第九話 紙と鉛筆
◇◇
ことはのボイスメッセージを、毎朝聞いている。
目が覚める。スマホを取る。LINEを開く。ことはとのトーク画面を探す。見つかるまでの時間が毎日長くなっている。名前が薄くなっている。プロフィール画像は灰色の人型になった。でもメッセージは残っていた。
ことはが消えた翌朝。一日目。
「りっかー! 今日ひま? チャーちゃんに会いに行こ! あのね、昨日バイトの帰りにコンビニの裏にいたの。首のとこに模様あるの見つけてさ、あれ名前つけたい。りっかが決めて!」
クリア。全部ある。息遣い。声の真ん中。笑い声の尻尾。全部ある。布団の中で目を閉じて聞いた。ことはの声が耳の奥に触れた。鼓膜が震えている。生きている音だった。
もう一度再生した。同じだった。二度目も。三度目も。
保存フォルダに入れた。
三日目の朝。
「りっ——ー! 今日ひ——? チャーちゃんに会い——こ!」
声の真ん中が消えている。芯が抜けた。笑い声のところが途切れている。「名前つけたい」の部分がまるごと落ちた。ことはの声の特徴は高さだった。教室の端まで届く、あの高さ。高さだけが残っている。
スマホを耳に押し当てた。骨で聞こえるだろうか。側頭骨に画面を押しつけた。聞こえなかった。
五日目の朝。
再生ボタンを押した。
七秒間の無音。その後、砂嵐。ノイズの奥に、ことはの声の高さだけが微かに残っている。音程だけ。ことはの高さだけ。言葉じゃない。
何度もボタンを押した。毎回同じだった。
六日目以降。
再生ボタンを押す。七秒の無音。指だけが覚えている。毎朝、同じボタンを押す。布団から出る前に。歯を磨く前に。
何も聞こえない。骨も脳も補正しない。ただ押す。
◇
八月三十一日。九月一日。九月二日。
あたしは毎日学校に行った。夏休みの補習。演劇部の朝練。教室。廊下。階段。行ったけど、何をしたのか覚えていない。朝練で発声練習をした。空の講堂に声を出した。自分の声だけが返ってきた。あたしの脳がことはを忘れないために、他の全部を忘れていた。
商店街には行けなかった。煎餅屋の前。チャーちゃんがいる場所。ことはが消えた場所。足が向かない。駅まで遠回りして、商店街の方向に背を向けて通った。
一度だけ、ぼんやりしていて気がついたら商店街の入り口に立っていた。
煎餅屋が——ない。
シャッターが下りているのではない。空間が違う。あった場所に壁だけがあった。のれんも、看板も、焼きたての匂いも消えている。最初からそこにはなかったような壁だった。
走って帰った。
学校の廊下。まどかとすれ違った。あの日から三日後。
「まどか」
声をかけた。まどかが立ち止まった。顔が白かった。
「ことはのこと、覚えてる?」
言おうとしたのではなかった。口が勝手に動いた。確かめたかった。
「……ことは?」
まどかの声が薄かった。
先月。河原で三人で猫を探した。ことはがコンビニでアイスを三つ買ってきて、まどかが「溶ける」と言いながら走って、ことはが「まどかちゃん足遅い!」と笑って——同じクラスなのに、あの日まで話したことがなかった。
「……誰だっけ。名前は知ってる。でも——」
まどかの目が揺れた。名前は残っている。でも、何をしたか、どんな声だったかが消えかけている。同じ教室に一年いたのに。
「うちのクラスだよ。窓際の三列目。毎日いたんだよ」
「……あ」
まどかが教室の方を見た。何かを思い出そうとして、思い出せない顔だった。
あの日からまどかが来なくなった。
◇◇
つむぎの部屋。夜。
僕は鉛筆を握っている。
検算に一週間かかった。一日目、二行目で手が止まった。変数の定義に戻った。読み直した。合わない。最初からやり直した。
三日目。五ページ目の変換が合わなくて全てを書き直した。前提は正しい。導出も正しい。なのに五ページ目で矛盾する。矛盾が消えるまで書き直した。十ページ。十二ページ。
五日目。鉛筆の芯が折れた。もう一本。もう一本。三本折れた。削りカスが机に散らばった。吹かなかった。そのまま書いた。木の屑の上にノートを置いて書いた。
六日目の深夜、完成した。赤いペンで全行に「合」と書いた。
結論は一行。合ってる。
個別の式は全部正しい。一行目から最終行まで、どの変換も間違っていない。なのに全体を見ると、ことはがいない。正しい式の集合が、正しい結論を導いて、その結論がことはを消した。
