第一部 第九章「制御の壁」
同調の練習を重ねて数日が経った頃、二人は森の奥で、新しい気配に出会った。旅を続けながらも、二人は毎日の修行を欠かさなかった。感応、対話、同調――少しずつ積み重ねてきた力が、セフィの中で確かな手応えとなり始めていた。
薬草のおばあさんとは違う、もっと強い、切迫した感情を纏った気配だった。木々の合間、崩れかけた小屋の跡に、うずくまるようにして佇む、若い男の姿があった。屋根は半分崩れ落ち、蔦が壁を這い、長い間、人の手が入っていないことを物語っている。饐えた土と、朽ちた木材の匂いが、あたりに重く漂っていた。
「あの人、様子が違う」
セフィが緊張した声で言うと、リアナも表情を硬くした。今までに感じたどの気配とも違う、重苦しい何かが、そこにはあった。
「無理はしないで。今日は、遠くから感じるだけにしましょう」
けれど、セフィの好奇心と、あるいは持ち前の共感しやすい性分が、その忠告を上回ってしまった。放っておけない、という気持ちが、警戒心よりも先に立ってしまったのだ。
*
「対話、してみたい」
セフィがそう言うと、リアナは少し迷ってから、頷いた。
「分かったわ。でも、少しでも辛くなったら、すぐにやめること。約束よ」
「うん、約束」
セフィは目を閉じ、その男に向かって、そっと語りかけた。
「あなたは……何があったんですか」
男は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、深い絶望が宿っていた。
「妻と、子どもを、守れなかった。盗賊に襲われて……わたしだけが、生き残ってしまった」
その言葉が届いた瞬間、セフィの胸に、鋭い痛みが走った。
*
「わたしが、弱かったから……わたしが、もっと強ければ……」
男の後悔が、次第に強く、セフィの中に流れ込んでくる。今までとは、明らかに違う感覚だった。対話のつもりが、いつの間にか、深く同調してしまっているようだった。
視界の端が、じわりと黒く滲み始めた。男が見た光景――盗賊の刃、妻の悲鳴、子どもの泣き声――それらが、まるで自分自身が体験しているかのように、セフィの脳裏に流れ込んでくる。
「わたしのせいだ……わたしのせいで、二人とも……」
「そんな……そんなこと……」
セフィの声が、震え始めた。男の絶望が、まるで自分自身のものであるかのように、体の芯まで染み込んでくる。目の前が、暗くなっていくような感覚。手足の感覚が、次第に遠くなっていくようだった。
*わたしのせいだ。わたしが、弱いから。わたしが……*
いつの間にか、セフィの中で、男の言葉と、自分自身の言葉が、混ざり合い始めていた。自分が誰なのか、何のためにここにいるのか、そうした輪郭が、急速に曖昧になっていく。
「セフィ!」
リアナの声が、遠くから聞こえた気がした。けれど、その声すらも、次第に遠ざかっていく。
*
「セフィ、しっかりして! セフィ!」
リアナがセフィの体を強く揺さぶった。目を開けたセフィの瞳は、焦点が合わず、虚ろだった。
「わたしの、せい……わたしが、弱いから……」
セフィは、譫言のようにそう繰り返していた。リアナは、はっとした表情で、セフィの両肩を強く掴んだ。
「違う! あなたは、セフィよ! あの人じゃない!」
「わたし……は……」
「セフィ! 自分の名前を、思い出して! あなたは、ダリクとイレアの娘、セフィよ!」
リアナの必死の声が、少しずつ、セフィの意識の奥に届き始めた。
*わたしは……セフィ。*
「セフィ、しっかり!」
「……リアナ、お姉ちゃん?」
セフィの瞳に、少しずつ光が戻ってきた。リアナは、両腕を伸ばし、セフィの体を、震える力で強く抱きしめた。
「よかった……戻ってきてくれた」
