第六話 消費される記憶
つむぎ
月曜の朝。僕は部室にいた。始業一時間前。誰もいない。
ホワイトボードには二つの式が残っている。あいつが金曜に書いた式と、宇宙が書き返した式。土日のあいだ誰も消さなかった。消せなかった。僕が「消すな」と言ったからだ。帰る前に、あいつにそれだけ言った。怒ったまま帰って、怒ったまま戻ってきた。
七月の空気が部室に詰まっていた。蒸し蒸し。窓を開けても、熱風が吹き込むだけで、涼しさは来ない。
鉛筆を出した。ノートを開いた。
応答式を写す。一文字ずつ。ゆっくりと。急ぐと見落とす。僕はあいつみたいに飛ばない。一段ずつ踏む。
式の構造を追っていく。あいつの証明の三十何行目あたりが変数として参照されている。それは金曜に確認した。だがそれだけじゃない。応答式の全体構造がまだ見えていない。
二十分くらい経って、式の中盤に差しかかった。
ここに畳み込み構造がある。入力と出力が再帰的に参照し合っていて、展開するには。展開するには、まず核になる恒等式を特定して、そこから。
手が止まった。
恒等式。さっきまで頭にあった。つい今しがた、ノートの上のページで確認したはずだ。畳み込みの展開には、まず核恒等式を。
核恒等式って何だ。
ページを戻した。上の段に、僕の字で数式が書いてある。読んだ。読めた。理解した。
ああ、そうだ。これだ。
次のページに戻る。畳み込みの展開。核恒等式を代入して。
核恒等式って何だ。
血の気が引いた。
今、理解した。理解したはずだ。三秒前に。ページを戻して読んで、わかって、戻ってきたら消えていた。
もう一度ページを戻した。読んだ。わかった。
次のページに移った。
消えていた。
部室は静かだった。廊下から遠い部屋で、窓の外は朝の校庭。誰もいない校庭に、風が吹いていた。
三回目で、僕は鉛筆を置いた。
手が震えていた。指先の感覚がおかしい。震えているのか、冷えているのか、わからない。
読んだ内容が消える。理解した瞬間に、理解した内容が頭から蒸発する。ノートに書いてあるから読み返せる。読み返せば理解できる。だが理解した瞬間にまた消える。
応答式を読むことが、僕の知識を食っている。
矛盾域の副作用。よはんが言っていた「B値に触れると普通はおかしくなる」の、これが僕の版か。あいつの体は矛盾を含んでも壊れない。六花の体もそうだ。僕は違う。僕の頭は古典論理で動いている。矛盾を含んだ式を読むと、爆発律の寸前で知識が蒸発する。体が壊れるのではなく、知識が壊れる。
今のところは応答式に触れた分だけだ。だが範囲が広がらない保証はない。
最悪だ。
僕は数学者だ。数学者にとって知識が消えるのは、画家の目が見えなくなるのと同じだ。
でも、式はそこにある。ホワイトボードの上に。宇宙が書いた一行。あいつにも完全には読めない式。僕なら読めるかもしれない。あいつは飛ぶ人間だ。全体を一瞬で見る。僕は這う人間だ。一段ずつ踏む。あいつが見落とす構造の細部を、僕は拾える。
読むたびに忘れるなら、読むたびに書き残せばいい。ノートに。紙の上に。頭から消えても、紙は残る。
ノートの前のページをめくった。六月に書いた検算がまだある。あいつの式に「合」と書いた赤い字がある。僕の頭からは消えても、ここにはある。——書いたものだけが、在る。
鉛筆を取り直した。
◇
二時間が経った。
一時間目はサボった。二時間目もサボる。ノートが八ページ埋まった。応答式の前半を解読した。いや。三回解読して三回忘れて、四回目に解読しながら同時にノートに書き写して、ようやく紙の上に残った。
頭の中は空っぽだった。
八ページ分の数学が、僕の頭にはない。紙の上にだけある。
代わりに、別のものが消えていた。
今朝食べた朝飯の内容を思い出そうとして、出てこなかった。食パンだったか。ごはんだったか。食べたことは覚えている。何を食べたかが消えている。
応答式だけでなく、通常の記憶まで巻き込まれ始めている。これは読むたびに。これは読むたびに。
部室のドアが開いた。
◇◇
