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第十話 停止問題

===


 岩壁に何かが埋まっていた。


 半分だけ露出している。節足動物に似ているが、脚が七本ある。中心から七方向に広がっている。どの図鑑にも載っていない形。


 地層の縞が途中で二重になっていた。同じ年代のはずの岩が、二枚重なっている。片方はきめが細かく、もう片方は粗い。同じ海で、同じ時間に、違う底が存在していた。


 崖の上に足跡がある。二列。等間隔。人間のものではない。もっと大きくて、指の数が違う。


 足跡は崖の端で途切れていた。崖の下に平地が広がっている。川が一本流れている。どこかで見た地形だった。商店街と、河原と、同じ傾斜。


===



      六花


 朝になっていた。


 足の裏がまだ熱い。昨夜のアスファルト。サンダルで走ったから。一人で走ったから。


 自分の部屋。天井を見ていた。白い。まどかの天井も白いんだろうか。


 あたしだけが覚えている。その事実は昨夜から変わらない。


 でも——一人で走るのは昨夜で終わりにする。



◇◇



      つむぎ


 零崎の研究室に通い始めて、三週間が経った。


 週に二回。火曜と金曜。あいつの部室に行かなくなった分の時間を、敵の研究室で過ごしている。自分で選んだ。あいつの顔を見に行けないなら、あいつの敵の顔を見る。僕にできるのは検算だけで、検算の対象がここにある。


 十月の第一週。火曜。午後三時。


 廊下が狭い。先月より狭い。気のせいではないはずだ。左右の壁までの距離が縮まっているか、天井が低くなっているか、どちらかだ。呼吸が浅くなる。


 研究室のドアをノックした。


「どうぞ」


 零崎は窓際に立っていた。いつもはデスクの前にいる。今日は違った。窓に向かって立っていた。背中が見えた。ジャケットの肩が少し落ちている。前に会ったときより痩せたかもしれない。世界が痩せている。それが人間にも移っているようだ。


 デスクが散らかっていた。カップ五つ。赤ペン三本、キャップが外れたまま。紙が壁から溢れている。まどかの部屋と同じだ。モニターの横に写真が一枚。小さな女の子。


「先生」


「ああ。梶くん。——今日は、見てほしいものがある」


 零崎が振り返った。目の下にクマがあった。まどかのクマと同じ色だった。


「式ですか」


「式ではない。結果です」


 零崎がモニターの前に座った。画面に何かのインターフェースが表示されている。見たことがない。LOGICAではない。もっと古い、テキストベースの画面。コマンドラインが点滅している。


「先生。これは」


「公理注入のオペレータです。八月のパルスは——あれは波でした。拡散する波。今回は違う。体系に直接書き込む」


 僕は椅子に座った。ノートを出した。鉛筆を取った。三本。うち一本、先端が欠けている。欠けた先端はどこかの教室に落ちたままだ。拾いに行く場所がもうない。


「先生。それを——今から使うんですか」


「テスト実行です。限定的な。局所領域に、一つの公理を注入する。観測可能な範囲で効果を確認したい」


 零崎の声は穏やかだった。いつもと同じ。実験の手順を説明する教授の声。


「止めてください」


 言った。言ったが、声が小さかった。


「梶くん。あなたは検算者です。検算者が結果を観測する。それが正しい手順でしょう」


「検算の対象が——世界を壊す式の、実行です。観測じゃない。共犯です」


「共犯。——そうかもしれません。ですが梶くん」


 零崎がキーボードに手を置いた。でも入力しなかった。回転椅子に座った。僕の方を見た。


「三週間、あなたの検算を見ていました。——正確です。一つの誤りもない。だからこそ聞く。正しさが檻になることを、あなたはいつから知っていましたか」


 息が止まった。


「先生」


「あなたが『合っている』と言えばこそ、汐——十六夜さんは式を書き続けることができた。あなたの正しさの中に、十六夜さんは閉じ込められている。——あなたは、それを知っていて書いた」


