表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

第九話 紙と鉛筆

◇◇



 ことはのボイスメッセージを、毎朝聞いている。


 目が覚める。スマホを取る。LINEを開く。ことはとのトーク画面を探す。見つかるまでの時間が毎日長くなっている。名前が薄くなっている。プロフィール画像は灰色の人型になった。でもメッセージは残っていた。


 ことはが消えた翌朝。一日目。


「りっかー! 今日ひま? チャーちゃんに会いに行こ! あのね、昨日バイトの帰りにコンビニの裏にいたの。首のとこに模様あるの見つけてさ、あれ名前つけたい。りっかが決めて!」


 クリア。全部ある。息遣い。声の真ん中。笑い声の尻尾。全部ある。布団の中で目を閉じて聞いた。ことはの声が耳の奥に触れた。鼓膜が震えている。生きている音だった。


 もう一度再生した。同じだった。二度目も。三度目も。


 保存フォルダに入れた。


 三日目の朝。


「りっ——ー! 今日ひ——? チャーちゃんに会い——こ!」


 声の真ん中が消えている。芯が抜けた。笑い声のところが途切れている。「名前つけたい」の部分がまるごと落ちた。ことはの声の特徴は高さだった。教室の端まで届く、あの高さ。高さだけが残っている。


 スマホを耳に押し当てた。骨で聞こえるだろうか。側頭骨に画面を押しつけた。聞こえなかった。


 五日目の朝。


 再生ボタンを押した。


 七秒間の無音。その後、砂嵐。ノイズの奥に、ことはの声の高さだけが微かに残っている。音程だけ。ことはの高さだけ。言葉じゃない。


 何度もボタンを押した。毎回同じだった。


 六日目以降。


 再生ボタンを押す。七秒の無音。指だけが覚えている。毎朝、同じボタンを押す。布団から出る前に。歯を磨く前に。


 何も聞こえない。骨も脳も補正しない。ただ押す。





 八月三十一日。九月一日。九月二日。


 あたしは毎日学校に行った。夏休みの補習。演劇部の朝練。教室。廊下。階段。行ったけど、何をしたのか覚えていない。朝練で発声練習をした。空の講堂に声を出した。自分の声だけが返ってきた。あたしの脳がことはを忘れないために、他の全部を忘れていた。


 商店街には行けなかった。煎餅屋の前。チャーちゃんがいる場所。ことはが消えた場所。足が向かない。駅まで遠回りして、商店街の方向に背を向けて通った。


 一度だけ、ぼんやりしていて気がついたら商店街の入り口に立っていた。


 煎餅屋が——ない。


 シャッターが下りているのではない。空間が違う。あった場所に壁だけがあった。のれんも、看板も、焼きたての匂いも消えている。最初からそこにはなかったような壁だった。


 走って帰った。


 学校の廊下。まどかとすれ違った。あの日から三日後。


「まどか」


 声をかけた。まどかが立ち止まった。顔が白かった。


「ことはのこと、覚えてる?」


 言おうとしたのではなかった。口が勝手に動いた。確かめたかった。


「……ことは?」


 まどかの声が薄かった。


 先月。河原で三人で猫を探した。ことはがコンビニでアイスを三つ買ってきて、まどかが「溶ける」と言いながら走って、ことはが「まどかちゃん足遅い!」と笑って——同じクラスなのに、あの日まで話したことがなかった。


「……誰だっけ。名前は知ってる。でも——」


 まどかの目が揺れた。名前は残っている。でも、何をしたか、どんな声だったかが消えかけている。同じ教室に一年いたのに。


「うちのクラスだよ。窓際の三列目。毎日いたんだよ」


「……あ」


 まどかが教室の方を見た。何かを思い出そうとして、思い出せない顔だった。


 あの日からまどかが来なくなった。



◇◇



 つむぎの部屋。夜。


 僕は鉛筆を握っている。


 検算に一週間かかった。一日目、二行目で手が止まった。変数の定義に戻った。読み直した。合わない。最初からやり直した。


 三日目。五ページ目の変換が合わなくて全てを書き直した。前提は正しい。導出も正しい。なのに五ページ目で矛盾する。矛盾が消えるまで書き直した。十ページ。十二ページ。


 五日目。鉛筆の芯が折れた。もう一本。もう一本。三本折れた。削りカスが机に散らばった。吹かなかった。そのまま書いた。木の屑の上にノートを置いて書いた。


 六日目の深夜、完成した。赤いペンで全行に「合」と書いた。


 結論は一行。合ってる。


 個別の式は全部正しい。一行目から最終行まで、どの変換も間違っていない。なのに全体を見ると、ことはがいない。正しい式の集合が、正しい結論を導いて、その結論がことはを消した。