六花
二時間目の終わりに、つむぎくんが教室にいないことに気づいた。
席が空いている。鞄はある。つむぎくんの鞄。黒くて角ばっていて、いつもノートがはみ出している。鞄はあるのにつむぎくんがいない。
廊下の掲示板の前を通りかかったとき、保健室のお知らせが貼ってあった。「最近、記憶の違和感や方向感覚の不安を感じている人は、気軽に相談してください」。先週まではなかった紙だ。学校にまで来ている。
まどかも気づいていた。あたしとまどかは同じクラスだけど、つむぎくんは隣のクラスだ。休み時間にまどかが来て「つむぎ来てないみたい」と言った。
「部室かな」
「たぶん」
まどかの顔は先週から変わっている。あたしが透けかけたあの日から。「面白い」が消えて、代わりに何か硬いものが入った。焦り。それだけじゃない。怖がっている。まどかが何かを怖がっているのを、あたしは先週初めて見た。その怖さがまだ消えていない。
「あたし見てくるよ」
「あたしも」
「まどかは来ない方がいい」
まどかが口を閉じた。
先週の金曜、つむぎくんはまどかに「お前は僕の仕事を壊した」と言って出ていった。あの怒りがまだ解けていないのは、まどかにもわかっているはずだ。
「あたしが様子見てくる。何かあったら連絡する」
まどかは黙って頷いた。
◇
部室のドアをノックした。返事がなかった。開けた。
つむぎくんがホワイトボードの前にいた。椅子ではなく床に座っていた。足を投げ出して、壁にもたれて、ノートを膝の上に広げていた。鉛筆が一本、床に転がっていた。いつもの三本のうちの一本。
ホワイトボードには金曜の式が残っていた。二つ並んで。まどかのものと、宇宙のもの。七月の蒸し蒸しした空気の中で、二つの式だけが白い。
「つむぎくん」
「ああ」
顔を上げた。目の下に隈があった。土日も来ていたのかもしれない。
「授業出てないでしょ」
「ああ」
「ごはん食べた?」
つむぎくんが少し考えた。考えているのがわかった。眉が寄って、目が少し泳いだ。
「食べた。たぶん」
「たぶん?」
「食べた。何を食べたか思い出せない」
あたしはつむぎくんの隣に座った。床は冷たかった。外はあんなに暑いのに。
「何してたの」
「応答式を読んでた」
「読めた?」
「読むたびに忘れる」
つむぎくんの声は平坦だった。いつもの乾いた声。でもいつもと違って、乾きの下に何もなかった。普段は乾いた声の下に感情を抑制した厚みがある。今日はそれがない。乾いていて、薄い。
「忘れるって」
「読む。理解する。次の行に行く。さっき理解したことが消えてる。戻って読む。理解する。次に行く。消えてる」
つむぎくんが膝の上のノートを見た。
「紙に書けば残る。頭には残らない。応答式だけじゃない。今朝の朝飯も消えた。昨日の夕飯も、もう怪しい」
あたしは何も言えなかった。
数学のことは助けられない。応答式のことも、知識が消えることの怖さも、あたしにはわからない。つむぎくんが何を失いかけているのか、正確にはわからない。
でも、「今朝何食べたか覚えてない」は、わかる。
「食パン」
「え?」
「つむぎくん、今朝は食パンだったよ。あたしは知らないけど、たぶん食パン」
「なんで」
「つむぎくんのお弁当、火曜はいつもサンドイッチだから。サンドイッチの日の朝は食パン。残りで作るって前に言ってた」
つむぎくんがあたしを見た。
「お前、なんでそんなこと覚えてるんだ」
「覚えてるんじゃなくて、知ってるの。つむぎくんが食パンの日は弁当がサンドイッチ。サンドイッチの日は午後ちょっと眠そう。パンの方が血糖値上がるのかな。そういうの、見てればわかる」
つむぎくんは何も言わなかった。しばらく、あたしを見ていた。
「六花」
「なに」
「今日の時間割、教えてくれ」
「国語、数学、英語、体育、化学、LHR」
「昨日の」
「月曜は。数学、英語、国語、社会、物理、総合」
「先週の金曜」
「英語、社会、数学、国語、化学、数学」
つむぎくんが小さく息を吐いた。吐息ではなく、力が抜けた音だった。