正しさが人を壊す。
僕は不完全な検算者だ。不完全な検算者が、不完全な証明を検算した。結論は「合ってる」。だがその結論自体が合っているかは——僕には確かめられない。僕自身が第二不完全性定理の存在そのものだ。
それでも「合ってる」と書いた。嘘は書けない。検算者が嘘を書いたら、あいつの足場が全部なくなる。
これは検算ではない。信仰だ。
零崎先生に会いに行った。施設の面会室。先生は椅子に座っていた。白髪が増えていた。
「検算が終わりました。合ってます」
先生は黙っていた。しばらくして——
「君の検算が、彼女たちの選択肢を狭めている」
声が低かった。先生の目が僕を見ていた。目が据わっていた。
「正しい検算を渡せば、十六夜さんは自分の正しさを確認する。自分が正しく世界を壊していることを、知る。嘘なら——まだ逃げ道がある」
「嘘は書けません」
「知っている。だから言っている」
先生が窓の外を見た。
「正しさの暴力というものがある。君はそれを行使する側だ」
手が震えた。ノートを膝の上で握った。僕の正しさが、あいつの正しさを支えて、あいつの正しさがあいつを壊す。
鉛筆をもう一本買った。帰り道のコンビニで。HBを二本。明日も折れるから。
◇◇
まどか
天井が白い。
白い天井が、ホワイトボードに見える。
閉じた。目を。閉じた方がよく見える。瞼の裏に式が並ぶ。零崎先生の古典化のパターン。どこが弱いか。どこに干渉すれば崩せるか。解が頭の中で組み上がっていく。面白い。面白い。面白い。面白い。
やめたい。
「面白い」をやめたい。
ことはちゃんが消えた。あたしが式を書いたから。あたしが書いた式を宇宙が読んで、宇宙が応答して、その応答が空間を圧縮して、圧縮した空間にいたことはちゃんが確定されて——消えた。
因果関係は証明できる。つむぎの検算が合っている。合っているのは知っている。つむぎが持ってくる前から知っている。あたしの式だから。あたしの式が正しいことは、あたしが一番よく知っている。
正しくなければよかった。
二日目の夜。壁に向かっていた。手が動いていた。赤いマーカー。式を書いていた。書き終わってから気づいた。ことはちゃんが消えたときの——B値の確定パターンを記述していた。空間圧縮が人体に到達したときの、値の遷移を。正確に。美しく。
美しかった。
吐いた。床に。何も食べていないから胃液だけだった。酸っぱかった。吐きながら壁の式を見ていた。吐いても式は消えなかった。吐いても「美しい」は消えなかった。
あたしは怪物だ。友達が消えた過程を式にして、美しいと思った。
三日目の朝。目を開けたら壁に式が書いてあった。あたしの字。赤いマーカー。いつ起きたのかわからない。いつマーカーを取ったのかわからない。手が赤い。指の皮が擦り切れている。
知ってた。寝ている間に書いたのではなく、書いている間に意識がなかっただけだ。
あたしの脳は止まらない。面白いものを見つけたら解析が始まる。呼吸と同じ。止められない。止めようとしたら窒息する。あたしは数学を呼吸している。呼吸するたびに世界が壊れる。
壁の式を消した。手で擦った。赤いインクが手のひらに移った。消えなかった。壁に赤い跡が残った。上から別の式を書いた。消すために書いたのか、書くために消したのか、わからない。
五日目。りっかのことを考えた。
りっかの名前をノートに書きかけて、止めた。消した。
あたしが式を書くと世界が変わる。りっかの名前を式の文脈で書いたら——りっかが変数になる。変数になったら操作対象になる。操作対象は消える。ことはちゃんみたいに。
りっかをあたしの数学から遠ざけなければならない。遠ざけるには、あたしからりっかを切るしかない。
八日目の夜。スマホを見た。りっかからの着信履歴が並んでいた。LINEの未読が十二。全部読めない。読んだら返したくなる。返したら会いたくなる。会ったらりっかの顔を見る。りっかの顔を見たら——あたしの脳がりっかを解析する。りっかのB値を、りっかの矛盾耐性の構造を、自動的に。止められない。呼吸だから。
LINEに「来ないで」と打った。二文字。送る前に一度消して、もう一度打って、送った。
あたしが怪物だから来ないでくれ、という意味と、あたしの数学にりっかを巻き込みたくないから来ないでくれ、という意味が、同時にあった。
