第十一話 証明か、信仰か
六花
研究棟の五階。零崎の研究室の前。
四人で来た。壊れたまま来た。
まどかの家を出るとき、一階の電気がついていた。芹香さんのスリッパの音が廊下でした。追いかけてこなかった。
まどかがドアの前で足を止めた。
「四月に——零崎先生がうちの部室に来た。あのとき言われた。『矛盾のせいで消えた人間を知らないから、面白いと言えるんです』って」
声が震えていた。
「今は知ってる。ことは。——知っても止められなかった」
ドアをノックした。赤い指で。
「どうぞ」
穏やかな声。
◇
研究室はまどかの部屋と似ていた。壁に数式。赤と黒と青のペン。コーヒーカップが散乱している。デスクの端に写真立てがあった。幼い女の子が笑っている。前歯がない。りんご飴を持っている。
つむぎくんが足を止めた。
入り口で。一歩目が出ていなかった。三週間通った部屋だ。あの椅子に座っていた。あのモニターの横で検算していた。零崎の赤いペンとつむぎくんの鉛筆が同じ机の上にあった——三週間前まで。
まどかが壁の式を見ていた。目が速かった——いつもの「面白い」を探す目。だが速度が落ちた。止まった。まどかの手が自分の腕を掴んでいた。初めて見た。数式の前で、まどかが自分を押さえている。
零崎が四人を見た。
まどかを見た。つむぎくんを見た。
「梶くん。——来てくれましたか」
つむぎくんが何も答えなかった。零崎の目を見ていた。あたしの隣で、息が止まっていた。
「屋上に出ましょう。壁がある方がいい。——あなたも、そうでしょう?」
まどかが頷いた。
◇◇
屋上に出た瞬間、風がぶつかった。
フェンスの支柱を握った。錆の粉が手のひらについた。
空が低かった。遠くの山並み——稜線が一つしかない。先週は二つあった。零崎が消したのは一つだけだ。もう一つは、勝手に消えた。縮約が止まっていない。
零崎がスマホを取り出した。公理注入のオペレータ。
「始めます」
零崎を見た。スマホの画面を見ている。あたしたちを見ていない。
——叩き落とす。
体が前に出かけた。右足が浮いた。
まどかが歩いた。零崎ではなく、壁に。階段室の外壁。灰色のコンクリート。赤いマーカーの蓋を歯で噛んで取った。迷いなく。
壁に向かった。まどかの一ヶ月がそうさせている。あの部屋で壁に書き続けた一ヶ月が。壁が戦場だとまどかの体が知っている。
つむぎくんがまどかの後を追った。ノートを開いた。鉛筆を構えた。
あたしの右足がまだ浮いている。壁に触れても式は書けない。あたしにできるのは走ることだけだ。
よはんさんがあたしの横に立った。
「六花さん。僕が膜を張ります。——零崎を止めに行けますか」
よはんさんの目があたしを見ていた。まどかではなく。壁ではなく。あたしを。
答える前に走っていた。
◇
零崎がエンターキーを押した。
空気が重くなった。八月の部室と同じ圧力。だが桁が違う。
二つの音が同時に始まった。
きゅ、きゅ、きゅ。壁で。まどかの赤いマーカー。一ヶ月壁に書き続けた手が、屋上の壁を走っている。
さらさらさら。ノートの上で。つむぎくんの鉛筆。きゅきゅきゅの裏拍で走っている。
よはんさんが膜を広げた。まどかとつむぎくんの周囲に。重い空気が膜の外に押し返されていく。
あたしは膜の外にいた。重い空気の中を走った。零崎に向かって。
◇
走った。零崎に。右肩から。
零崎が半歩——横に出た。
あたしの肩が空を切った。慣性で三歩通り過ぎた。靴底がコンクリートを削った。振り返った。
零崎はスマホの画面を見ていた。左手で画面を叩いている。右手が下がっている。あたしが通り過ぎたことに——驚いていなかった。見ていなかった。最初から見ていなかった。
◇
壁の方を見た。まどかの手が走っている。赤い線が壁を埋めていく。つむぎくんの鉛筆がさらさらと追いかける。
「——効いてる」
つむぎくんの声が震えた。震えていたが——笑っていた。
「拡散速度が落ちてる!」
走れる。この四人で。膝が笑っていても。