「お前の記憶は消えてないのか」
「うん。今のところは」
「矛盾を含んでるのに」
「矛盾を含んでるから、かもしれない。あたしはごちゃごちゃだから。好きと嫌いが一緒にあっても平気。つむぎくんは、たぶんきれいすぎるの。白黒はっきりしてるから、矛盾が入ると壊れちゃう」
つむぎくんの日常を覚えておく。食べたもの。時間割。天気。
「つむぎくん、お弁当持ってきてる?」
「知らない。鞄に入ってるかもしれない」
「見てくるね」
立ち上がって、教室に向かった。
◇◇
つむぎ
六花が出ていった。
床に座ったまま、ホワイトボードを見上げた。二つの式。あいつのと、宇宙の。
宇宙の応答式の意味は、八ページ分のノートに書いてある。僕の頭にはない。紙に書いてある。読めば思い出す。思い出した瞬間にまた消える。
紙は残る。僕の頭は残らない。
いや。
ノートを閉じて、別のノートを鞄から出した。こっちは古い。去年の夏から使っている。表紙に何も書いていない。あいつの証明用のノートには「検算」と書いてある。こっちは何も書いていない。僕の問題だから。
あいつに一度も見せたことがない。あいつは一度も聞いたことがない。
ページを開いた。
僕の問題。僕がずっと考えてきた問題。
あいつの証明は美しいが、不安定だ。宇宙が変わるたびに証明も変わる。検算した次の瞬間に、検算した対象がもう別物になっているかもしれない。
じゃあ、変容そのものを記述する体系を作ればいい。証明の中身ではなく、証明の変化の構造を対象にする数学。変容を追跡する。変化の法則を記述する。
僕はそれをずっと考えていた。あいつの証明を検算しながら、横で。あいつが飛んでいる間に、僕は地面の方を掘っていた。
あいつは知らない。
ノートを読み返した。消えなかった。これは応答式ではなく、僕自身の数学だからだ。僕が自分で考えて、自分で書いた式。矛盾を含んでいない。古典論理の範囲で組み立てた理論。だから消えない。
でも。
この理論を、宇宙の応答式に適用したら。
応答式を「読む」のではなく、応答式の「変容の法則」を記述する。直接触れずに、変化の構造だけを捉える。自己参照的に。自分自身の変化も同時に記述する。
できるかもしれない。
ドアが開いた。
あいつだった。
◇
「つむぎ」
「……何しに来た」
「六花から聞いた。朝飯の内容忘れたって」
「六花が余計なこと——」
「応答式を読んだんでしょ。それで知識が消費されてる」
あいつの声は静かだった。先週の興奮は消えていた。代わりにあるのは——何だろう。慎重さ。あいつに似合わない言葉だが、今のあいつはそう見えた。
「つむぎ。ごめん」
「何がだ」
「全部。金曜も。検算頼むばっかりで。つむぎの問題、一度も聞かなかった」
僕はあいつを見た。
あいつは立っていた。部室の入口で。入ってきていいかどうか測っているみたいに。あいつがそういう顔をするのを、僕は初めて見た。普段のあいつは測らない。入る。座る。やる。それだけだ。
「……座れよ」
あいつが座った。僕の向かいの椅子に。
「つむぎの問題って、何」
僕は黙った。
「今さら聞くのか」
「今さらだから聞いてる。遅いのはわかってる」
あいつの声に怒りはなかった。棘もなかった。ただ、まっすぐだった。あいつがまっすぐなのは数学に対してだけだと思っていたが、今日は違った。
ノートを開いた。何も書いていない表紙の方を。
「お前の定理が宇宙に書き換えられるなら、書き換えの法則を記述する体系が要る」
あいつの目が変わった。光った——いや、違う。前の光り方とは違う。面白いものを見たときの光ではなく、何かに出会ったときの光。
「お前が証明を書く。宇宙が応答する。応答によって証明が変容する。その変容の構造を——メタレベルで記述する理論」
「つむぎ、それ——」
「僕の問題だ。去年の夏からやってる。お前の定理の検算してるときに気づいた。お前の証明は美しいが、不安定だ。触るたびに変わりうる。それを安定的に追跡する理論がないと、検算自体が成立しない」