 正しさが人を壊す。


 僕は不完全な検算者だ。不完全な検算者が、不完全な証明を検算した。結論は「合ってる」。だがその結論自体が合っているかは——僕には確かめられない。僕自身が第二不完全性定理の存在そのものだ。


 それでも「合ってる」と書いた。嘘は書けない。検算者が嘘を書いたら、あいつの足場が全部なくなる。


 これは検算ではない。信仰だ。


 零崎先生に会いに行った。施設の面会室。先生は椅子に座っていた。白髪が増えていた。


「検算が終わりました。合ってます」


 先生は黙っていた。しばらくして——


「君の検算が、彼女たちの選択肢を狭めている」


 声が低かった。先生の目が僕を見ていた。目が据わっていた。


「正しい検算を渡せば、十六夜さんは自分の正しさを確認する。自分が正しく世界を壊していることを、知る。嘘なら——まだ逃げ道がある」


「嘘は書けません」


「知っている。だから言っている」


 先生が窓の外を見た。


「正しさの暴力というものがある。君はそれを行使する側だ」


 手が震えた。ノートを膝の上で握った。僕の正しさが、あいつの正しさを支えて、あいつの正しさがあいつを壊す。


 鉛筆をもう一本買った。帰り道のコンビニで。HBを二本。明日も折れるから。



◇◇



      まどか


 天井が白い。


 白い天井が、ホワイトボードに見える。


 閉じた。目を。閉じた方がよく見える。瞼の裏に式が並ぶ。零崎先生の古典化のパターン。どこが弱いか。どこに干渉すれば崩せるか。解が頭の中で組み上がっていく。面白い。面白い。面白い。面白い。


 やめたい。


 「面白い」をやめたい。


 ことはちゃんが消えた。あたしが式を書いたから。あたしが書いた式を宇宙が読んで、宇宙が応答して、その応答が空間を圧縮して、圧縮した空間にいたことはちゃんが確定されて——消えた。


 因果関係は証明できる。つむぎの検算が合っている。合っているのは知っている。つむぎが持ってくる前から知っている。あたしの式だから。あたしの式が正しいことは、あたしが一番よく知っている。


 正しくなければよかった。


 二日目の夜。壁に向かっていた。手が動いていた。赤いマーカー。式を書いていた。書き終わってから気づいた。ことはちゃんが消えたときの——B値の確定パターンを記述していた。空間圧縮が人体に到達したときの、値の遷移を。正確に。美しく。


 美しかった。


 吐いた。床に。何も食べていないから胃液だけだった。酸っぱかった。吐きながら壁の式を見ていた。吐いても式は消えなかった。吐いても「美しい」は消えなかった。


 あたしは怪物だ。友達が消えた過程を式にして、美しいと思った。


 三日目の朝。目を開けたら壁に式が書いてあった。あたしの字。赤いマーカー。いつ起きたのかわからない。いつマーカーを取ったのかわからない。手が赤い。指の皮が擦り切れている。


 知ってた。寝ている間に書いたのではなく、書いている間に意識がなかっただけだ。


 あたしの脳は止まらない。面白いものを見つけたら解析が始まる。呼吸と同じ。止められない。止めようとしたら窒息する。あたしは数学を呼吸している。呼吸するたびに世界が壊れる。


 壁の式を消した。手で擦った。赤いインクが手のひらに移った。消えなかった。壁に赤い跡が残った。上から別の式を書いた。消すために書いたのか、書くために消したのか、わからない。


 五日目。りっかのことを考えた。


 りっかの名前をノートに書きかけて、止めた。消した。


 あたしが式を書くと世界が変わる。りっかの名前を式の文脈で書いたら——りっかが変数になる。変数になったら操作対象になる。操作対象は消える。ことはちゃんみたいに。


 りっかをあたしの数学から遠ざけなければならない。遠ざけるには、あたしからりっかを切るしかない。


 八日目の夜。スマホを見た。りっかからの着信履歴が並んでいた。LINEの未読が十二。全部読めない。読んだら返したくなる。返したら会いたくなる。会ったらりっかの顔を見る。りっかの顔を見たら——あたしの脳がりっかを解析する。りっかのB値を、りっかの矛盾耐性の構造を、自動的に。止められない。呼吸だから。


