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第七話 面白いって何

      六花


 朝日が眩しかった。


 通学路の白い壁に反射して、視界の端で痛い。あたしは片手で目を庇いながら、スマホを見ていた。


 LINE。ことはちゃんから。


「今日来れる?」


「祭り行こ!」


「りっかーーー」


 三連発。スタンプが五個。全部猫。


 あたしは返信した。「行く」。既読がすぐついた。ことはちゃんがスマホを握ったまま待ってるんだろう。


 身体が熱い。朝日のせいじゃなくて、心臓の高ぶりのせい。


 着替えを引っ張り出しては戻す。Tシャツ。ノースリーブ。シャツ。胸元がどう見えるかとか、腕の日焼けが目立つかとか、気にしてた。鏡の前で向きを変えて、また違う服に手を伸ばす。結局、最初のTシャツに戻した。理由はない。ことはちゃんに会いに行くだけだ。


 まどかにLINE。「祭り行こう」。「やることあるんだけど」。「いいから」。三分。「……わかった」。まどかの句読点が一つ。妥協の合図。





 商店街の参道。提灯が灯り始めていた。夕刻。七月の終わり。


 屋台が並んでいる。焼きそば、たこ焼き、チョコバナナ。油と醤油の焦げた匂いが空気の底に溜まっていた。


 人出がまばらだった。去年はもっと混んでいたはずなのに。


 商店街の入り口に着いた時、声が聞こえた。


 でかい声。


「焼きそば二つ! あ、やっぱ三つ! 三つで!」


 ポニーテール。日焼けした腕。屋台のおっちゃんに指を三本立てている。髪の毛の先端が焦げていた。猫探しで走り回っているせい。


 ことはちゃんだ。


 あたしは走った。まどかが「え、りっか?」と言ったけど構わず。


「ことはちゃん!」


 振り返った。焼きそばを両手に持っている。目が丸くなって、すぐに顔がぱっと明るくなった。


「りっかー! 来たの!? やったー!」


 膝に手をついて息をととのえてる。「やった感」の仕草。汗が額に浮いてる。日焼けした首筋に、バイトで使ってるネームプレートの紐の跡が薄く残ってる。


「え、誰この子?」


 まどかが追いついてきた。少し息が上がっている。


「まどか。幼馴染」


「十六夜まどかです」


「十六夜さん! りっかの幼馴染! え、何やってる人? 部活は?」


「数学研究部。宇宙の構造を——」


「宇宙!? すごいじゃん! あたし物理2だったけど!」


 まどかが一瞬、目を瞬いた。物理2に反応したんだろう。点数の意味じゃなくて、「宇宙にすごいじゃんと返せる人間がいる」ということに。


 ことはちゃんが焼きそばを差し出してきた。三つ。おっちゃんがサービスしてくれたらしい。


「食べて!」


 断る隙がなかった。ことはちゃんはもう左手で自分のを食べ始めていた。左利き。紅しょうがを山盛りにしている。辛いに決まってるのに、笑ってる。青のりが唇についてた。油のにおいが指に移った。


 あたしも食べた。ソースが濃くて、舌の奥が熱かった。麺が太くて、噛むと油が広がる。祭りの焼きそばはいつもこうだ。家では出ない味。空気ごと食べてる感じ。


 まどかが焼きそばを受け取った。箸を割って、少しだけ食べた。もぐもぐ。小さく頷いた。おいしい、と思ったんだと思う。まどかは食べ物の感想を口に出さない。でも頷いたから、おいしかったんだろう。まどかの箸の先が少し震えていた。屋台の熱気か、人混みの多さか。


