第二章:泣きつく姉、震える甥っ子
駿河という土地は、東西を結ぶ大動脈である東海道が、駿河湾の青い海と富士の白雪に挟まれるようにして走る、まことに風光明媚な国である。しかし、新九郎が足を踏い入れたときの駿河は、富士の山煙よりも不穏な気配に満ちていた。
文明九年(1477年)、今川家の当主・今川義忠が戦死し、その跡目を巡って国が真っ二つに割れていたのである。
新九郎が駿河の今川館に到着したとき、姉の北川殿は、我が子・龍王丸(りゅうおうまる・のちの今川氏親)を抱きかかえるようにして震えていた。
「新九郎、よくぞ来てくれました。今川の譜代の者どもは、幼い龍王丸を侮り、一族の小鹿範満を次期当主に担ぎ上げようとしております。このままでは、私たちは殺されます」
北川殿の訴えは切実であった。
中世の武士団というのは、突き詰めれば「土地の利権共同体」である。頭領が幼少であれば、他国からの侵略に耐えられない。だからこそ、譜代の家臣たちは、壮健な一族の年長者である小鹿範満を望んだ。これは武士の論理としては、極めてまっとうな生存本能であった。
(力でねじ伏せるのは愚策であるな)
新九郎は、駿河の国人(地元の国人領主)たちの顔ぶれを見ながらそう計算した。
このとき、新九郎が引き連れてきたのは、京から付き従ってきた僅かな手下のみである。今川の屈強な武者たちと正面から戦えば、一溜まりもない。
余談ながら、大局的な視点で見れば、戦国時代の幕開けにおける「調停」とは、のちの時代のそれとは性質が異なる。後世の調停は利害の妥協であるが、この時代の新九郎が行ったのは、いわば「法理の持ち込み」であった。彼は京の最高官僚の家系である。室町幕府の法律や、大名家が最も反論しにくい「大義名分」を構築する技術において、駿河の田舎武士たちなど足元にも及ばなかった。
新九郎は、小鹿範満の陣営と、龍王丸を支持する陣営の双方の代表者を呼び集めた。
「皆々、言い分は分かった。だが、考えてもみよ。今川家がここで内輪揉めを続ければ、隣国の甲斐の武田氏や伊豆の上杉氏が黙って見ておると思うか。駿河は一瞬にして他国に貪り食われよう」
新九郎の言葉は冷徹であった。感情論ではなく、地勢的な危機を突きつけたのである。武士たちは顔を見合わせた。小鹿範満派の重臣、三浦茂高が進み出て訊ねた。
「では、どうするのだ。新九郎殿。我らは国の弱体化を恐れておるのだ」
「調停案がある。龍王丸様が成人されるまでは、小鹿範満殿が『家督代行』として政務を執る。龍王丸様が元服された暁には、正当な血統として家督を譲る。これを幕府の公式な裁定とし、両派ともに矛を収めよ」
この提案は、双方にとって絶妙であった。小鹿範満派にとっては差し当たっての権力が手に入り、龍王丸派にとっては将来の正当性が担保される。なにより、「京の室町幕府の意向」を熟知している新九郎が保証人になるという。国人たちは、この京の知識人の智恵に感服し、渋々ながらもこの案を呑んだ。
新九郎は、自らの武力が皆無に等しいという極限の制約の中で、「大義名分」と「隣国の脅威」という外在的な構造を敵の脳内に配置し、対立を無血で融解させたのである。
こうして、駿河の一大危機は、一滴の血も流されることなく、書類と交渉だけで解決した。
しかし、新九郎の目が優しく笑うことはなかった。彼は知っていた。人間の欲望というものは、時が経てば契約書など容易に食い破るということを。事実、長享元年(1487年)、成人して今川氏親と名乗るようになった龍王丸に小鹿範満は家督を返そうとせず、新九郎はふたたび駿河へ下向し、今度は容赦なく小鹿範満を武力で討ち果たすことになる。
しかし、この最初の調停の功績により、新九郎は今川家から一つの領地を与えられた。
駿河の東端、伊豆国との国境に位置する「興国寺城」である。
城、というよりは、沼地に囲まれた貧弱な砦に過ぎなかった。しかし、新九郎にとっては、人生で初めて手に入れた「己の領地」であった。
興国寺城の物見櫓に立った新九郎は、東の空を見つめた。
そこには、箱根の険しい山々が屏風のようにそびえ立ち、その向こうには広大な関東平野が眠っている。そして、新九郎の足元にある伊豆国では、新たな「中世の狂気」が頭をもたげつつあった。
次章、第三章へ続く。
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