 胸の奥が締まった。


「それは——」


「あなたの研究テーマではなかったか。正しいことが、本当に正しいのか。その問い。——ならば、あなたは何をしている。今ここで。観測者のふりをして。自分の正しさから逃げている」


 僕は立ち上がるべきだった。椅子を蹴って、ドアを開けて、走って出るべきだった。零崎の手を止めるべきだった。物理的に。キーボードを叩き落とすべきだった。


 動けなかった。


 検算者は観測する。観測者は手を出さない。僕の役割は——見ることだ。正しいかどうかを確かめることだ。正しいかどうかを確かめるためには、実行されなければならない。


 自分の正しさがまどかを壊していた。選択肢を奪っていた。


 僕は座ったまま、零崎の手を見ていた。


 零崎がコマンドを入力した。


 エンターキーを押した。



 何も起きなかった。


 ——と思った。画面にログが流れている。数字の列。パラメータの変化。僕にはまだ意味がわからない。


 零崎が窓を見た。


「見てください」


 僕は窓に近づいた。


 窓の外。北。いつも稜線が三つ見えていた。三週間通って、毎回。一番右が少し高い。


 一番右がなかった。


 稜線が二つしかない。山があった場所が空になっている。


 目を擦った。見間違いではなかった。


「消えたのではありません」


 零崎が言った。穏やかに。


「確定したのです。あの山の地層にはB値が含まれていた。ある地質年代に、あの場所に山がある歴史と、ない歴史が重なっていた。B値です。古典化によってFに確定した。——なかった方の歴史に確定した」


 僕は窓枠を握っていた。手が白くなっていた。


 山が一つ消えた。


 あの山に木があった。鳥がいた。麓に家があったかもしれない。全部「なかった」に確定された。


「先生」


「はい」


「これを——全世界でやるつもりですか」


「矛盾がなくなれば、これ以上は失われない。汐の記憶も。あなたの知識も。——十六夜さんの仲間も」


「ことはは戻りませんよ」


 言った。初めて、零崎の前でことはの名前を出した。


「戻りません。ですが、次の人が消えることは防げる」


 零崎がモニターに目を戻した。ログがまだ流れている。公理注入のテスト結果。数値が安定している。零崎が頷いた。小さく。


「テスト成功です。次は——規模を拡大します」


 僕は研究室を出た。


 廊下を歩いた。足が重かった。階段を降りた。大学の正門を出た。


 北の空を見た。稜線が二つしかなかった。三つ目があった場所に、空があった。


 世界が痩せている。毎日少しずつ消えている。


 停止問題。チューリングが証明した。あるプログラムが停止するかどうかを、事前に一般的に判定するアルゴリズムは存在しない。


 あいつは止まるか。あいつの数学は止まるか。


 零崎は止まるか。


 僕は?


 停止するかどうかは、走ってみないとわからない。


 スマホを出した。六花にLINEを打った。


 『零崎が動いた。山が一つ消えた。あいつが要る。あいつじゃないと止められない』


 送った。ポケットに手を入れた。指が鉛筆に触れた。三本の木の感触。一本だけ短い。折れた分だけ短い。——この三本で、僕に残された検算がどれだけある。


 零崎の言葉が頭から消えなかった。君の正しさが檻だ。——そうかもしれない。正しいことに意味がないのかもしれない。正しいかどうかじゃなく、見ていること。そこにいること。検算とは、正しさを確かめる行為だった。でも——見ることだけが残るなら。書くことだけが残るなら。


 折れた鉛筆を握った。手が震えた。



◇◇



      六花


 朝。スマホでことはのトークを開いた。再生ボタンを押した。無音。毎朝押している。声はとうに消えた。指だけが続けている。


 支度して、学校に行った。


 坂を上がった先に、いつも信号があった。横断歩道があった。先週まで。


 信号がなかった。横断歩道がなかった。道が真っ直ぐつながっていた。止まる場所がなくなっていた。


 誰も立ち止まらなかった。信号がなかったかのように歩いている。あたしだけが立ち止まった。あたしだけが、ここに赤と青が交互に光っていたことを覚えている。信号が消えたら、止まれの合図がなくなる。みんな止まれなくなる。——まどかみたいに。


