第七話 面白いって何
六花
朝日が眩しかった。
通学路の白い壁に反射して、視界の端で痛い。あたしは片手で目を庇いながら、スマホを見ていた。
LINE。ことはちゃんから。
「今日来れる?」
「祭り行こ!」
「りっかーーー」
三連発。スタンプが五個。全部猫。
あたしは返信した。「行く」。既読がすぐついた。ことはちゃんがスマホを握ったまま待ってるんだろう。
身体が熱い。朝日のせいじゃなくて、心臓の高ぶりのせい。
着替えを引っ張り出しては戻す。Tシャツ。ノースリーブ。シャツ。胸元がどう見えるかとか、腕の日焼けが目立つかとか、気にしてた。鏡の前で向きを変えて、また違う服に手を伸ばす。結局、最初のTシャツに戻した。理由はない。ことはちゃんに会いに行くだけだ。
まどかにLINE。「祭り行こう」。「やることあるんだけど」。「いいから」。三分。「……わかった」。まどかの句読点が一つ。妥協の合図。
◇
商店街の参道。提灯が灯り始めていた。夕刻。七月の終わり。
屋台が並んでいる。焼きそば、たこ焼き、チョコバナナ。油と醤油の焦げた匂いが空気の底に溜まっていた。
人出がまばらだった。去年はもっと混んでいたはずなのに。
商店街の入り口に着いた時、声が聞こえた。
でかい声。
「焼きそば二つ! あ、やっぱ三つ! 三つで!」
ポニーテール。日焼けした腕。屋台のおっちゃんに指を三本立てている。髪の毛の先端が焦げていた。猫探しで走り回っているせい。
ことはちゃんだ。
あたしは走った。まどかが「え、りっか?」と言ったけど構わず。
「ことはちゃん!」
振り返った。焼きそばを両手に持っている。目が丸くなって、すぐに顔がぱっと明るくなった。
「りっかー! 来たの!? やったー!」
膝に手をついて息をととのえてる。「やった感」の仕草。汗が額に浮いてる。日焼けした首筋に、バイトで使ってるネームプレートの紐の跡が薄く残ってる。
「え、誰この子?」
まどかが追いついてきた。少し息が上がっている。
「まどか。幼馴染」
「十六夜まどかです」
「十六夜さん! りっかの幼馴染! え、何やってる人? 部活は?」
「数学研究部。宇宙の構造を——」
「宇宙!? すごいじゃん! あたし物理2だったけど!」
まどかが一瞬、目を瞬いた。物理2に反応したんだろう。点数の意味じゃなくて、「宇宙にすごいじゃんと返せる人間がいる」ということに。
ことはちゃんが焼きそばを差し出してきた。三つ。おっちゃんがサービスしてくれたらしい。
「食べて!」
断る隙がなかった。ことはちゃんはもう左手で自分のを食べ始めていた。左利き。紅しょうがを山盛りにしている。辛いに決まってるのに、笑ってる。青のりが唇についてた。油のにおいが指に移った。
あたしも食べた。ソースが濃くて、舌の奥が熱かった。麺が太くて、噛むと油が広がる。祭りの焼きそばはいつもこうだ。家では出ない味。空気ごと食べてる感じ。
まどかが焼きそばを受け取った。箸を割って、少しだけ食べた。もぐもぐ。小さく頷いた。おいしい、と思ったんだと思う。まどかは食べ物の感想を口に出さない。でも頷いたから、おいしかったんだろう。まどかの箸の先が少し震えていた。屋台の熱気か、人混みの多さか。
「りっかー、金魚すくいあるよ! 行こう!」
ことはちゃんがあたしの腕を掴んだ。引っ張られる。もう片方の手がまどかの腕に伸びた。「まどかちゃんも!」。
ことはちゃんが真ん中で、三人で祭りの中を歩いていく。
不思議な感じだった。楽な感じだった。
金魚すくいの屋台で、まどかが異常な集中力を見せた。ポイの紙が破れるぎりぎりの角度を見極めるみたいな目をして、一匹だけ正確にすくった。
「ちょっとまどかちゃんすごっ! 何それ天才じゃん!」