両方本当だった。矛盾している。でも両方本当だった。
壁に「怪物」と書いた。消した。上から式を書いた。
ことはちゃんの声が聞こえた。頭の中で。でかい声。何を言っていたか思い出せない。名前だけ覚えている。遠野ことは。顔が——ぼやける。声量だけが残っている。
覚えていられない。りっかなら覚えている。りっかは覚えているはずだ。りっかだけは。
天井が低くなっている——気がする。壁が近い。昨日より。一昨日より。式を書くたびに壁が迫ってくる。あたしの式が部屋を食べているのか。部屋があたしを食べているのか。——わからない。目を閉じても天井が白い。開けても白い。どちらが本当かわからない。
面白い。
やめろ。
◇◇
自転車で海に行こうとした。道が短かった。三十分かかるはずの距離が十五分で着いた。岬がなかった。帰り道はもっと短かった。
世界が痩せている。
◇
九月一日。午後。公園のベンチ。
つむぎくんが座っていた。白い表紙のノートを膝に置いている。子供がいなかった。ブランコが風で揺れていた。
「これ」
ノートを差し出された。
「検算の結果が入ってる。あいつの数学は壊れてない」
「つむぎくん自分で持っていかないの」
沈黙。ブランコの鎖が軋んだ。
「行けない。このノートを読んだら、あいつは壊れる。合ってるから。正しいから」
つむぎくんの声が震えていた。初めて聞いた。
「……嘘は書けなかったんだ」
あたしはノートを受け取った。重かった。紙とインクの重さじゃなかった。
◇
まどかの家は駅の反対側にある。住宅街。二階建て。庭に植木。去年の夏、この庭でまどかとスイカを食べた。芹香さんが切ってくれた。まどかの母さん。
チャイムを押した。
芹香さんが出た。やつれていた。頬の肉が落ちていた。目の下にクマがあった。
「部屋に行ってみて」
声が小さかった。
階段を上がった。ドアの前にトレーが置いてあった。朝ごはん。味噌汁が冷めて膜が張っている。ご飯が乾いている。箸が割ったまま置いてある。手をつけていない。
トレーの横に赤いマーカーが一本。キャップが外れたまま転がっていた。先端が乾いて、白いトレーに赤い筋がついている。廊下の蛍光灯がその赤を照らしていた。
ノックした。
返事がなかった。
「まどか。あたしだよ」
返事がなかった。
「つむぎくんからノート預かってきた。検算の結果」
沈黙。ドアの向こうで何かが動く気配。
ドアが開いた。十センチ。
隙間からまどかの顔が見えた。
息が止まった。
髪がぼさぼさだった。何日も洗っていない。顔が蛍光灯の下の紙みたいに白かった。目の下のクマが濃い。唇の皮が剥けている。爪が伸びていた。部屋の中から、寝汗と澱んだ空気の匂いが漏れた。
でも——一瞬。まどかの顔が緩んだ。あたしの名前を呼ぶ前の、一瞬だけ。
「……りっか」
声がかすれていた。何日も誰とも話していない声。
「入っていい?」
ドアが開いた。
部屋は暗かった。カーテンが全部閉まっていた。壁際に折りたたみのホワイトボード。赤いマーカーで震えた字。途中で止まっている式。何行も書いては消し、書いては消した痕跡。完成できない式。完成させると世界が壊れるから。
赤いマーカーが床に散乱していた。五本。六本。全部キャップが外れている。まどかの指先が赤かった。インクじゃなかった。マーカーを握りすぎて擦り切れた皮膚の色だった。
「まどか」
ノートを差し出した。
「つむぎくんが一週間かけて検算した。合ってるって」
まどかがノートを見た。手を伸ばさなかった。
「知ってる」
声が平らだった。体が震えていたが、声は平らだった。
「証明は正しい。正しいから、あたしが宇宙に参照されてるのも正しい。式を書くたびに縮約が加速するのも正しい。——正しいことだけが、世界を壊せる」
「それは——」
「論理的に正しい。反論できる?」
反論できなかった。
「ことはが消えたのも。りっかが透けかけたのも。全部あたしが式を書いたから。あたしが書かなければ——少なくとも加速はしなかった」
まどかの声には怒りがなかった。悲しみもなかった。数式の結論を読み上げるような声だった。
「あたしの近くにいないで」
まどかの手がドアノブを掴んだ。閉めようとしていた。赤い指がノブの金属に張りついていた。
