第八話 爆発律の夜
◇◇
零崎
施設の職員は声を落としていた。
「——今朝のことです。朝食のときに、お名前を書いてくださいとお願いしたら、汐さんが鉛筆を持ったまま——」
「書けなかった」
「はい」
零崎清史郎はデスクの上の写真立てを見ていた。幼い女の子が笑っている。前歯が一本ない。りんご飴を持っている。
「先生のことは以前からお忘れでしたが、お名前だけは毎朝おっしゃっていたんです。『わたしは零崎汐です』って。それが——」
零崎は受話器を置いた。
壁に貼った数式が、モニターの光に照らされていた。古典化。B値をT/Fに強制固定するための式。先週、完成していた。使うかどうか迷っていた。
娘の名前は最後の砦だった。
もう迷わない。
◇◇
六花
八月の朝は暑い。
カーテンの隙間から光が漏れていて、枕の横のスマホに通知が来ていた。ことはから。ボイスメッセージ。
再生した。
「りっかー! 今日ひま? チャーちゃんに会いに行こ! あのね、昨日バイトの帰りにコンビニの裏にいたの。首のとこに模様あるの見つけてさ、あれ名前つけたい。りっかが決めて!」
一本のメッセージに全部詰まってる。息継ぎが二箇所しかない。ことはは喋るのが速い。伝えたいことが多すぎて、口が追いつかない。
先週の水曜にも会った。河原で猫を三匹見つけて、コンビニでアイスを買って、帰りにことはが全力ダッシュで電柱まで走って「タイム測って!」と叫んだ。測った。速かった。ことはは「遅くなったなー」と笑った。全然遅くなかったと思う。
返信した。「ひま。1時に煎餅屋の前でいい?」
既読。即レス。
「おっけ!!! まどかちゃんも呼んで!!!」
猫のスタンプが五個。
まどかにもLINEを打った。「今日ことはとまた猫探しに行くんだけど来ない? 商店街で1時」
三分。「行く」
まどかの返信はいつも一言。でも来る。
◇
一時五分前に煎餅屋の前に着いた。
ことははもう来ていた。全力で走ってくる。バイトの帽子をまだ持ってる。日焼けした腕。ポニーテールが揺れてる。
「りっかー! 待ったー?」
「今来たとこ」
「嘘。五分前にはいるタイプでしょりっか」
当たってる。ことははあたしのことをよく見てる。
煎餅屋の軒先に茶トラが丸くなっていた。ことはが「チャーちゃん!」としゃがんだ。猫が耳だけ動かして、逃げない。
「ほら見て、ここ。首のとこに三角の模様があるの。昨日見つけた」
確かにある。茶色い毛の中に、少し濃い三角形。
「名前どうする? 模様に名前。あたし『おにぎり』がいいと思うんだけど」
「おにぎり」
「だって三角じゃん!」
まどかが歩いてくる。LOGICAの画面を見ながら。一瞬、眉が寄った。画面を指で弾いて、首を振った。
ことはが立ち上がって走った。
「まどかちゃん! 今日もクマ増えてない? 寝てる?」
「……寝てる」
「嘘。目ぇ赤いし」
ことはがまどかの頬に手を伸ばして、目の下を指でなぞった。まどかが少し驚いて、でも避けなかった。
「ほら、こっち。チャーちゃんに挨拶して。データはあとでいいから」
まどかがLOGICAの画面を閉じた。ことはに言われると閉じる。
三人で煎餅屋の軒先にしゃがんだ。ことはが真ん中。猫がごろごろ言っている。
ことはがまどかの手を取って、猫の背中に導いた。まどかの指が猫の毛に沈む。
「あったかい」
まどかが言った。先月も触ったのに、また驚いてる。毎回驚く。まどかにとって、猫の体温は毎回新しいらしい。
「でしょー。生きてるからだよ」
まどかの手が猫の上で止まった。「生きてるから」という言葉を、噛んでいるみたいだった。
「ことはちゃん」
まどかが名前を呼んだ。ことはが「ん?」と顔を上げた。
「……ありがとう」
「何が?」
「猫」
ことはが笑った。「猫にお礼言いなよ」
あたしも猫の腹に手を当てた。心臓の鼓動が伝わってくる。速い。小さい。
「来週の日曜さ、みんなで河原行かない? 朝から。猫探し。全員で」
「いいね」
「まどかちゃんも!」
「日曜……応答式の解析が——」
「一日くらいいいじゃん!」
三人で笑った。猫が驚いて耳を伏せた。
ことはがスマホを出した。
「三人で撮ろ! 前のぶれちゃったし」
三人並んだ。ことはが長い腕でスマホを構えた。シャッター音。
画面を見た。あたしとまどかはくっきり。ことはがぶれてる。
「またあたしだけー! なんでー!」
笑ってる。心底おかしそうに。
「まあいいや。二人がかわいく撮れてるから」
スマホをポケットにしまった。
ことはが立ち上がった。商店街の奥を見た。
「ねえ、煎餅食べに行こ! おばちゃんが割れたの安くしてくれるんだよ」
三人で歩いた。ことはが真ん中で、あたしとまどかが両側。