「りっかー、金魚すくいあるよ! 行こう!」


 ことはちゃんがあたしの腕を掴んだ。引っ張られる。もう片方の手がまどかの腕に伸びた。「まどかちゃんも!」。


 ことはちゃんが真ん中で、三人で祭りの中を歩いていく。


 不思議な感じだった。楽な感じだった。


 金魚すくいの屋台で、まどかが異常な集中力を見せた。ポイの紙が破れるぎりぎりの角度を見極めるみたいな目をして、一匹だけ正確にすくった。


「ちょっとまどかちゃんすごっ! 何それ天才じゃん!」


 ことはちゃんがまどかの肩を叩いた。まどかが少し驚いて、それから笑った。口の端だけじゃなくて、目が細くなる笑い方。あたしが見たことのない顔だった。


 ことはちゃんは三回すくって三回破った。毎回「あーーー!」と叫んで、毎回本気で悔しがってた。四回目のお金を出そうとしたから、あたしが「もうやめなよ」と止めた。ことはちゃんは「来週リベンジ!」と叫んだ。


 射的の屋台。ことはちゃんが「あの猫のぬいぐるみ!」と指差した。三発外した。四発目で倒した。ぬいぐるみを受け取って、あたしに差し出した。


「りっかにあげる!」


 断る暇がなかった。白い猫のぬいぐるみ。手のひらサイズ。ことはちゃんはもう次の屋台を見てる。


 りんご飴を買った。ことはちゃんが一番大きいのを選んで、齧って「かたっ!」と笑った。あたしも齧った。歯が砂糖の膜にめり込んで、ぱきん、と割れた。甘さが口に広がって、すぐに酸味が追いかけてきた。赤い飴が唇に残る。指がべたべたする。まどかはりんご飴の表面をちょっとだけ舐めてた。食べ方に性格が出る。


 屋台のテーブルに並んで立った。ことはちゃんがりんご飴を齧りながらバイトの話をしてる。店長がケチで、シフトを増やしてくれない話。猫のチャーちゃんの新しい目撃情報の話。先週コンビニの裏で会った話。「あのね、チャーちゃんが右目つぶってこっち見てたの。ウインクだよウインク」。あたしは笑ってた。まどかも聞いてた。まどかはいつも話す側だから、聞く側に回ってるのが珍しかった。


 あたしがりんご飴の棒をテーブルの端に置いた。紙コップの水が少し揺れた。


 ことはちゃんが「ねー、あっちなんかやってるよ!」と走り出した。あたしとまどかが後を追う。追いつけない。ことはちゃんは走るのが速い。人混みの中をすいすい縫っていく。


 追いついた時、ことはちゃんは猫を撫でてた。屋台の裏に座ってた三毛猫。


「チャーちゃんじゃないけどかわいい! ねー、まどかちゃん触ってみなよ」


 まどかが膝をついて、猫の頭に指先を置いた。猫がごろごろ言った。まどかの指が猫の耳の後ろを撫でた。


「……柔らかい」


 まどかが言った。小さい声。数式の話じゃない。猫の毛の話。


 ことはちゃんが「でしょー!」と笑った。


 まどかが猫を撫でたまま、ことはちゃんの方を見た。


「ことはちゃんは、いつもこうやって猫探してるの?」


 ことはちゃんが目を丸くした。まどかから話しかけられるのが意外だったんだろう。


「うん! 商店街の猫めぐりが日課! 毎日違う子がいるの」


 まどかが少しだけ頷いた。猫の背中を撫でたまま、「いいね」と言った。小さい声。でも聞こえた。


「ねえまどかちゃん。宇宙の話、あたしにもわかるように教えてよ」


 まどかが困った顔をした。ことはちゃんに数学を説明する言葉が見つからないんだろう。


「えっと——」


「わかんなくていいよ。でかいんでしょ? 宇宙って」


「……でかい」


「じゃあすごいじゃん」


 まどかの表情が変わった。あたしは見逃さなかった。知性じゃなくて「でかい」の一言で肯定された。まどかにとって初めての経験かもしれない。いつもは式で答えて、相手が理解できなくて、終わる。ことはちゃんは理解しなかった。理解しないまま「すごい」と言った。それでまどかの何かが緩んだ。


「三人で撮るよ!」


 ことはちゃんがスマホを構えた。三人並んだ。猫がまどかの膝の上にいる。


「はい、笑ってー」


 撮った。三人とも笑ってる。猫だけが不機嫌そうだった。


 あたしがことはちゃんの横顔を撮った。鮮明に映ってた。提灯の灯りが頬に当たって、日焼けした肌が温かく見えた。ことはちゃんが振り向いて「えっ、撮った? 見せて!」と笑った。