体が凍った。
「近くにいると消える。りっかも。つむぎも。よはんも。あたしが生きているだけで、みんなが——少しずつ。確定しない状態で壊れていく」
「まどか」
まどかがベッドの端に座った。膝を抱えた。顔を埋めた。あたしの方を見なくなった。
あたしは動かなかった。部屋の真ん中に立ったまま。まどかが顔を上げるのを待つつもりはなかった。待ったって上げない。知ってる。
座った。床に。まどかの前に。靴下のまま。
鞄からカットスイカを出した。コンビニの袋のまま。来る途中で買った。去年この庭で食べたのと同じ形のやつ。
まどかの前で座った。一切れ食べた。種を手のひらに出した。冷たくて甘かった。
「おいしい」
まどかは何も言わなかった。でも目を逸らさなかった。
もう一切れ食べた。汁が顎を伝った。スイカの汁が指に残った。赤い。拭かなかった。
残りのスイカとノートを机の上に置いた。ドアを開いた。振り返った。
まどかはベッドの上で膝を抱えていた。小さかった。部室のまどかより。ホワイトボードの前のまどかより。小さかった。指先だけが赤かった。
ドアを閉めた。
廊下で壁に背をつけた。背中の冷たさが脊椎を伝った。膝が震えた。足が滑った。靴の裏がフローリングをかいた。
あの商店街の一瞬が浮かんだ。ことはが消えた瞬間——あたしの目が逸れた。まどかの瞳にあたしが映っていた。あたしはまどかの手を取った。ことはじゃなく、まどかの手を。
あたしが選んだ。
階段の途中で、芹香さんが立っていた。盆を持っていた。昼ごはんを運ぼうとしていた。
「……食べないの」
芹香さんに向けた言葉じゃなかった。独り言だった。
「トレーに手がついてなくて」
「三日目」
芹香さんの声が掠れた。
「三日、何も食べてないの。水は飲んでる。でも——」
芹香さんの手が震えていた。盆の上の味噌汁の表面が揺れていた。
「あたし、また来ます」
「……ありがとう」
玄関を出た。庭の植木が一本減っていた。去年あった百日紅がない。根元から消えている。土だけがある。
◇
九月になった。新学期。
教室。朝礼。まどかの席が空いていた。先生が「十六夜は体調不良で」と言ったが、先生の名前が出てこなかった。一学期には覚えていた。今は顔と眼鏡と授業の声だけ。名前が消えている。
クラスの席がさらに空いていた。壁際の一番後ろ。誰が座っていたのか思い出せない。
窓際の三列目。ことはの席。机がなかった。椅子もなかった。空いているのではなく、最初から何も置かれていなかったように、床だけがあった。
誰も気づいていなかった。あたし以外。
放課後。部室の前を通った。ドアが開いていた。
よはんさんがいた。一人で。窓際の椅子に座って、本を読んでいた。制服を正確に着ている。何も変わっていない。でも——ブラウスのボタンが一つ、掛け違えそうになっていた。直しかけて、やめたような位置で止まっている。
「よはんさん」
「ああ、六花さん」
「毎日ここにいるの?」
「ええ。いつも通りに」
「まどかも、つむぎくんも来ないのに?」
「来ないから、います」
左の袖を握っていた。指が真っ白だった。
「誰も来ない場所にいても、場所は残ります。僕がここにいれば、この部室は存在します」
「……よはんさんは」
「六花さん。僕は悲しむことができません」
本を閉じた。
「悲しむと——爆弾になります。僕の中の論理膜が、感情に反応して不安定になる。だから感情を止めています。ことはさんが消えたことも。十六夜さんが苦しんでいることも。六花さんが泣いていることも。知っています。知っていて、感じないようにしています」
よはんさんの声は平らだった。まどかの声と同じ平らさだった。でも違った。
「六花さん。四値論理を教えます。いいですか」
◇
公園のベンチ。夕暮れ。空が低い。九月の空は八月より近い。
よはんさんが横に座った。ノートを広げた。鉛筆を渡された。つむぎくんの鉛筆より短かった。
「T。真。F。偽。ここまでは二値です」
よはんさんが書いた。字がきれいだった。定規で引いたみたいに。
「N。真でも偽でもない。未決定。B。真かつ偽。矛盾」
「矛盾って——壊れてるってことじゃないの」
「いいえ。階段が十三段であり十二段でもある。同時に。それでも階段は存在します。壊れているのではなく、両方あるんです」