歩きながら、ことはがバイトの話をしてる。昨日シフトに入ったら、店長が「遠野さんの笑顔で売り上げ上がった」と言った話。ことはは「絶対嘘だよ、あたし接客下手なのに」と笑ってたけど、嘘じゃないと思う。ことはの笑顔は人を呼ぶ。
煎餅を買った。割れたのを三枚。歩きながら食べた。ことはが「醤油のしょっぱいとこが好き」と言いながら、端のほうを齧ってる。まどかは真ん中から食べてる。あたしは割れ目に沿って食べる。三人とも食べ方が違う。
「来週の約束、忘れないでね。朝、河原で」
ことはがあたしの目を見て言った。
「はいはい、わかってるって」
「まどかちゃんも!」
「……覚えてるよ」
まどかが小さく頷いた。ことはが満足そうに笑った。
◇
空が落ちた。
音がした。
音というか、音が止まった。
蝉の声がぶつりと切れた。
世界が無音になった。
一瞬だけ。
頭の上から圧力。
立っているのに。何かに押されているような。
天井が下がった。
空が低くなっていた。さっきまでの八月の高い空が、数メートル分、下に落ちていた。
三人とも立ち上がった。見上げた。
煎餅屋の看板の文字が、ぴたりと一つになった。
先月からずっと二重に見えていた文字が一枚に確定した。
揺らぎが死んだ。
◇
ことはが自分の左手を見ていた。
猫が舐めていた手。猫はもう舐めていなかった。するりと抜けて、二歩離れた。毛づくろいを始めた。
「チャーちゃん逃げちゃった! どこー!」
ことはの声。笑っていた。声がでかかった。商店街の端まで届く声。
「あっち! あっちに行った! 来週また探そ! 来週どこいこうかー!」
指先が薄かった。笑いながら振った右手の指が、透けていた。
でもことはの声は変わらない。声がでかい。
「なんか透けてない? 疲れてんのかな」
透けているのは自分なのに。あたしの顔を心配して見た。
「りっか、大丈夫? 顔色悪い」
あたしはことはの手を掴んだ。
掴めた。まだ温度がある。まだここにいる。日焼けした手。爪が短い。猫を撫でていた手。
「覚えてる。絶対に。来週も、その次も」
あたしの声が震えてた。
ことはが笑った。でかい声で。
「なに急に! あたしは平気だよ」
手を握り返された。力が強い。
「来週の約束、りっかが覚えてて」
ことはの声が小さくなっていた。
ことはの声が小さくなることは一度もなかった。
河原で。祭りで。商店街の端まで届く声。参道を揺らす声。
声量が減っているのではなかった。声を出す体が薄くなっていた。
ことはの口がまだ動いていた。唇が何かの形を作った。名前だったかもしれない。あたしの名前だったかもしれない。
声が聞こえなかった。
あたしの目が——まどかに移った。
一瞬。
手の中から温度が消えた。
握っていた形のまま、指が空を掴んでいた。
消えた。
商店街に二人で立っていた。ことはがいた場所に、誰もいなかった。あたしの右手とまどかの右手が、空間の中で止まっていた。
猫だけが何も変わっていなかった。同じ場所で、前足を舐めていた。
ことはが座っていたベンチがなかった。ベンチがあった場所に、地面だけがあった。最初からなかったみたいに。
煎餅屋のおばちゃんが暖簾を出していた。あたしが「さっきここに女の子が——」と言いかけたら、おばちゃんは首を傾げた。「女の子? 今日はあんたたち二人しか来てないよ」
世界がことはを最初からいなかったことにしようとしている。
あたしだけが覚えている。世界は「いなかった」と言っている。あたしの中では「いた」。
蝉の声が戻っていた。ことはの声だけがなかった。
スマホを見た。手が震えていた。
LINEを開いた。メッセージは残っていた。プロフィール画像がなかった。灰色の人型になっていた。
写真を開いた。さっき撮った三人の写真。ことはがいた場所が背景になっていた。
祭りの写真もスワイプした。ことはがいない。ことはが撮った写真だけが残っていた。撮る側の視線だけが残って、写っている側が消えた。
あたしの目が見えなくなった。涙だった。
ことはの最後の言葉を聞いていない。口が動いていたのを見た。何を言おうとしていたのか。あたしは知らない。
ことはの最後の顔を見ていない。あたしはまどかの方を見ていた。
あたしが目を逸らした、あの一瞬に、ことはは消えた。
見ていたら。
あたしがことはの目を見ていたら、消えなかったんじゃないか。手を掴んでいた。温度があった。あたしが見ていれば、まだ繋がっていたんじゃないか。
◇
まどかがあたしの手を掴んだ。
右手。さっきことはを掴めなかった手を。
「来て」
走り出した。あたしの手を引いて。いつもと逆だった。
「来て」
「来て」
「来て」
商店街を抜けた。住宅街を突っ切った。サンダルの底が熱かった。アスファルトの照り返しで空気が揺れていた。走りながら何も言えなかった。足音だけ。あたしのサンダルが、ぺた、ぺた。まどかの靴底が、かつ、かつ。二人分の足音がずれて重なる。