 LINEに「来ないで」と打った。二文字。送る前に一度消して、もう一度打って、送った。


 あたしが怪物だから来ないでくれ、という意味と、あたしの数学にりっかを巻き込みたくないから来ないでくれ、という意味が、同時にあった。


 両方本当だった。矛盾している。でも両方本当だった。


 壁に「怪物」と書いた。消した。上から式を書いた。


 ことはちゃんの声が聞こえた。頭の中で。でかい声。何を言っていたか思い出せない。名前だけ覚えている。遠野ことは。顔が——ぼやける。声量だけが残っている。


 覚えていられない。りっかなら覚えている。りっかは覚えているはずだ。りっかだけは。


 天井が低くなっている——気がする。壁が近い。昨日より。一昨日より。式を書くたびに壁が迫ってくる。あたしの式が部屋を食べているのか。部屋があたしを食べているのか。——わからない。目を閉じても天井が白い。開けても白い。どちらが本当かわからない。


 面白い。


 やめろ。



◇◇



 自転車で海に行こうとした。道が短かった。三十分かかるはずの距離が十五分で着いた。岬がなかった。帰り道はもっと短かった。


 世界が痩せている。





 九月一日。午後。公園のベンチ。


 つむぎくんが座っていた。白い表紙のノートを膝に置いている。子供がいなかった。ブランコが風で揺れていた。


「これ」


 ノートを差し出された。


「検算の結果が入ってる。あいつの数学は壊れてない」


「つむぎくん自分で持っていかないの」


 沈黙。ブランコの鎖が軋んだ。


「行けない。このノートを読んだら、あいつは壊れる。合ってるから。正しいから」


 つむぎくんの声が震えていた。初めて聞いた。


「……嘘は書けなかったんだ」


 あたしはノートを受け取った。重かった。紙とインクの重さじゃなかった。





 まどかの家は駅の反対側にある。住宅街。二階建て。庭に植木。去年の夏、この庭でまどかとスイカを食べた。芹香さんが切ってくれた。まどかの母さん。


 チャイムを押した。


 芹香さんが出た。やつれていた。頬の肉が落ちていた。目の下にクマがあった。


「部屋に行ってみて」


 声が小さかった。


 階段を上がった。ドアの前にトレーが置いてあった。朝ごはん。味噌汁が冷めて膜が張っている。ご飯が乾いている。箸が割ったまま置いてある。手をつけていない。


 トレーの横に赤いマーカーが一本。キャップが外れたまま転がっていた。先端が乾いて、白いトレーに赤い筋がついている。廊下の蛍光灯がその赤を照らしていた。


 ノックした。


 返事がなかった。


「まどか。あたしだよ」


 返事がなかった。


「つむぎくんからノート預かってきた。検算の結果」


 沈黙。ドアの向こうで何かが動く気配。


 ドアが開いた。十センチ。


 隙間からまどかの顔が見えた。


 息が止まった。


 髪がぼさぼさだった。何日も洗っていない。顔が蛍光灯の下の紙みたいに白かった。目の下のクマが濃い。唇の皮が剥けている。爪が伸びていた。部屋の中から、寝汗と澱んだ空気の匂いが漏れた。


 でも——一瞬。まどかの顔が緩んだ。あたしの名前を呼ぶ前の、一瞬だけ。


「……りっか」


 声がかすれていた。何日も誰とも話していない声。


「入っていい?」


 ドアが開いた。


 部屋は暗かった。カーテンが全部閉まっていた。壁際に折りたたみのホワイトボード。赤いマーカーで震えた字。途中で止まっている式。何行も書いては消し、書いては消した痕跡。完成できない式。完成させると世界が壊れるから。


