第一部 第七章「対話の修行」
感応の練習を重ねるうちに、セフィは日に日に、周囲の気配に敏感になっていった。今まで気づかなかったような、微かな存在にも、目を閉じれば手が届くようになっている。それが嬉しくて、セフィは毎朝、目覚めるとすぐに、その日の修行を心待ちにするようになっていた。
朝露に濡れた草を踏むと、冷たい感触が、素足に染み込んでくる。鳥たちの声が、重なり合うようにして、あちこちから響いていた。
「今日は、対話の練習をしてみましょうか」
朝の身支度を終えた頃、リアナがそう切り出した。
「この前の、寂しそうな人と話すの?」
「ええ。まずは、無理に近づこうとせず、そっと呼びかけてみるところから」
「緊張する」
セフィが正直にそう漏らすと、リアナは優しく微笑んだ。
「大丈夫。焦らず、ゆっくりでいいのよ。わたしも、隣にいるから」
その言葉に、セフィは少しだけ肩の力を抜くことができた。
二人は昨日と同じ木陰へと向かった。歩きながら、リアナはもう一度、対話の心得を確認するように言った。
「相手が話したがらないことは、無理に聞き出さない。それから、こちらの都合を押し付けない。ただ、寄り添う気持ちで、耳を傾けること」
「うん、覚えてる」
「じゃあ、やってみましょう」
目を閉じて、意識を集中させると、すぐにあの気配を感じ取ることができた。前よりも、輪郭がはっきりしている気がする。
「そこに、いるんですよね」
セフィは、心の中でそっと語りかけた。しばらくの沈黙のあと、目の前に、ぼんやりとした人影が浮かび上がった。腰の曲がった、白髪の老婆だった。手には、薬草を摘むための籠を提げている。
*
木漏れ日が、老婆の輪郭を、淡く透かしていた。周囲の草いきれに混じって、乾いた薬草の匂いが、微かに漂ってくるような気がした。
「あなた……見えるのかい」
老婆の声は、掠れていたが、はっきりと届いた。セフィは驚きながらも、リアナに教わった通り、ゆっくりと、優しく話しかけた。
「はい、見えます。聞こえます。何か、困ってることがあるんですか?」
老婆は、しばらくセフィを見つめていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
「わたしはね、昔、この森で薬草を摘んでいた者だよ。ある日、道に迷ってしまってねえ……ずっと、家に帰れないままなんだ」
「お家、どこにあったんですか?」
「もう、ずっと昔のことだから……よく覚えていないんだよ。ただ、帰りたい、帰りたいと、そればかり思っていたら、いつの間にか、こんな風になっていた」
老婆の声には、深い寂しさが滲んでいた。セフィは、思わず胸が締めつけられる感覚を覚えたが、リアナに教わった「制御」の言葉を思い出し、そっと自分に言い聞かせた。*わたしはセフィ。寄り添うけど、呑まれない。*
「寂しかったですね。ずっと、一人で」
セフィがそう言うと、老婆は驚いたように目を見開いた。
「そうさなあ……誰にも、気づいてもらえなかったからねえ。あんたが、初めてだよ」
「怖くないですか? わたしみたいな、小さな子どもと話すの」
セフィが素直に尋ねると、老婆はくしゃりと笑った。
「怖いもんかね。むしろ、こうして話しかけてもらえるだけで、どれだけ救われるか」
「わたしも、お母さんとお父さんを、亡くしたばかりなんです」
セフィがぽつりと言うと、老婆は静かに頷いた。
「それは、辛かったろうね。まだ、こんなに小さいのに」
「だから、おばあさんの寂しい気持ち、少しだけ分かる気がします」
老婆は、しばらく黙って、セフィの顔を見つめていた。それから、優しい声で言った。
「あんたは、優しい子だね。その優しさは、大事にするといい。ただし――」
「ただし?」