まどかの手は冷たかった。八月なのに。細い手首の骨が、あたしの掌に食い込んでいた。
息が切れた。涙が乾いて顔がつっぱった。
◇
学校の門が見えた。夏休みの校舎は静かだった。裏口から入った。階段を駆け上がった。三階。廊下。
部室のドアを、まどかが開けた。
つむぎくんが机にいた。ノートを広げて、鉛筆を走らせていた。顔を上げた。二人の顔を見て、鉛筆の手が止まった。
よはんさんが窓際にいた。両手で自分の体を抱えるようにしていた。制服のボタンが一つ、外れかけていた。体が震えていた。
まどかがあたしの手を離した。ホワイトボードの前に歩いた。マーカーを手に取った。
「つむぎ」
「ああ」
「古典化パルス。B値を全部T/Fに強制する波。ことはちゃんが——消えた」
まどかの声は平らだった。
つむぎくんがあたしを見た。頷いた。
「零崎か」
「たぶん」
よはんさんが窓際で小さく言った。
「僕の論理膜にも——波が来ています」
まどかがホワイトボードに向き直った。マーカーの蓋を取った。
がり。
いつもの音じゃなかった。力が入りすぎていた。先端がホワイトボードに押し付けられて、インクが潰れている。
がり、がり、がり。
記号が並んでいく。あたしには読めない。まどかの手が震えているのは見えた。
あたしはまどかの横に立った。数式は読めない。検算もできない。
まどかの右手に、あたしの左手を重ねた。
がり、がり——きゅ。
音が変わった。マーカーの先端がホワイトボードを滑る音が、がりから、きゅに変わった。まどかの手の震えが止まった。
つむぎくんがホワイトボードを見た。
「二行目、左辺」
まどかの手が止まった。消して、書き直した。
「合ってる」
もう一行。
「合ってる」
応答を待った。まどかが式を書いて、宇宙が返事を書く。
来なかった。
十秒。二十秒。白い面は白いまま。
まどかが呟いた。
「遅い」
もう一行書いた。つむぎくんが「合ってる」。もう一行。「合ってる」。
応答を待つ。来ない。
よはんさんが立ち上がった。窓際から離れて、ホワイトボードの前に来た。
「開放します」
つむぎくんが振り返った。
「よはん、まだ——」
「パルスが広がります。僕の論理膜で——一部だけ——」
よはんさんの制服のボタンが、糸ごと落ちた。小さな音がした。
よはんさんの体が薄くなった。一瞬。窓の光が体を通り抜けた。すぐ戻った。でもボタンが一つ足りない。
式が動いた。ホワイトボードの上の数式の一つが、応答を返した。弱い応答。遅い応答。でも返事があった。
つむぎくんが立ち上がった。ノートを見た。
「波は止められる」
鉛筆の先端が紙の上で止まった。
「——だがもう確定したものは、戻せない」
ことはは戻らない。
あたしはまどかの手をまだ握っていた。まどかの手は冷たいままだった。
◇
まどかがポケットからスマホを出した。LOGICAの画面。
二重の数値が走っていた。T値とB値が重なって表示されている。LOGICA自身が矛盾を取り込んでいた。赤いノイズが明滅している。
画面が暗転した。復帰しなかった。
まどかが暗い画面を三秒間見ていた。スマホをポケットにしまった。
◇
屋上。
夜。星が少ない。先月はもっとあったはずなのに。光害のせいではない。星そのものが減っている。
あたしは屋上のフェンスに背を預けて座っていた。泣いていた。泣き疲れて、泣けなくなって、また泣いていた。
階段の扉が開く音がした。
まどかが来た。
あたしの隣ではなく、少し離れた場所に座った。一メートル。手を伸ばせば届く距離。でも伸ばさない距離。
風が吹いた。夏の夜なのに冷たい風だった。
まどかが口を開いた。閉じた。
また開いた。
「——ごめん。なんでもない」
あたしは聞けなかった。何を言おうとしたのか。聞く力がなかった。
二人で座っていた。星が少ない空の下で。ことはの声が聞こえない世界で。
◇◇
家に帰った。
ベッドに横になった。ノートは開かなかった。
スマホを開いた。
ことはのボイスメッセージを再生した。今朝のやつ。
「りっかー! 今日ひま? チャーちゃんに会いに行こ!」
声はまだクリアだった。
もう一回再生した。
もう一回。
ことはの体の温度を思い出そうとした。握り返された、あの強い力。
思い出せた。まだ覚えてる。
あたしだけが覚えてる。あたしだけが、遠野ことはの声を覚えている。
見ていたら、消えなかったかもしれない。
あたしだけが、それを確かめられない。
---
まどかのノート #8
【ことはちゃん】
ことはちゃんの名前だけ覚えてる。遠野ことは。りっかと三人で何をしたか、顔が——ぼやける。名前だけが残る。なぜだろう。