 ことはちゃんがあたしにスマホを向けた。


「りっか、そこ動かないで」


 シャッター音。


「うん。いい顔」


「見せて」


「ダメ。あたしのだから」


 笑った。あたしだけの写真。三人のじゃなくて、あたしだけの。何がいい顔なのかわからないけど、ことはちゃんが言うならそうなんだろう。


 まどかがポケットから小さいノートを出して、何か書いてた。鉛筆が速く動いてる。ことはちゃんが「まどかちゃん何書いてんの?」と覗き込んだ。まどかが「メモ」と答えた。


「メモ! マジメだねー! あたしなんかメモとか絶対しないのに」


 ことはちゃんが笑った。まどかのノートには数式が並んでるはずだけど、ことはちゃんは気にしてない。「マジメだね」で片付けた。それでいい。


 あたしは、まどかがノートを書く指を見てた。まどかの指は白くて細い。ことはちゃんの指は日焼けして、爪が短い。二人の手が全然違う。あたしはなんで、そんなことを比べてるんだろう。





 十時を過ぎた。屋台が片付き始めていた。


 ことはちゃんが「あたしバイトの朝シフトあるからそろそろ帰る!」と言った。


「じゃあまたね! 来週も遊ぼ!」


 まどかもことはちゃんとLINE交換した。ことはちゃんが即座にスタンプを三つ送った。猫の。


 ことはちゃんがまどかに「またねまどかちゃん!」と言って、まどかが「トイレ行ってくる」と参道の方に歩いていった。


 あたしとことはちゃんが二人になった。三分くらい。


「ねえりっか」


「ん?」


「あたしさ、友達少ないんだよね」


 声が小さかった。ことはちゃんの声が小さいのを、あたしは初めて聞いた。


「声でかいし、距離近いし。ちょっと引く子多くて」


「……そうなの」


「うん。だからりっかが普通にしてくれるの、うれしい」


 ことはちゃんの横顔に提灯の灯りが当たっていた。笑ってなかった。笑ってないことはちゃんを、あたしは初めて見た。


「あたしも声でかいって言われるよ」


「りっかは別に声でかくないじゃん」


「……まどかには聞こえないくらい声出すときある」


 ことはちゃんが笑った。いつもの笑い方じゃなくて、少しだけ静かな笑い方。


「じゃあ二人とも声でかい組だね」


「声でかい組」


 あたしも笑った。


 まどかが戻ってきた。「何笑ってるの」。「なんでもない」。


 ことはが手を振って走り去った。速かった。祭りの人混みの中を、誰にもぶつからずにすいすい。走りながら振り返って、もう一回手を振った。声は大きいままだ。


「りっかーー! 今度一緒に走ろうねーー!」


 声が遠くなった。提灯の灯りの向こうに消えた。





 帰り道。


 参道の提灯がまだ灯っていた。屋台は半分片付いていたけど、灯りは残っている。砂利を踏む音が心地いい。


 まどかが隣を歩いている。いつもより近い。あたしの方が半歩前。いつも通り。


 服に焼きそばの匂いが残っていた。指にりんご飴のべたべたが残っていた。ポケットの中に、ことはちゃんがくれた猫のぬいぐるみ。


「今日、楽しかった」


 あたしが言った。まどかが少し間を置いて頷いた。


「……うん」


「まどか、金魚すくい上手かったね」


「角度の問題。紙の張力と水の表面張力の比率を——」


「はいはい」


 笑った。まどかも息で笑った。暗くて見えなかったけど、足音がちょっと跳ねた気がした。


 提灯の灯りが参道の砂利をぼんやり照らしている。蝉の声がまだ遠くで鳴っている。七月の夜。暑くもなく、寒くもない。


「ねえまどか」


「ん」


「面白いって何だろうね」


 まどかが足を止めかけた。止めなかった。歩きながら考えてる。まどかが黙る時は、考えてる。


「……何が」


「まどかの面白いって、数学でしょ。でも今日のことはちゃんって、数学と関係なく面白くなかった?」


 砂利を踏む音が三歩分続いた。


「……面白かった」


 小さい声。でも聞こえた。