 まどかのところに行こう。覚えているうちに。まだ道がわかるうちに。


 昼休み。スマホを出してまどかにLINEを打とうとしたとき、つむぎくんからLINEが来た。


 『零崎が動いた。山が一つ消えた。あいつが要る。あいつじゃないと止められない』


 山が消えた。先月は商店街だった。店が壁になった。看板が消えた。人が減った。今度は山。


 あたしはもう決めていた。つむぎくんのLINEが来る前に。


 返信を打った。


 『もう行くつもりだった。今から行く』


 つむぎくんから返事が来た。すぐに。


 『頼む』



 午後の授業を早退した。


 「先生、具合が悪いので」。先生が頷いた。あたしの名前を呼んだかどうか、わからなかった。目が泳いでいた。


 まどかの家まで走った。走れるうちに走る。


 まどかの家の前に着いた。門。庭。植木の葉が萎れている。枯れている。先月来たときより色が褪せている。


 チャイムを押した。


 間があった。長い間。


 ドアが開いた。芹香さん。


 あたしの顔を見て——一瞬、目が泳いだ。


「あ——六花ちゃん。六花ちゃんよね」


 「よね」。


 先月は「六花ちゃん」と迷いなく呼んでくれた。今日は確認が入った。あたしの名前に、一瞬のためらいがあった。


「はい。六花です。まどかに会いに来ました」


「まどか、まだ部屋にいて……。でも最近は——なんだか夜中に音がするの。マーカーの匂いがするの。何か書いてるみたい」


 胸の底が冷えた。


「上がっていいですか」


「もちろん」


 階段を上がった。まどかの部屋は二階の奥。ドアの前に食事のトレーが置いてあった。今朝のぶんだろう。半分くらい手がついていた。先月より食べている。


 ドアの前に立った。


 マーカーの匂いがした。ドアの隙間から。赤いインクの匂い。ホワイトボードのマーカーの、あの匂い。


 ノックした。


「まどか。あたしだよ」


 沈黙。三秒。五秒。


 ドアが開いた。


 十センチではなかった。全開だった。



 部屋の中を見た。


 息が止まった。


 壁に——式が書いてあった。


 ホワイトボードだけではなかった。折りたたみのホワイトボードは壁際に立てかけてある。それは九月に来たときと同じだ。だが今は——壁に直接書いてあった。


 白い壁紙の上に、赤いマーカーで。式。記号。数字。壁の一面。左端から右端まで。上から下まで。途中で消した跡がある。ティッシュで擦ったような赤い滲みがある。その上から書き直してある。何層も重なっている。