 赤いマーカーが床に散乱していた。五本。六本。全部キャップが外れている。まどかの指先が赤かった。インクじゃなかった。マーカーを握りすぎて擦り切れた皮膚の色だった。


「まどか」


 ノートを差し出した。


「つむぎくんが一週間かけて検算した。合ってるって」


 まどかがノートを見た。手を伸ばさなかった。


「知ってる」


 声が平らだった。体が震えていたが、声は平らだった。


「証明は正しい。正しいから、あたしが宇宙に参照されてるのも正しい。式を書くたびに縮約が加速するのも正しい。——正しいことだけが、世界を壊せる」


「それは——」


「論理的に正しい。反論できる?」


 反論できなかった。


「ことはが消えたのも。りっかが透けかけたのも。全部あたしが式を書いたから。あたしが書かなければ——少なくとも加速はしなかった」


 まどかの声には怒りがなかった。悲しみもなかった。数式の結論を読み上げるような声だった。


「あたしの近くにいないで」


 まどかの手がドアノブを掴んだ。閉めようとしていた。赤い指がノブの金属に張りついていた。


 体が凍った。


「近くにいると消える。りっかも。つむぎも。よはんも。あたしが生きているだけで、みんなが——少しずつ。確定しない状態で壊れていく」


「まどか」


 まどかがベッドの端に座った。膝を抱えた。顔を埋めた。あたしの方を見なくなった。


 あたしは動かなかった。部屋の真ん中に立ったまま。まどかが顔を上げるのを待つつもりはなかった。待ったって上げない。知ってる。


 座った。床に。まどかの前に。靴下のまま。


 鞄からカットスイカを出した。コンビニの袋のまま。来る途中で買った。去年この庭で食べたのと同じ形のやつ。


 まどかの前で座った。一切れ食べた。種を手のひらに出した。冷たくて甘かった。


「おいしい」


 まどかは何も言わなかった。でも目を逸らさなかった。


 もう一切れ食べた。汁が顎を伝った。スイカの汁が指に残った。赤い。拭かなかった。


 残りのスイカとノートを机の上に置いた。ドアを開いた。振り返った。


 まどかはベッドの上で膝を抱えていた。小さかった。部室のまどかより。ホワイトボードの前のまどかより。小さかった。指先だけが赤かった。


 ドアを閉めた。


 廊下で壁に背をつけた。背中の冷たさが脊椎を伝った。膝が震えた。足が滑った。靴の裏がフローリングをかいた。


 あの商店街の一瞬が浮かんだ。ことはが消えた瞬間——あたしの目が逸れた。まどかの瞳にあたしが映っていた。あたしはまどかの手を取った。ことはじゃなく、まどかの手を。


 あたしが選んだ。


 階段の途中で、芹香さんが立っていた。盆を持っていた。昼ごはんを運ぼうとしていた。


「……食べないの」


 芹香さんに向けた言葉じゃなかった。独り言だった。


「トレーに手がついてなくて」


「三日目」


 芹香さんの声が掠れた。


「三日、何も食べてないの。水は飲んでる。でも——」


 芹香さんの手が震えていた。盆の上の味噌汁の表面が揺れていた。


「あたし、また来ます」


「……ありがとう」


 玄関を出た。庭の植木が一本減っていた。去年あった百日紅がない。根元から消えている。土だけがある。





 九月になった。新学期。


 教室。朝礼。まどかの席が空いていた。先生が「十六夜は体調不良で」と言ったが、先生の名前が出てこなかった。一学期には覚えていた。今は顔と眼鏡と授業の声だけ。名前が消えている。


 クラスの席がさらに空いていた。壁際の一番後ろ。誰が座っていたのか思い出せない。


 窓際の三列目。ことはの席。机がなかった。椅子もなかった。空いているのではなく、最初から何も置かれていなかったように、床だけがあった。


 誰も気づいていなかった。あたし以外。


 放課後。部室の前を通った。ドアが開いていた。


 よはんさんがいた。一人で。窓際の椅子に座って、本を読んでいた。制服を正確に着ている。何も変わっていない。でも——ブラウスのボタンが一つ、掛け違えそうになっていた。直しかけて、やめたような位置で止まっている。


「よはんさん」


「ああ、六花さん」


「毎日ここにいるの?」


「ええ。いつも通りに」


「まどかも、つむぎくんも来ないのに?」


「来ないから、います」


 左の袖を握っていた。指が真っ白だった。


「誰も来ない場所にいても、場所は残ります。僕がここにいれば、この部室は存在します」


「……よはんさんは」


「六花さん。僕は悲しむことができません」


 本を閉じた。


「悲しむと——爆弾になります。僕の中の論理膜が、感情に反応して不安定になる。だから感情を止めています。ことはさんが消えたことも。十六夜さんが苦しんでいることも。六花さんが泣いていることも。知っています。知っていて、感じないようにしています」


 よはんさんの声は平らだった。まどかの声と同じ平らさだった。でも違った。


「六花さん。四値論理を教えます。いいですか」





 公園のベンチ。夕暮れ。空が低い。九月の空は八月より近い。


 よはんさんが横に座った。ノートを広げた。鉛筆を渡された。つむぎくんの鉛筆より短かった。


「T。真。F。偽。ここまでは二値です」


 よはんさんが書いた。字がきれいだった。定規で引いたみたいに。


「N。真でも偽でもない。未決定。B。真かつ偽。矛盾」


「矛盾って——壊れてるってことじゃないの」


「いいえ。階段が十三段であり十二段でもある。同時に。それでも階段は存在します。壊れているのではなく、両方あるんです」


 よはんさんがあたしの手を見た。


「六花さんの手。論理膜に近いものを持っています。B値を壊さず安定させる。触れたものの矛盾を、そのまま受け止める」


 あたしの手を見た。ことはを掴めなかった手。まどかの冷たい手を握った手。


「あたしは——何」


「全部です。T・F・N・B。矛盾と可能性を、同時に」


 わからなかった。でも手のひらが少しだけ温かくなった。



◇◇



      よはん


 六花さんの手は温かかった。


 僕にはないものだ。論理膜の内側には温度がない。正確に言えば、あるが変化しない。僕の体温は常に一定だ。一定でなければ膜が揺れる。揺れれば漏れる。漏れれば——消える。二月から、ずっとそうだ。