あいつが黙った。ノートを見ていた。僕の字。僕の数式。あいつの証明とは全然違う。あいつの式は飛ぶ。僕の式は這う。あいつが空を見ているとき、僕は地面の組成を調べている。
「……これ、すごい」
「すごくない。まだ未完成だ」
「すごい。あたしにはこれ作れない。あたしは変容する側だから。変容を外から見ることができない。——つむぎだからできる」
僕はノートを閉じた。少し照れくさかった。嫌だ。こういうのは苦手だ。
「で、この理論を応答式に使えないか、試してた。今朝から」
「それで知識が——」
「応答式に直接触れると消える。だが僕の理論自体は消えない。僕の頭で書いた、矛盾を含まない式だからだ。問題は、応答式と僕の理論を接続するところで、矛盾域に触れる」
あいつが考え込んだ。スマホをいじる手が止まっている。ホワイトボードを見ている。僕のノートを見ている。あいつの目が高速で何かを組み立てている。僕はこの目を知っている。あいつが何かを掴みかけている目だ。
「自己参照」
「何?」
「つむぎの理論を、自己参照型にできないかな」
「どういう意味だ」
「クリーネの不動点。自分自身を含む式にする。読んでも消えない」
僕はノートを開いた。あいつの言っていることを、一段ずつ追った。——理論的には可能だ。だが実装が難しい。
「できるかもしれない」
「やろう」
あいつが立ち上がって、マーカーを手に取った。
「待て。応答式には触るな。先にこっちを——」
「わかってる。つむぎの理論をまず整理する。ホワイトボードの左半分使っていい?」
あいつがホワイトボードに向かった。僕のノートを見ながら、あいつの言語に翻訳して書き始めた。
きゅ、きゅ、きゅ。
いつもの音。だが今日は、僕の数学がホワイトボードに載っている。あいつの式の隣に。
少しだけ、嫌じゃなかった。
◇◇
六花
お弁当を持って部室に戻ったら、まどかがホワイトボードの前にいた。つむぎくんが椅子に座って、何か言っていた。
二人の間の空気が、先週とは違っていた。怒りが消えたわけではない。でも二人の目が同じ方向を向いている。ホワイトボードの上の、あたしには読めない式を見ている。
「お弁当、持ってきたよ」
つむぎくんの鞄にはサンドイッチが入っていた。やっぱり。
「つむぎくん、今日サンドイッチ。卵とハムと、あとレタス」
つむぎくんが振り返った。
「ありがとう」
つむぎくんがお礼を言うのは珍しい。
「あと、今日の残りの授業は体育、化学、LHR。体育はサッカーだって先生が言ってた。化学は小テスト。LHRは進路希望調査の紙を出す日」
つむぎくんが少し笑った。笑ったのも珍しい。
「お前、僕の記憶の外部バックアップか」
「そう。つむぎくんのメモリが足りない分は、あたしが覚えとく」
まどかがこちらを見た。何か言いたそうな顔だった。でも何も言わなかった。
よはんさんが部室に来た。いつものように静かに入ってきて、窓際に座った。ホワイトボードを見て、少しだけ目を細めた。まどかの式とつむぎくんの式が並んでいるのを見て。
「進んでいますね」
「よはん。自己参照型のメタ理論って、お前の論理膜と関係あるか」
まどかが聞いた。
よはんさんが少し考えた。袖を、一瞬だけ握った。
「僕の論理膜は、自己言及的に閉じています。自分自身を含む構造だから、外部の矛盾が浸透しない。つむぎさんの理論が自己参照型になれば、同じ効果が期待できるかもしれません」
「じゃあ」
「ただし」
よはんさんの声が少し硬くなった。
「僕の論理膜は、維持するのに力が要ります。自己参照は安定をもたらしますが、それ自体がエネルギーを消費する。つむぎさんの場合、知識の消費が止まるかわりに、別の何かが削られる可能性はあります」
つむぎくんが黙った。
「でもやるしかない」
つむぎくんが言った。
「応答式を読まないと先に進めない。読むたびに忘れるなら、忘れない方法を作るしかない」
まどかが頷いた。
ホワイトボードの前で、二人が作業を再開した。きゅ、きゅ、きゅ。二本のマーカー。二つの手。