よはんさんがあたしの手を見た。
「六花さんの手。論理膜に近いものを持っています。B値を壊さず安定させる。触れたものの矛盾を、そのまま受け止める」
あたしの手を見た。ことはを掴めなかった手。まどかの冷たい手を握った手。
「あたしは——何」
「全部です。T・F・N・B。矛盾と可能性を、同時に」
わからなかった。でも手のひらが少しだけ温かくなった。
◇◇
よはん
六花さんの手は温かかった。
僕にはないものだ。論理膜の内側には温度がない。正確に言えば、あるが変化しない。僕の体温は常に一定だ。一定でなければ膜が揺れる。揺れれば漏れる。漏れれば——消える。二月から、ずっとそうだ。
六花さんは揺れている。いつも。揺れているのに壊れない。矛盾を抱えて揺れて、揺れたまま温かい。
あの温かさが欲しいのではない。あの温かさが在ることが、僕を安心させる。僕が消えても、あの温かさは残る。それだけで——十分だ。
窓の外を見た。空が低い。八月より低い。
袖を握った。右手で。左袖を。ボタンを確認した。五つ。一つは八月に落ちた。残りの五つが留まっている。留まっている限り、僕はここにいる。
◇◇
六花
商店街に行った。
看板がさらにぼやけていた。「○○商店街」の文字の大半が消えている。「商」の一文字だけが残っていた。煎餅屋のあった場所には壁だけ。
河原に下りた。
チャーちゃんを探した。ことはが名前をつけた猫。茶色い毛。首に模様がある。
見つからなかった。草が長かった。膝の高さ。八月のあの日と同じ草。同じ河原。ことはがいない。
白い猫が近づいてきた。チャーちゃんじゃない。知らない猫。でもあたしの足首に頬を擦りつけた。
背中を撫でた。毛の下に体温があった。心臓が動いていた。肋骨の下で、小さな心臓が。
ことはの体温を思い出そうとした。握り返された手の強さ。日焼けした腕。爪が短かった。猫を撫でていた手。
猫の体温で泣いていた。この温かさはことはの温かさじゃない。でも温かかった。
猫が去った。指から温度が消えた。
スマホを見た。写真が残っていた。あたしの横顔。ことはが撮った写真。撮った子がいないだけだ。
LINEを開いた。ことはのトーク画面。履歴が薄くなっていた。最後の一通——「りっか、今日たのしかった!」——の文字が霞んでいた。フォントが透けている。背景の白に溶けかけている。
スクリーンショットを撮った。撮れたかどうかわからない。
翌日も動けなかった。
◇
つむぎくんを見かけた。
学校の帰り道。文房具屋の前。ガラス越しに見えた。鉛筆を選んでいた。HBを三本。レジに持っていった。
いつもの2Bじゃなかった。
声をかけなかった。
つむぎくんのシャツのポケットに鉛筆が一本刺さっていた。芯が折れていた。折れたまま刺してあった。毎日折れて、毎日買い替えている。
声をかけられなかった。
◇
夜。まどかに電話した。
呼び出し音が鳴った。五回。六回。七回。出ない。
切れた。
もう一度かけた。今度は三回で切れた。まどかが切った。
LINEにメッセージが来た。
「来ないで」
二文字。
スマホを布団の上に置いた。天井を見た。
ことはを失った。まどかも失った。
天井の模様が滲んでいた。泣いているのだと気づくまでに時間がかかった。
◇
ノートを開いた。
「ことはへ」と書いた。
鉛筆が進まなかった。
祭りの夜は書けた。全部書けた。焼きそば、りんご飴、提灯、ことはの手の温度、全部書き切った。ノートが足りないくらいだった。
今、一文字も進まない。「ことはへ」の「へ」の先に何を書けばいいかわからない。
ことはの顔を思い出そうとした。思い出せる。まだ覚えている。笑った顔。走った後の顔。猫を撫でている顔。ぜんぶ覚えている。
でもまどかは覚えていない。つむぎくんも、たぶん薄くなっている。
あたしだけだ。
鉛筆を置いた。
家を出た。夜の道。九月の空気が首筋に冷たかった。
足が動いた。走った。
あの日はまどかと二人だった。まどかの靴底の硬い音があった。かつ、かつ、かつ。まどかの手が冷たかった。手首の骨があたしの掌に食い込んでいた。
今はない。あたしのサンダルだけ。ぺた、ぺた、ぺた。
一人の足音が夜に響いた。
あたしだけが覚えている。だから走らなきゃいけない。
一人で。
---
まどかのノート なし。
九話にノートはない。