 六花さんは揺れている。いつも。揺れているのに壊れない。矛盾を抱えて揺れて、揺れたまま温かい。


 あの温かさが欲しいのではない。あの温かさが在ることが、僕を安心させる。僕が消えても、あの温かさは残る。それだけで——十分だ。


 窓の外を見た。空が低い。八月より低い。


 袖を握った。右手で。左袖を。ボタンを確認した。五つ。一つは八月に落ちた。残りの五つが留まっている。留まっている限り、僕はここにいる。



◇◇



      六花


 商店街に行った。


 看板がさらにぼやけていた。「○○商店街」の文字の大半が消えている。「商」の一文字だけが残っていた。煎餅屋のあった場所には壁だけ。


 河原に下りた。


 チャーちゃんを探した。ことはが名前をつけた猫。茶色い毛。首に模様がある。


 見つからなかった。草が長かった。膝の高さ。八月のあの日と同じ草。同じ河原。ことはがいない。


 白い猫が近づいてきた。チャーちゃんじゃない。知らない猫。でもあたしの足首に頬を擦りつけた。


 背中を撫でた。毛の下に体温があった。心臓が動いていた。肋骨の下で、小さな心臓が。


 ことはの体温を思い出そうとした。握り返された手の強さ。日焼けした腕。爪が短かった。猫を撫でていた手。


 猫の体温で泣いていた。この温かさはことはの温かさじゃない。でも温かかった。


 猫が去った。指から温度が消えた。


 スマホを見た。写真が残っていた。あたしの横顔。ことはが撮った写真。撮った子がいないだけだ。


 LINEを開いた。ことはのトーク画面。履歴が薄くなっていた。最後の一通——「りっか、今日たのしかった!」——の文字が霞んでいた。フォントが透けている。背景の白に溶けかけている。


 スクリーンショットを撮った。撮れたかどうかわからない。


 翌日も動けなかった。





 つむぎくんを見かけた。


 学校の帰り道。文房具屋の前。ガラス越しに見えた。鉛筆を選んでいた。HBを三本。レジに持っていった。


 いつもの2Bじゃなかった。


 声をかけなかった。


 つむぎくんのシャツのポケットに鉛筆が一本刺さっていた。芯が折れていた。折れたまま刺してあった。毎日折れて、毎日買い替えている。


 声をかけられなかった。





 夜。まどかに電話した。


 呼び出し音が鳴った。五回。六回。七回。出ない。


 切れた。


 もう一度かけた。今度は三回で切れた。まどかが切った。


 LINEにメッセージが来た。


「来ないで」


 二文字。


 スマホを布団の上に置いた。天井を見た。


 ことはを失った。まどかも失った。


 天井の模様が滲んでいた。泣いているのだと気づくまでに時間がかかった。





 ノートを開いた。


「ことはへ」と書いた。


 鉛筆が進まなかった。


 祭りの夜は書けた。全部書けた。焼きそば、りんご飴、提灯、ことはの手の温度、全部書き切った。ノートが足りないくらいだった。


 今、一文字も進まない。「ことはへ」の「へ」の先に何を書けばいいかわからない。


 ことはの顔を思い出そうとした。思い出せる。まだ覚えている。笑った顔。走った後の顔。猫を撫でている顔。ぜんぶ覚えている。


 でもまどかは覚えていない。つむぎくんも、たぶん薄くなっている。


 あたしだけだ。


 鉛筆を置いた。


 家を出た。夜の道。九月の空気が首筋に冷たかった。


 足が動いた。走った。


 あの日はまどかと二人だった。まどかの靴底の硬い音があった。かつ、かつ、かつ。まどかの手が冷たかった。手首の骨があたしの掌に食い込んでいた。


 今はない。あたしのサンダルだけ。ぺた、ぺた、ぺた。


 一人の足音が夜に響いた。


 あたしだけが覚えている。だから走らなきゃいけない。


 一人で。



---



 まどかのノート なし。


 九話にノートはない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