あたしは部室の隅で、サンドイッチを机に置いて、よはんさんの隣に座った。
「よはんさん」
「はい」
「つむぎくん、大丈夫かな」
「わかりません。でも、六花さんがいるなら。記憶の消費は、少しだけ怖くないかもしれません」
「あたしがいても、数学は助けられない」
「数学は十六夜さんが支えます。日常を支えるのは六花さんにしかできない」
あたしはよはんさんを見た。よはんさんはホワイトボードを見ていた。横顔がきれいだった。制服がいつも通り正確だった。
「よはんさんの日常は、誰が覚えてるの」
よはんさんが少しだけ笑った。
「僕には日常がないので」
「あるよ」
「え?」
「よはんさんは毎朝、窓際の同じ席に座る。同じ本を読む。お昼は購買のメロンパンを一個だけ買う。午後は少し眠そうにする。帰るとき必ず『お先に失礼します』って言う」
よはんさんが黙った。
袖を握っていた手が、少しだけ緩んだ。
「覚えていてくれたんですか」
「見てたから」
それだけのことだ。
◇
夕方。
まどかとつむぎくんが三時間作業して、自己参照型のメタ理論の骨格ができた。つむぎくんが応答式の一部を、新しい理論を通して読み直した。
消えなかった。
読んだ内容が頭に残っていた。五分経っても。十分経っても。
つむぎくんが鉛筆を置いて、天井を見上げた。
「消えてない」
「消えてない?」
「読んだ。覚えてる。消えてない」
まどかが笑った。先週から初めてだった。
胸の真ん中が、きゅっと詰まった。息を吸えなかった。一秒だけ。まどかの笑顔を見て息が止まるのは初めてじゃないけど、今日のは種類が違った。
でも。
「つむぎ。他のことは。今朝の朝飯とか」
つむぎくんが考えた。
「思い出せない。応答式の方は残ってるのに、朝飯はまだ消えてる」
「完全には止まってないのか」
「応答式に対しては効いてる。だが縮約そのものは別の現象だ。こっちの理論で止まるのは応答式の読み取りに伴う消費だけで。根本の縮約は止まらない」
部室が静かになった。
止められない。部分的にしか。
あたしは窓の外を見た。夕方の空が赤い。先週より少し、色が薄い気がした。
「食パンだよ」
あたしは言った。
「つむぎくんの今朝の朝飯。食パン。バターと、たぶんジャム」
つむぎくんがあたしを見た。
「そうか」
鉛筆をポケットにしまった。三本。まだ三本あることを確かめるみたいに、指で数えていた。
「明日も忘れてたら教える。明後日も。ずっと」
つむぎくんは何も言わなかった。
しばらくして、部室を出た。
まどかとつむぎくんはまだホワイトボードの前にいた。きゅ、きゅ、きゅ。二人が数学をしている時間に、あたしにはあたしの時間がある。
廊下を歩いた。校舎の中は暑かった。コンクリートの照り返しと、部室に残ってきたマーカーの匂いが鼻の奥にこびりついている。階段を下りるたびに、校舎の熱が肌にまとわりつく。もっと風のあるところに行きたかった。
気がついたら、走っていた。校門を抜けて、道路を渡って、川の音のする方へ走っていた。理由はない。足が勝手に動いた。走っている間は考えなくていい。頭が空っぽになる。それだけが必要だった。
河原は広くて、石がごろごろしていて、蝉の声と水の音が混ざっていた。七月の夕方。空が赤い。先週より少し、色が薄い。草の匂いがする。川の水と、温まった石と、夏の草の匂い。
石に座った。ごつごつして冷たかった。つむぎくんの記憶が消えていく怖さ。まどかの「面白い」が止まった静けさ。自分の手が透けかけた感触。全部まだ体に残っている。風に当たって、少しだけ薄めたかった。
川面を見ていた。
茂みが揺れた。
茶トラの尻尾が見えた。猫が河原の石の間をすり抜けて走っていく。
次の瞬間、でかい声がした。
「待って待って待って」
河原の向こう側を、女の子が全力で走っていた。猫を追いかけている。ことはちゃんだ。日焼けした腕で、石の上をまったく滑らずに走っている。あんなに速いのに、足音がやけに軽かった。