「わたし……何が……」
「呑まれかけたのよ。あの人の悲しみに、深く同調しすぎて」
セフィは、震える手で自分の頬に触れた。涙が、止めどなく溢れていた。
*
「怖かった……自分が、自分じゃなくなるみたいで」
セフィがか細い声で言うと、リアナは強く頷いた。
「これが、制御の壁よ。あなたの優しさが、時にはこうして、危険にもなり得るの」
「わたし……あの人を、助けてあげられなかった」
セフィが俯くと、リアナは首を振った。
「今は、それでいいの。まずは、自分を保つことを覚えないと。誰かを助けるのは、それからよ」
「でも……」
「セフィ」
リアナは、セフィの両手を、そっと包み込むように握った。
「あなたが、あの人と一緒に沈んでしまったら、誰も助けられなくなるのよ。まず、自分がしっかり立っていること。それが、何よりも大事なの」
その言葉は、リアナ自身も、まだ完全には実践できていないことのように、セフィには聞こえた。けれど、その真剣な眼差しには、確かな重みがあった。
しばらくの沈黙のあと、セフィは小さく頷いた。
「もう一回、話しかけてみたい。今度は、ちゃんと、セフィのままで」
「本当に、大丈夫?」
「うん。今度は、リアナお姉ちゃんが、隣で見ててくれるから」
リアナは少し迷ったが、セフィの決意の固さを見て、頷いた。
「何かあったら、すぐに名前を呼ぶから。その声が聞こえたら、必ず戻ってくること。約束よ」
「約束する」
*
崩れかけた小屋には、変わらず、朽ちた木材の匂いが立ち込めていた。傾いた陽の光が、壊れた屋根の隙間から、細く差し込んでいる。
セフィは、再び目を閉じた。今度は、男の悲しみに、全て寄り添うのではなく、少し距離を保ちながら、耳を傾けた。
「あなたのせいじゃ、ないと思います」
セフィの言葉に、男は驚いたように顔を上げた。
「盗賊が悪いんです。あなたが弱かったからじゃない」
「だが……わたしが、もっと強ければ……」
「もし、もっと強かったとしても、あなた一人が、盗賊全員に勝てたとは、限らないと思います」
セフィの言葉は、たどたどしくはあったが、まっすぐだった。男は、しばらく黙り込んでいたが、やがて、その目に、わずかな安らぎのようなものが浮かんだ。
「そうか……そうかもしれないな」
「あなたは、悪くない。ちゃんと、頑張ったと思います」
男の姿が、少しずつ、穏やかな輪郭に変わっていくのを、セフィは感じた。呑まれることなく、それでいて、ちゃんと寄り添えている――そんな確かな手応えがあった。
*
目を開けたセフィに、リアナは静かに微笑みかけた。
「今度は、ちゃんとセフィのままでいられたわね」
「うん。怖かったけど、リアナお姉ちゃんの声のおかげで、戻ってこられた」
「これからも、危ないと思ったら、迷わず声をかけるから。一人で抱え込まないで」
「うん、ありがとう」
セフィはリアナに抱きつき、その温もりを確かめた。制御の壁は、簡単には越えられないものだと、身をもって知った一日だった。けれど、その壁の向こうに進むための、確かな一歩を踏み出せたことも、また事実だった。
「今日は、もう休みましょう。よく頑張ったわ」
「うん……」
リアナはセフィを優しく抱き上げ、寝床まで運んでくれた。いつもなら自分で歩くのに、今日ばかりは、その腕の中に甘えたい気分だった。
その夜、セフィは疲れ切った体を、リアナの隣に横たえた。眠りに落ちる直前、セフィは静かに呟いた。
「セフィは、セフィ」
その言葉を、確かめるように、何度も繰り返しながら。
「ええ、その通りよ。あなたは、セフィ。それ以外の、誰でもない」
リアナがそっと囁く声を、遠くに聞きながら、セフィは深い眠りに落ちていった。