ことはちゃんがまどかの肩を叩いた。まどかが少し驚いて、それから笑った。口の端だけじゃなくて、目が細くなる笑い方。あたしが見たことのない顔だった。
ことはちゃんは三回すくって三回破った。毎回「あーーー!」と叫んで、毎回本気で悔しがってた。四回目のお金を出そうとしたから、あたしが「もうやめなよ」と止めた。ことはちゃんは「来週リベンジ!」と叫んだ。
射的の屋台。ことはちゃんが「あの猫のぬいぐるみ!」と指差した。三発外した。四発目で倒した。ぬいぐるみを受け取って、あたしに差し出した。
「りっかにあげる!」
断る暇がなかった。白い猫のぬいぐるみ。手のひらサイズ。ことはちゃんはもう次の屋台を見てる。
りんご飴を買った。ことはちゃんが一番大きいのを選んで、齧って「かたっ!」と笑った。あたしも齧った。歯が砂糖の膜にめり込んで、ぱきん、と割れた。甘さが口に広がって、すぐに酸味が追いかけてきた。赤い飴が唇に残る。指がべたべたする。まどかはりんご飴の表面をちょっとだけ舐めてた。食べ方に性格が出る。
屋台のテーブルに並んで立った。ことはちゃんがりんご飴を齧りながらバイトの話をしてる。店長がケチで、シフトを増やしてくれない話。猫のチャーちゃんの新しい目撃情報の話。先週コンビニの裏で会った話。「あのね、チャーちゃんが右目つぶってこっち見てたの。ウインクだよウインク」。あたしは笑ってた。まどかも聞いてた。まどかはいつも話す側だから、聞く側に回ってるのが珍しかった。
あたしがりんご飴の棒をテーブルの端に置いた。紙コップの水が少し揺れた。
ことはちゃんが「ねー、あっちなんかやってるよ!」と走り出した。あたしとまどかが後を追う。追いつけない。ことはちゃんは走るのが速い。人混みの中をすいすい縫っていく。
追いついた時、ことはちゃんは猫を撫でてた。屋台の裏に座ってた三毛猫。
「チャーちゃんじゃないけどかわいい! ねー、まどかちゃん触ってみなよ」
まどかが膝をついて、猫の頭に指先を置いた。猫がごろごろ言った。まどかの指が猫の耳の後ろを撫でた。
「……柔らかい」
まどかが言った。小さい声。数式の話じゃない。猫の毛の話。
ことはちゃんが「でしょー!」と笑った。
まどかが猫を撫でたまま、ことはちゃんの方を見た。
「ことはちゃんは、いつもこうやって猫探してるの?」
ことはちゃんが目を丸くした。まどかから話しかけられるのが意外だったんだろう。
「うん! 商店街の猫めぐりが日課! 毎日違う子がいるの」
まどかが少しだけ頷いた。猫の背中を撫でたまま、「いいね」と言った。小さい声。でも聞こえた。
「ねえまどかちゃん。宇宙の話、あたしにもわかるように教えてよ」
まどかが困った顔をした。ことはちゃんに数学を説明する言葉が見つからないんだろう。
「えっと——」
「わかんなくていいよ。でかいんでしょ? 宇宙って」
「……でかい」
「じゃあすごいじゃん」
まどかの表情が変わった。あたしは見逃さなかった。知性じゃなくて「でかい」の一言で肯定された。まどかにとって初めての経験かもしれない。いつもは式で答えて、相手が理解できなくて、終わる。ことはちゃんは理解しなかった。理解しないまま「すごい」と言った。それでまどかの何かが緩んだ。
「三人で撮るよ!」
ことはちゃんがスマホを構えた。三人並んだ。猫がまどかの膝の上にいる。
「はい、笑ってー」
撮った。三人とも笑ってる。猫だけが不機嫌そうだった。
あたしがことはちゃんの横顔を撮った。鮮明に映ってた。提灯の灯りが頬に当たって、日焼けした肌が温かく見えた。ことはちゃんが振り向いて「えっ、撮った? 見せて!」と笑った。
ことはちゃんがあたしにスマホを向けた。
「りっか、そこ動かないで」
シャッター音。
