィの反応は、確かに、以前とは比べ物にならないほど、鋭くなっていた。時折、笑い声を交えながらの練習は、修行というよりも、遊びに近い雰囲気になっていった。
*
「でも、油断は禁物よ」
一通りの練習を終えた後、リアナが真剣な顔で言った。
「顕現できるようになったからといって、それに頼りすぎないこと。あくまで、あなた自身の努力と、受け継いだものが、うまく組み合わさってこそ、意味があるんだから」
「うん、分かってる」
「それに、まだ全部が使いこなせるわけじゃないはずよ。少しずつ、確かめながら進みましょう」
セフィは頷きながら、自分の手のひらを、もう一度見つめた。まだ実感としては薄いけれど、確かに、自分の中に、何か新しい力が芽生え始めていることを感じていた。
*
その夜、焚き火を囲みながら、セフィはリアナに、今日一日の出来事を興奮気味に語った。
「今日、たくさんできることが増えた気がする」
「本当にね。あなたの成長、目を見張るものがあるわ」
「リアナお姉ちゃんのおかげだよ」
「わたしは、ただ隣にいただけよ。頑張ったのは、セフィ自身だわ」
「ううん、リアナお姉ちゃんがいなかったら、セフィ、とっくに諦めてたと思う」
セフィが真剣な顔でそう言うと、リアナは少し照れくさそうに笑った。
「そう言ってもらえると、嬉しいわ」
二人は笑い合いながら、その日の成果を確かめ合った。感応、対話、同調、そして顕現――五つの段階のうち、四つまでを、二人はこうして、少しずつ乗り越えてきた。
「あと残ってるのは、なんだっけ」
セフィが指折り数えると、リアナは微笑んだ。
「全部よ。一度身につけたからといって、終わりじゃないの。これからも、ずっと磨き続けていくものだから」
「そっか。じゃあ、まだまだ修行、続くね」
「ええ、まだまだよ」
「セフィ、もっと強くなりたい」
セフィがぽつりと呟くと、リアナは優しい目でセフィを見つめた。
「何のために、強くなりたいの?」
「大切な人を、ちゃんと守れるように。それに……いつか、誰かの役に立てるように」
その言葉に、リアナは目を細めた。
「立派な目標ね。きっと、あなたなら、なれるわ」
「リアナお姉ちゃんも、一緒だよ」
「ええ、一緒に頑張りましょう」
星空の下、二人は顔を見合わせて笑った。厳しい道のりではあったけれど、その一歩一歩が、確かにセフィを、少しずつ強くしていた。焚き火の爆ぜる音だけが、静かな夜に、優しく響いていた。




