第三章:将軍の弟が殺された夜
駿河の東端、興国寺城の狭い執務室で、新九郎は日々、東から流れてくる噂話や素破(すっぱ・間者)の報告に耳を傾けていた。彼の視線の先にあるのは、狩野川が流れる緑豊かな伊豆半島である。
当時、伊豆には「堀越公方」という、奇妙な権力機構が存在していた。
室町幕府の足利将軍家が、関東を統治するために送り込んだ一族の出先機関である。いわば、将軍の「分家」が伊豆に割拠していたわけだが、これがもはや、中世の生んだ闇鍋のような存在になり果てていた。
その二代目公方である足利茶々丸という男が、伊豆の闇を決定的なものにする。
足利茶々丸は、凄まじい狂気を孕んだ男であった。
家督を巡る内紛の末、実の父である足利政知を幽閉し、義理の母と幼い弟を惨殺して、力ずくで公方の座を奪い取ったのである。
「茶々丸公方の苛政、もはや目に余りまする」
興国寺城に逃げ込んできた伊豆の百姓や、行き場を失った地侍・関戸吉信らは、新九郎の前で涙を流して訴えた。足利茶々丸は己の権力を維持するため、領民に法外な重税を課し、逆らう者は容赦なく処刑した。伊豆の国中は、怨嗟の声で満ち満ちていた。
通常の戦国武将であれば、ここで「隣国の危機は好機」とばかりに、すぐに兵を動かすところであろう。しかし、新九郎は動かなかった。じっと、盆栽の枝を剪定するような手つきで、時期を待ち続けた。
新九郎の脳内にあるのは、やはり「帳簿」である。
(いま、伊豆へ攻め込めば、私は単なる『野心に駆られた強盗』になる。それでは周辺の国人が結束して私を排除し、戦が長期化して財政が破綻する)
ここが、新九郎の知識人たる所以であった。中世という時代は、どれほど実態が伴っていなくとも、「名分(大義名分)」を重んじる。新九郎は、足利茶々丸を討つための「もっとも合理的な御免状(通行証)」を欲していた。無謀な賭けはしない。掴むべきは伊豆一国ではなく、その先の永続的な統治基盤であった。
その機会は、思いがけない形で京からもたらされる。
明応二年(1493年)、京の都で「明応の政変」という政変(政変劇)が勃発した。
管領の細川政元という有力大名が、時の将軍を排斥し、新たな将軍を擁立したのである。そして、新しく将軍の座に就いた足利義澄こそが、伊豆で足利茶々丸に惨殺されたあの「幼い弟」の実の兄であった。
「新九郎よ、京の将軍家より極秘の御内書(命令書)が届いたぞ」
駿河の甥・今川氏親が、興国寺城の新九郎のもとへ書状を持ってきた。そこには、新将軍・足利義澄からの、血を吐くような命令が記されていた。
――母と弟の仇である足利茶々丸を討て。伊豆を速やかに平定せよ。
新九郎は、書状を灯火の光に透かし、小さく笑った。
「盤面の最後の要素が、向こうから嵌まり込んできたな」
これで、新九郎は「隣国を侵略する悪党」ではなく、「上意(将軍の命令)を執行する正義の軍勢」という、無敵の看板を手に入れたのである。
さらにこの時期、伊豆の領民の間で、ある不思議な噂が流れていた。
『一匹の大きな鼠が、二匹の狐を食い殺し、やがて平野を駆け抜けるだろう』
というものである。
二匹の狐とは、関東の旧勢力である上杉氏とも、あるいは足利茶々丸の側近たちとも言われた。そして「大きな鼠」とは、新九郎が生まれた「子の年」を指している。
おそらく、新九郎自身が素破を使って流させた人心操作(流言)であろう。中世の人間は、こうした迷信や予言に極めて弱い。新九郎は、伊豆の人間たちの「心の隙間」に、あらかじめ己という存在を滑り込ませておいたのである。
(名分は立った。民の心も離れている。茶々丸の軍事力は……数えるほどもない)
新九郎は立ち上がり、興国寺城の武具蔵を開けさせた。星霜を重ねてなお鋭さを増すその眼眸に、迷いはなかった。筆を捨てて刀を握り、自らが新しい時代の主役となるべく、暗闇のなかで静かに牙を研ぎ始めた。
次章、第四章へ続く。
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