 一面だけではなかった。隣の壁にも。窓の横にも。天井に近い場所にも。椅子に乗って書いたのだろう。脚立があった。まどかの身長では届かない高さに、式が書いてある。


 床に赤いマーカーが散らばっていた。十本以上。使い切ったものがほとんどだった。キャップが外れたまま転がっている。インクが乾いて、ペン先が固まっている。


 まどかが部屋の真ん中に立っていた。


 パジャマ。髪がぼさぼさ。目の下のクマ。先月と変わらない——いや、違う。目が違った。先月の暗い目ではなかった。熱があった。熱と、恐怖と、何か名前のつかないもの。


 右手に赤いマーカーを持っていた。キャップが外れている。指先が赤く汚れていた。


「……りっか」


 あたしは壁を見ていた。壁の式を。何が書いてあるかは読めない。でも量はわかる。一ヶ月ぶんの量だった。引きこもっていた一ヶ月。この部屋で。一人で。壁に。


 式を書かなければ加速しないと言った。あたしを追い出した。


 書いていた。


 止めていなかった。一日も止めていなかった。壁の式の密度を見ればわかる。毎日書いている。朝から晩まで書いている。赤いマーカーを十本以上使い切るまで書いている。


「嘘ついてたんだ」


 あたしの声が出た。低かった。自分の声だと思えなかった。


「りっか——」


「式書かないって言ったじゃん。書いたら世界が壊れるって。だから近くにいないでって。——書いてるじゃん。ずっと書いてたんじゃん」


 まどかが何も言わなかった。マーカーを持ったまま立っていた。


「あたし一ヶ月待ったよ。一ヶ月。LINEの既読もつかなくて。毎日学校行って、席が空いてて、誰が座ってたか思い出せなくて。商店街の店が消えて。交差点がなくなって。ことはの声も消えて。毎朝聞いてるのにノイズばっかりで。芹香さんがあたしの名前忘れかけてて。——その間まどかは部屋で式書いてたの?」