猫は茂みの奥に消えた。ことはちゃんが立ち止まって、両手を膝について、はあはあ言いながら笑った。逃げられたのに笑っている。声がでかい。河原に響く。
あたしの方を向いた。
目が合った。
「りっか!」
全力で手を振った。名前を呼ぶのも手を振るのも全力。
あたしは笑った。
その瞬間、風が一瞬止まった。
笑ったあとで、自分で少し驚いた。今日、笑えるとは思っていなかった。
でもことはちゃんが名前を呼んだから、笑ってしまった。
ことはちゃんは猫を諦めて、こっちに走ってきた。石の上を跳ぶように走る。速い。陸上部だと言っていた。あたしの隣に座った。息が上がっている。笑っている。
「ねえりっか」
「ん?」
「あたしさ、走るの好きなんだよね」
ことはちゃんは川面を見ていた。息がまだ速い。
「足が地面蹴ってるとき、頭の中何もないの。全部消えるの。考えなくていいの。いいよね」
「……いいね」
あたしも同じだった。走っている間は、まどかのことも、宇宙のことも、消える。足と地面だけがある。ことはちゃんも同じなのだ。
「りっかも走るの好きでしょ。見ればわかる」
「なんで」
「走ってる人の足見ればわかるよ。りっか、ふくらはぎの筋肉ついてる。走ってる人の足」
あたしは自分のふくらはぎを見た。確かに、演劇部にしては筋肉がついている。毎朝走ってるからだ。
「今度一緒に走ろうよ」
「……いいよ」
ことはちゃんが笑った。でかい声で。河原に響いた。
あたしも笑った。
また笑えた。同じ日に、二度。
「ねえ、りっか朝走ってるとき声出してない? 聞こえたよ、河原で」
「……発声練習。演劇部だから」
「えー! りっかが! 見たい」
「恥ずかしいからだめ」
「台詞じゃなくてもでかくていいのに。りっかの声、通るよ」
ことはちゃんがそう言って、また笑った。
「ねえ、りっかと一緒にいた眼鏡の人、怖くない? 廊下ですれ違ったとき睨まれた」
「つむぎくん。怖くないよ。あれ数式読むときの目がそのまま出てるだけ」
「えー。あの肩幅で睨んでくるの怖いって」
ことはちゃんはしばらくあたしの隣にいて、それから「もう一周走ってくる!」と言って立ち上がった。走り出した。全力で。あっという間に小さくなった。遠くで何か叫んでいる。何を言っているのかは聞こえない。でも楽しそうだった。
あたしはしばらく河原に座っていた。川面がオレンジ色に光っている。風が吹いていた。
ことはちゃん。同じクラスなのに、先週まで話したことがなかった。猫が好きで、走るのが速くて、声がでかい。数学は関係ない。宇宙も関係ない。ただ猫を追いかけて全力で笑う子。走ることが好きな子。あたしと同じ。
でも笑えた。
それだけのことが、今日のあたしには大きかった。
◇
帰り道。スマホを見た。まどかからLINE。
『りっか 明日来る?』
短い。句読点がない。いつものまどか。でもこの三文字には、たぶん、昨日より少しだけ多くのものが入っている。
『行く』
既読がすぐについた。
河原に座ってもう少し経ったとき、スマホがなった。ことはちゃんからのLINE。
『りっかー!!さっき河原にいたの気づかなかった!!黒い猫見た??来週日曜朝8時に河原で猫探ししよ!!!』
びっくりマークが多い。声がでかいのは文面も同じらしい。
あたしは返信した。
『見た。来週日曜、朝8時。一緒に探そう』
すぐに返事が来た。
『やった!!待ってる!!待ってる!!待ってる!!』
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まどかのノート #6
【知識の消費】
古典論理の脳に矛盾を含む式を読ませると、爆発律が局所的に発動する。本来なら体系全体が崩壊するはずだが、接触した知識だけが蒸発して止まる。既存の論理学にこの現象を説明する枠組みはない。この宇宙固有の現象。
【変容追跡理論】
証明が変容するなら、変容そのものを記述するメタ理論が要る。クリーネの再帰定理(第二再帰定理)で自己参照型にすると、応答式の消費を回避できる。自分を含む体系は外から壊されない。