「でしょ」


 あたしは笑った。まどかがぽつりと言った。


「金魚すくいの時、ことはちゃんが毎回本気で悔しがってた。あれは——」


「面白かった?」


「……面白かった」


 二回目。まどかが同じ言葉を二回言うのは珍しい。


 提灯の灯りが、まどかの横顔をちょっとだけ照らしていた。いつもの表情。でも口の端が、ほんの少しだけ上がってる気がした。


 あたしは前を向いて歩いた。ポケットの中のぬいぐるみに触れた。柔らかかった。


 いい夜だった。





 家に帰って、ノートを開いた。日記。誰にも見せない。あたしだけの習慣。


 今日あったことを書いた。ことはのこと。祭りのこと。焼きそばが三つだったこと。りんご飴がかたかったこと。金魚すくいでまどかが一匹すくったこと。猫が柔らかかったこと。射的のぬいぐるみのこと。来週の約束のこと。


 ペンを置いてから気づいた。ことは、って書いてる。ちゃんがない。いつから落ちたんだろう。直さなかった。


 書けた。全部書けた。


 閉じた。



◇◇



 夜。大学の研究室。


 モニターの光だけが部屋を照らしていた。デスクの上に紙が散乱している。数式の書かれた紙。付箋が貼られた論文。空になったコーヒーカップが三つ。壁に、印刷された数式が何枚か貼ってある。十六夜まどかの証明の断片。


 零崎清史郎は椅子に座ったまま、通信画面を見ていた。


 画面の中に、女性が映っている。二十代前半。施設の個室。壁が白い。窓の向こうに海が見える。


「あの、すみません」


 女性が言った。笑っている。穏やかな笑顔。


「先生は、どなたでしたか?」


 零崎は答えなかった。しばらく。


「……今日は調子はどうだ」


「はい、悪くないです。海が見えるんですよ、窓から。今日は波が静かで」


「そうか」


「先生は、ここにいらしたことは?」


 零崎がデスクの引き出しを開けた。中に——マーカーが並んでいた。赤い。十六夜まどかと同じ赤。使い込まれたものと、未開封のものが混ざっている。零崎もかつては式を書く人間だったのだ。書くのをやめた人間だったのだ。やめたのに、マーカーを捨てられない。


 零崎の手が、デスクの上の写真立てに触れた。小さな写真立て。中の写真には、零崎と、幼い女の子が写っている。女の子が笑っている。前歯が一本ない。


 祭りで買ったりんご飴を持っている。


「毎回教えてくれるんですか?」


「ああ」


「じゃあ、あたしは毎回忘れてるんですね」


「かまわない」


 女性が少し首を傾げた。


「でも——なんだろう。先生と話してると、なんか安心するんです。初めて会った気がしないっていうか」


 零崎の指が、写真立ての縁を撫でた。動きが止まった。


「……そうか」


「変ですよね。覚えてないのに」


「変じゃない」


 通信が切れた。


 研究室が暗くなった。モニターの光が消えて、デスクの上の写真立てだけが窓の外の月明かりで光っていた。


 零崎は椅子に座ったまま動かなかった。


 やがて手が動いた。キーボードに触れた。モニターが点いた。画面にコードが並んでいる。テキストベースのインターフェース。コマンドラインが点滅している。ファイル名——「classical_pulse_v0.9」。


 写真の中の女の子は笑っていた。前歯が一本ない。祭りのりんご飴を持っている。



---



まどかのノート #7


【準周期振動】

 宇宙の鼓動は準周期振動(quasi-periodic oscillation)。複数の周期が重なっているが、周期の比が無理数だから同じパターンは二度と繰り返さない。人が密集すると鼓動間の距離が縮まる。意識の密度に反比例する。仮説段階。


【LOGICA v4.0更新】

 鼓動モジュール更新。残像の可視化に一部成功。祭りの群衆データ取得済み。


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