「うん。いい顔」
「見せて」
「ダメ。あたしのだから」
笑った。あたしだけの写真。三人のじゃなくて、あたしだけの。何がいい顔なのかわからないけど、ことはちゃんが言うならそうなんだろう。
まどかがポケットから小さいノートを出して、何か書いてた。鉛筆が速く動いてる。ことはちゃんが「まどかちゃん何書いてんの?」と覗き込んだ。まどかが「メモ」と答えた。
「メモ! マジメだねー! あたしなんかメモとか絶対しないのに」
ことはちゃんが笑った。まどかのノートには数式が並んでるはずだけど、ことはちゃんは気にしてない。「マジメだね」で片付けた。それでいい。
あたしは、まどかがノートを書く指を見てた。まどかの指は白くて細い。ことはちゃんの指は日焼けして、爪が短い。二人の手が全然違う。あたしはなんで、そんなことを比べてるんだろう。
◇
十時を過ぎた。屋台が片付き始めていた。
ことはちゃんが「あたしバイトの朝シフトあるからそろそろ帰る!」と言った。
「じゃあまたね! 来週も遊ぼ!」
まどかもことはちゃんとLINE交換した。ことはちゃんが即座にスタンプを三つ送った。猫の。
ことはちゃんがまどかに「またねまどかちゃん!」と言って、まどかが「トイレ行ってくる」と参道の方に歩いていった。
あたしとことはちゃんが二人になった。三分くらい。
「ねえりっか」
「ん?」
「あたしさ、友達少ないんだよね」
声が小さかった。ことはちゃんの声が小さいのを、あたしは初めて聞いた。
「声でかいし、距離近いし。ちょっと引く子多くて」
「……そうなの」
「うん。だからりっかが普通にしてくれるの、うれしい」
ことはちゃんの横顔に提灯の灯りが当たっていた。笑ってなかった。笑ってないことはちゃんを、あたしは初めて見た。
「あたしも声でかいって言われるよ」
「りっかは別に声でかくないじゃん」
「……まどかには聞こえないくらい声出すときある」
ことはちゃんが笑った。いつもの笑い方じゃなくて、少しだけ静かな笑い方。
「じゃあ二人とも声でかい組だね」
「声でかい組」
あたしも笑った。
まどかが戻ってきた。「何笑ってるの」。「なんでもない」。
ことはが手を振って走り去った。速かった。祭りの人混みの中を、誰にもぶつからずにすいすい。走りながら振り返って、もう一回手を振った。声は大きいままだ。
「りっかーー! 今度一緒に走ろうねーー!」
声が遠くなった。提灯の灯りの向こうに消えた。
◇
帰り道。
参道の提灯がまだ灯っていた。屋台は半分片付いていたけど、灯りは残っている。砂利を踏む音が心地いい。
まどかが隣を歩いている。いつもより近い。あたしの方が半歩前。いつも通り。
服に焼きそばの匂いが残っていた。指にりんご飴のべたべたが残っていた。ポケットの中に、ことはちゃんがくれた猫のぬいぐるみ。
「今日、楽しかった」
あたしが言った。まどかが少し間を置いて頷いた。
「……うん」
「まどか、金魚すくい上手かったね」
「角度の問題。紙の張力と水の表面張力の比率を——」
「はいはい」
笑った。まどかも息で笑った。暗くて見えなかったけど、足音がちょっと跳ねた気がした。
提灯の灯りが参道の砂利をぼんやり照らしている。蝉の声がまだ遠くで鳴っている。七月の夜。暑くもなく、寒くもない。
「ねえまどか」
「ん」
「面白いって何だろうね」
まどかが足を止めかけた。止めなかった。歩きながら考えてる。まどかが黙る時は、考えてる。
「……何が」
「まどかの面白いって、数学でしょ。でも今日のことはちゃんって、数学と関係なく面白くなかった?」
砂利を踏む音が三歩分続いた。
「……面白かった」
小さい声。でも聞こえた。
「でしょ」
あたしは笑った。まどかがぽつりと言った。
