第一部 第五章「基礎理論」
「ねえ、リアナお姉ちゃん」
その日の昼下がり、川辺で新しい罠を編みながら、セフィがふと口を開いた。日差しは強く、水面が眩しいほどに輝いている。柳の葉が擦れる音に混じって、川のせせらぎが、絶え間なく耳に届いていた。編みかけの枝からは、青臭い樹液の匂いが、指先にほんのり移っている。
「なあに?」
「昨日も思ったんだけど、リアナお姉ちゃん、編み方とか、道の見つけ方とか、なんでも知ってるよね。それって、セフィにも、そういうのが分かるようになるってこと?」
リアナは手を止め、少し考え込むような顔をした。
「そうねえ……セフィの力と、わたしが色々なんとなく分かることは、少し違う気もするけど……でも、根っこは同じかもしれないわね」
「セフィの力って、隅っこの人たちが見えることだよね」
「ええ。それって実は、ただ見えるだけじゃなくて、色んな段階があると思うの」
リアナは編みかけの籠を膝に置き、真剣な顔でセフィに向き直った。
「せっかくだから、少し整理してみましょうか。あなたの力を、きちんと育てていくために」
*
「まず一番目。『感応』」
リアナは指を一本立てた。
「感応?」
「気配を感じ取ること。今までのセフィは、向こうから話しかけられるのを、ただ待っているだけだったでしょう?」
「うん。急に見えたり、聞こえたりする」
「これからは、自分から耳を澄ませてみるの。目を閉じて、心を静かにして、『そこにいる?』って、自分から問いかけるように」
「そんなこと、できるの?」
「多分ね。今度、一緒に試してみましょう」
セフィは目を輝かせた。今まで一方的に向こうからやってくるものだと思っていた力が、自分から働きかけられるものかもしれないというのは、驚きだった。
「これができるようになると、どうなるの?」
「気配に気づくのが早くなると思うわ。今までは、相手がよほど強く訴えかけてこないと気づかなかったでしょう。でも、自分から探せるようになれば、もっと小さな声にも、気づいてあげられるようになるはずよ」
「小さい声も、聞き逃さなくなる」
「そう。それって、大事なことだと思わない?」
セフィは深く頷いた。老人の声が、最初はほとんど届かなかったことを思い出す。もしもっと早く、あの声に気づけていたら――そんな思いが、胸の奥をよぎった。
「二番目は、『対話』」
リアナは指をもう一本立てた。
「感じ取るだけじゃなくて、ちゃんと言葉を交わす練習。何を聞いていいのか、どこまで踏み込んでいいのか。それを、少しずつ覚えていくの」
「難しそう」
「最初はね。でも、セフィは、あのおじいさんとも、ちゃんと話せたでしょう? もう、少しずつできているのよ」
その言葉に、セフィは自信を取り戻したように、こくりと頷いた。
「対話にも、コツがあるの?」
「そうね……焦らないこと、かしら。相手は、こちらが思っている以上に、繊細な気持ちを抱えていることが多いから。急かしたり、無理に聞き出そうとしたりすると、心を閉ざしてしまうこともあるみたい」
「優しく、聞くってこと?」
「ええ、その通り。優しく、丁寧に。それが、対話の基本だと思うわ」
「三番目、『同調』」
「どうちょう?」
「死者の人が持っている記憶とか、技術とか、そういうものに、波長を合わせること。そうすると、その人が持っていたものの、ほんの一部を、受け取れることがあるかもしれない」
「わたしが編み方が分かったのも、それ?」
「多分、そうだと思うの。誰かの記憶が、ふっと、わたしの中に流れ込んできたような……そんな感覚だったから」
セフィは、目を丸くした。もしそうだとしたら、これから先、色んな死者たちから、様々なことを学べるかもしれない。想像すると、少しだけ、わくわくする気持ちが湧いてきた。
*
日が少し傾き、川面に落ちる木陰が、いくらか長くなっていた。涼しい風が、二人の間を吹き抜けていく。
「四番目が、多分一番大事で、一番難しいところ」