「……ごめん」


「ごめんじゃなくて」


「止められなかった」


 まどかの声が震えていた。先月の、あの平らな声ではなかった。震えていた。


「嘘。止めなかったんでしょ」


「違う——」


「じゃあなんで壁に書いてんの。一ヶ月。毎日」


「三日目に——起きたら壁に書いてあった。あたしの字で。いつ書いたかわからない」


「わからないわけないじゃん」


「わかんないの! 目を閉じても式が見える。閉じた方がよく見える。手が勝手に——」


 まどかの声が裏返った。一ヶ月ぶりに聞く、まどかの大きい声だった。


「面白い、って思いながら書いてる。ことはが消えたのに。りっかを傷つけたのに。面白いが止まらない——!」


 まどかが自分の口を手で押さえた。赤い指で。言い過ぎた、という顔ではなかった。聞かせたくなかった、という顔だった。


 あたしは黙った。怒りが——消えていなかった。消えていないのに、まどかの赤い指を見ていた。爪の縁にインクが溜まっている。一ヶ月ぶんの赤。


「怪物を——止めて」


 小さい声だった。さっきの裏返った声と同じ喉から出ている。


 あたしは何も言わなかった。


 壁を見ていた。赤い式。一ヶ月ぶん。毎日。毎晩。LOGICAなしで。つむぎくんなしで。六花なしで。たった一人で。


 ことはは笑いながら消えた。「あたしは平気だよ」と言った。あの声はもう再生されない。


 まどかは壁に式を書き続けている。「怪物なの」と言った。止められない。


 止められない人たちの横に、あたしはいつもいる。それが選択だ。あたしが選ぶ。あたしが決める。


 つむぎくんのLINEが頭の中に浮かんだ。『零崎が動いた。山が一つ消えた。あいつが要る。あいつじゃないと止められない』。


「まどか」


「……なに」


「山が消えた」


 まどかの目が変わった。


「零崎先生が公理注入のテストをした。つむぎくんが見てた。山が一つ消えた」


「……いつ」


「今日」


 まどかが壁を見た。自分が書いた式を。赤い式を。何かを読み取っている。目が速かった。壁の上を走っている。


「ここ」


 まどかが壁の一箇所を指差した。


「今朝書いた式の、この項が——揺れた。おかしいと思った。外部からの干渉。これが零崎先生の——」


「まどか。出てきて」


「出られない。あたしの近くに——」


「いる」


 あたしは右手を差し出した。


 九月にこの部屋から追い出された手を。ことはを掴めなかった手を。まどかの手を握って式を安定させた手を。


「あたしはここにいる。消えるかもしれない。——でも、それはあたしが決める。あんたじゃなくて」


 その言葉を聞いた。ことはが消えるときも、あたしはまどかを見ていた。あたしが見た方の方が消えた。あたしが選んだ。


 今度は違う。あたしが選ぶ。あたしが決める。


 まどかが——あたしの手を見た。


 差し出された右手を。


 手を伸ばしかけた。赤いマーカーを持ったまま。指先がインクで汚れたまま。


 止まった。


「りっか——」


「知ってる」


 まどかの右手がマーカーを握ったまま震えていた。指先のインクが乾いて、爪の縁に溜まっている。離せない。離したら書けなくなる。


 書けなくなったら——止められない自分を止められない。


 取らなかった。


 あたしの手が空中に残っていた。ことはのときと同じだ。手を伸ばして、掴めない。空気。何も触れない。


 違う。ことはは消えた。まどかは消えていない。目の前にいる。手を伸ばせば届く距離にいる。


 届く距離にいるのに、取ってくれない。


 まどかがマーカーに目を戻した。あたしではなく、壁を見た。背中を向けた。


「帰らない」


「りっか」


「帰らない。ここにいる」


 まどかが何も言わなかった。


 あたしは壁にもたれた。赤い式に背中をつけた。壁が——温かくなった。あたしの背中が触れた場所だけ、赤い式の震えが止まった。気のせいかもしれない。でも確かに、あたしが触れた場所だけ、壁の赤が落ち着いていた。


 あたしの右手がまだ空中にあった。指が開いたまま。


 まどかの右手はマーカーを握ったまま。赤い指。


 二人の手の間に三十センチくらいの空間があった。


 手が止まっていた。あたしの手が。三十センチの先に壁があった。見えない壁。手を近づけると空気が厚くなった。圧力が返ってくる。壁が押し返してくる。指先が痺れた。


 その間に。


 湯気のようなものが見えた。赤い何かが。まどかの指先から滲み出ている。消えかかる存在が。見えているのに触れられない敵が。


 あたしが手を伸ばしたら、その赤さに吸い込まれる。縮約される。式と一緒に消える。


 マーカーのインクの匂いが充満している。窓から十月の低い光が入っていた。壁の赤い式に二人の影が映っていた。影の手が近くて、重なっていなかった。


 三十センチの距離。見えているのに繋がらない。


 あたしは手を下ろさなかった。


 まどかは手を取らなかった。


 壁の赤い式が何か言おうとしている。ことはが消えた後の空白を、赤い式が埋めている。でも埋まっていない。空白は空白のままだ。


 世界が痩せている。毎日少しずつ消えている。つむぎくんからのLINE。『あいつじゃないと止められない』。あいつ。誰?


 その間で、世界はもう一段階小さくなった。


「止められないのは、大事だからでしょ」


 まどかが黙った。


「あたしはB。好きで嫌いで、怖くて会いたくて、怒ってるのにここにいて。全部本当。矛盾してる。でも壊れてない」


 まどかの指先が——あたしの手のひらに触れた。


 冷たかった。八月からずっと冷たい手。指の皮が荒れていた。マーカーを握り続けた指。赤いインクがあたしの手のひらに移った。去年の夏、芹香さんが切ってくれたスイカの汁みたいに、赤が掌の線に沿って広がった。


 あたしは拭わなかった。


 握った。まどかの赤い指を。冷たい指を。あたしの手も冷たかった。B値の手。二人とも冷たかった。温かくはならなかった。——でも、握れた。


「出よう」



◇◇



      よはん


 つむぎからメッセージが来ていた。『零崎が動いた』。短い文だった。


 ボタンを確認した。五つ。先月と同じ。罅はない。糸は張っている。


 六花さんは今頃、十六夜さんの家に向かっているだろう。走っているだろう。


 ——五つのうち、いくつあれば僕は在れるか。計算はした。答えは出ている。出ているが、正確な数は——書かない。書いたら検算されてしまう。つむぎに。あいつが見たら止める。止められたくない。


 窓の外を見た。空が低い。空の向こうに、温かいものがある。六花さんの手の温度。あれが残るなら——僕はそのために使える。五つのうちの、いくつかを。


 制服の襟を正した。ボタンを全部留め直した。明日、零崎の前に立つ。四人で。



---



まどかのノート #10


 赤い線が三本、引いてある。


 一本目は式の冒頭。「∀x∈T,」の先が途切れている。マーカーが滑った跡がある。

 二本目はもっと短い。「∀」の一画目で止まっている。力が入りすぎて紙が破れかけている。

 三本目は線ですらない。赤い点。マーカーを紙に押し当てて、動かせなかった痕。


 あとは白紙。

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