「金魚すくいの時、ことはちゃんが毎回本気で悔しがってた。あれは——」
「面白かった?」
「……面白かった」
二回目。まどかが同じ言葉を二回言うのは珍しい。
提灯の灯りが、まどかの横顔をちょっとだけ照らしていた。いつもの表情。でも口の端が、ほんの少しだけ上がってる気がした。
あたしは前を向いて歩いた。ポケットの中のぬいぐるみに触れた。柔らかかった。
いい夜だった。
◇
家に帰って、ノートを開いた。日記。誰にも見せない。あたしだけの習慣。
今日あったことを書いた。ことはのこと。祭りのこと。焼きそばが三つだったこと。りんご飴がかたかったこと。金魚すくいでまどかが一匹すくったこと。猫が柔らかかったこと。射的のぬいぐるみのこと。来週の約束のこと。
ペンを置いてから気づいた。ことは、って書いてる。ちゃんがない。いつから落ちたんだろう。直さなかった。
書けた。全部書けた。
閉じた。
◇◇
夜。大学の研究室。
モニターの光だけが部屋を照らしていた。デスクの上に紙が散乱している。数式の書かれた紙。付箋が貼られた論文。空になったコーヒーカップが三つ。壁に、印刷された数式が何枚か貼ってある。十六夜まどかの証明の断片。
零崎清史郎は椅子に座ったまま、通信画面を見ていた。
画面の中に、女性が映っている。二十代前半。施設の個室。壁が白い。窓の向こうに海が見える。
「あの、すみません」
女性が言った。笑っている。穏やかな笑顔。
「先生は、どなたでしたか?」
零崎は答えなかった。しばらく。
「……今日は調子はどうだ」
「はい、悪くないです。海が見えるんですよ、窓から。今日は波が静かで」
「そうか」
「先生は、ここにいらしたことは?」
零崎がデスクの引き出しを開けた。中に——マーカーが並んでいた。赤い。十六夜まどかと同じ赤。使い込まれたものと、未開封のものが混ざっている。零崎もかつては式を書く人間だったのだ。書くのをやめた人間だったのだ。やめたのに、マーカーを捨てられない。
零崎の手が、デスクの上の写真立てに触れた。小さな写真立て。中の写真には、零崎と、幼い女の子が写っている。女の子が笑っている。前歯が一本ない。
祭りで買ったりんご飴を持っている。
「毎回教えてくれるんですか?」
「ああ」
「じゃあ、あたしは毎回忘れてるんですね」
「かまわない」
女性が少し首を傾げた。
「でも——なんだろう。先生と話してると、なんか安心するんです。初めて会った気がしないっていうか」
零崎の指が、写真立ての縁を撫でた。動きが止まった。
「……そうか」
「変ですよね。覚えてないのに」
「変じゃない」
通信が切れた。
研究室が暗くなった。モニターの光が消えて、デスクの上の写真立てだけが窓の外の月明かりで光っていた。
零崎は椅子に座ったまま動かなかった。
やがて手が動いた。キーボードに触れた。モニターが点いた。画面にコードが並んでいる。テキストベースのインターフェース。コマンドラインが点滅している。ファイル名——「classical_pulse_v0.9」。
写真の中の女の子は笑っていた。前歯が一本ない。祭りのりんご飴を持っている。
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まどかのノート #7
【準周期振動】
宇宙の鼓動は準周期振動(quasi-periodic oscillation)。複数の周期が重なっているが、周期の比が無理数だから同じパターンは二度と繰り返さない。人が密集すると鼓動間の距離が縮まる。意識の密度に反比例する。仮説段階。
【LOGICA v4.0更新】
鼓動モジュール更新。残像の可視化に一部成功。祭りの群衆データ取得済み。