リアナは、編みかけの籠を、そっと膝の上に置き直した。
「『制御』。同調しすぎると、相手の想いに呑まれてしまうの。悲しみとか、後悔とか、そういうものに引きずられて、自分を見失ってしまう」
「呑まれちゃったら、どうなるの?」
「分からないわ。でも、多分、良くないことになる気がする」
リアナは、自分の両手を見下ろし、指先を、確かめるように、一度握って開いた。なぜそんな確信めいたことを言えるのか、自分でもよく分からない。それでも、その予感だけは、はっきりとしていた。
「セフィは、優しい子だから、余計に気をつけないといけないわ。誰かの悲しみを見ると、すぐに自分のことのように感じてしまうでしょう」
「うん……そうかも」
セフィは、視線を膝元に落とした。老人の悲しそうな顔を見るたびに、胸が締めつけられるように痛んだことを、思い出していた。
「だから、寄り添うことと、呑まれることは、違うって覚えておいてね。相手の気持ちを分かってあげることと、自分がその気持ちに乗っ取られてしまうことは、全然別のことなの」
「どうやったら、区別できるの?」
セフィが、眉を寄せ、リアナの目をまっすぐに見つめて尋ねた。リアナは、少し間を置いてから答えた。
「多分、自分の名前を、いつでも思い出せるかどうか、だと思うの。相手の悲しみに寄り添っていても、『わたしはセフィ』って、ちゃんと自分に戻ってこられるなら、それは大丈夫。でも、自分が誰だったか分からなくなりそうになったら、それは危ない兆候かもしれない」
「セフィは、セフィ」
セフィが自分に言い聞かせるように呟くと、リアナは、セフィの両手を、そっと包み込むように握った。
「そう。それを、いつも忘れないでいてね」
「寄り添うのは、いいけど、呑まれちゃ駄目」
セフィが繰り返すと、リアナは、握った手に、少しだけ力を込めた。
「そう。それが分かっていれば、大丈夫」
*
「最後、五番目。『顕現』」
「けんげん?」
「受け取ったものを、実際に体を動かすことに使う段階。技術を覚えたら、それを実際にやってみせられるように、練習していくの」
「セフィ、剣とか使えるようになるかな」
セフィが目を輝かせて尋ねると、リアナは笑った。
「さあ、どうかしら。でも、色んなことができるようになるかもしれないわね」
五つの段階を聞き終えて、セフィは頭の中を整理するように、指折り数えてみた。
「感応、対話、同調、制御、顕現……」
「そう、その通り。焦らず、一つずつ、一緒に進めていきましょう」
「リアナお姉ちゃんも、一緒にやるの?」
「ええ。わたしも、半人前だもの。二人で、一緒に頑張りましょう」
その言葉に、セフィは嬉しそうに笑った。一人で抱えるはずだった力を、こうして誰かと一緒に育てていけることが、何よりも心強かった。
「よし、じゃあ、明日から早速、修行だね!」
「ふふ、やる気満々ね。頼もしいこと」
「リアナお姉ちゃんは、修行、教えるの得意そう」
「あら、そう見える?」
「うん。すごく分かりやすかった」
セフィに褒められて、リアナは少し照れくさそうに頬を緩めた。
「そう言ってもらえると、嬉しいわ。実は、うまく説明できるか、少し不安だったの」
「そんな風に見えなかったよ」
「見えないように、頑張っていただけよ」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
「でも、本当に、無理はしないでね。制御が一番大事だって、さっき言ったばかりだから」
「うん、分かってる」
「約束よ」
「約束」
夕暮れの川面が、橙色に輝いていた。二人はその日の残りの時間、罠作りの手を動かしながら、明日からの修行について、あれこれと話し込んだ。どんな練習から始めるか、どこで試すか――そんな相談をしているだけで、セフィの胸には、これまでにない高揚感が広がっていた。
自分の力が、ただ怖いものではなく、育てていけるものなのだと知れたことが、何より嬉しかった。