「優しすぎて、自分を見失わないようにね」
その言葉は、リアナが常々言っていることと、驚くほど似ていた。セフィは、深く頷いた。
*
「もっと、聞いてもいい?」
セフィが尋ねると、老婆は小さく頷いた。
「薬草のこと、教えてください。どれが食べられて、どれが危ないか」
老婆は嬉しそうに、目を細めた。
「ああ、いいとも。わたしの知っていることなら、何でも教えてあげよう」
老婆は、籠の中の薬草を一つずつ取り出すようにして、その特徴を語り始めた。
「まず、丸い葉っぱのやつ。これは、絶対に口にしちゃいけないよ。腹を壊すどころじゃ済まない」
「丸い葉っぱ、駄目」
セフィは真剣な顔で、頭の中に刻み込むように繰り返した。
「三つ葉の形をした、この草。これは腹痛に効く薬になる。乾かして煎じて飲むといい」
「三つ葉は、お薬」
「赤い実の中でも、艶のあるものは危険だが、艶のないものは、たいてい食べられる。見分け方は、光の当たり方で分かるよ」
「艶なしは、安全」
老婆は、そうした知識を、一つひとつ丁寧に語ってくれた。どの季節に何が採れるか、どの土地に何が育ちやすいか――里で育った薬草摘みの知恵が、次から次へと、セフィの中に流れ込んでくるようだった。
「こんなにたくさん、覚えられるかな」
セフィが少し不安そうに呟くと、老婆は優しく笑った。
「一度に全部覚えなくてもいい。少しずつ、体で覚えていくものだから」
セフィは一つひとつ、真剣に耳を傾けた。まだ全部は覚えきれなかったが、これまで曖昧にしか判断できなかったものが、少しずつ形になっていくのを感じた。
「ありがとうございます。すごく、勉強になりました」
セフィが礼を言うと、老婆は嬉しそうに笑った。
「こちらこそ、ありがとうね。誰かに、話を聞いてもらえるなんて、久しぶりだったよ」
「また、来てもいいですか?」
「ああ、いつでもおいで。あんたが来てくれるのを、待っているよ」
*
その日の対話は、そこで一区切りとなった。目を開けたセフィは、興奮した様子でリアナに報告した。
「薬草のこと、たくさん教えてもらった! これで、木の実とか、もう迷わないかも」
「すごいじゃない。ちゃんと、対話できたのね」
リアナは、セフィの頭を優しく撫でた。
「怖くなかった?」
「うん。寂しそうだったけど、ちゃんと、セフィのままでいられた」
「それが、一番大事なことよ」
「あとね、おばあさんが、リアナお姉ちゃんと同じこと言ってた。優しすぎて、自分を見失わないようにって」
その言葉に、リアナは少し驚いたような顔をした。
「あら、そう。きっと、みんな同じことに気づくものなのね」
「セフィ、ちゃんと覚えとく」
「ええ、そうして」
夕暮れ時、二人は早速、老婆から教わった知識を頼りに、周囲の草木を確認して回った。
「これは、丸い葉っぱだから駄目な方」
セフィが指差しながら言うと、リアナは感心したように頷いた。
「よく覚えているじゃない」
「だって、大事なことだもん」
今まで避けていた実の中に、いくつか食べられるものが見つかり、その日の食事は、少しだけ豊かなものになった。
「今日の実、甘い!」
セフィが嬉しそうに言うと、リアナも頷いた。
「本当ね。あのおばあさんのおかげだわ」
焚き火を囲みながら、セフィはふと、老婆のことを思い出した。
「あのおばあさん、まだ森の中にいるのかな。寂しがってないかな」
「今度、また会いに行きましょうか」
「うん、行きたい」
対話という新しい力の使い方が、こうして早速、二人の暮らしを支えてくれたことに、セフィは改めて、自分の力の可能性を感じずにはいられなかった。誰かと言葉を交わし、誰かの役に立てる――そのことが、セフィにとって、何よりも嬉しい発見だった。