零崎の左手がスマホを叩いた。何かのシーケンスを組んでいるように見えた。
空気が変わった。壁のまどかの式が——薄くなった。零崎が片手で古典化を加速させている。片手で。あたしを受け流しながら。
◇
もう一度走った。今度はスマホを狙った。右手を伸ばした。
零崎の右手があたしの手首に触れた。
触れただけ。力がない。なのに——手首が曲がった。体が回った。回転の方向が変わって、膝がコンクリートについた。
膝の皮が擦れた。痛い。でも——零崎は痛くしていない。あたしの勢いが痛くしただけだ。零崎はあたしの力を使って流しただけだ。
零崎があたしの右手を握っていた。B値の手を。
——冷たさが流れた。あたしの手から零崎の手に。いつもと逆だった。あたしが触れると温かさが流れる。なのに今は——冷たさが流れていた。
零崎の指が震えた。
一瞬。すぐに離した。何事もなかったように手を引いた。
「座っていてください。——危ないですから」
静かな声。傷のない目。あたしを見たのは一瞬だった。目はすぐにスマホの画面に戻った。
あたしは膝をついたまま、零崎の背中を見ていた。背中しか見えなかった。振り向かない。あたしの方を向かない。あたしがここにいることを——気にしていない。
◇
よはんさんが——制服の襟に手をやった。ボタンに触れた。確かめるように。数えるように。それから手を下ろした。答えを持っている人間の手つきだった。
よはんさんが膜を——零崎に向かって放った。包むように。防御ではなく。
零崎の体に膜が触れた瞬間——白く溶けた。石鹸の膜が熱湯に触れたように。音もなく。零崎の周囲に古典化の場がある。矛盾を溶かす場が。よはんの膜は矛盾そのものだから。
よはんさんの右手の小指が——一瞬透けた。曲がらなくなっていた。
「論理膜が溶ける——零崎の周囲は古典化されている」
よはんさんの声が低かった。低い声に理解があった。
◇
つむぎくんがノートの端に——式ではないものを書いていた。
数字。零崎がスマホを叩いてから壁の式が消えるまでの秒数。右手を使ったタイミング。片手操作の癖。
三週間、あの研究室で隣に座っていたから知っている。零崎の癖。同じリズムだった。
◇
立ち上がった。膝が痛かった。でも走れる。
零崎に向かった。三度目。低く。足を狙った。ジャケットの裾に指がかかって、軽く押されて、コンクリートの上に転がった。
三回。三回突っ込んで、一度もあたしの方を見なかった。
「雪城さん。それでは壁に書けませんよ」
まどかの方を見て言った。あたしにではなく。あたしの名前を呼んでいるのに、あたしに向けていなかった。
◇
まどかが書いた。新しい対抗式。零崎が修正した。まどかが書いた。零崎が修正した。一手打つたびに一手返される。
「追いつけない——! 零崎の方が速い!」
「十六夜さん。あなたは速い。——でもね。私は、止まれなかった時間の分だけ先にいるんです」
まどかの手が震えていた。きゅ、と音が裏返った。
◇
四度目。スマホを奪おうとした。
零崎があたしの手首を取った。今度は——流さなかった。握ったまま。膝立ちのあたしを見下ろした。初めて——まっすぐに。淡い目。
「十分です。——壁に行きなさい」
手首を離した。置くように。丁寧に。
零崎がスマホをジャケットの内ポケットに入れた。
壁の式が——まだ消えていく。ポケットの中のスマホが、まだ走り続けている。
「自律走行です。私が止めても止まりません。——止める方法は、十六夜さんの方がご存じでしょう」
まどかの方を見ていた。穏やかで——痛い目で。
あたしは膝をついたまま、零崎の背中を見ていた。四回走って、四回流されて——一度も殴られていない。一度も。零崎はあたしを傷つけなかった。傷つける理由がなかった。あたしはあの人にとって——戦う相手ですらなかった。
◇
零崎がつむぎくんの方を向いた。
あたしは立ち上がろうとしていた。膝が笑っていた。壁に行くしかない。壁に行って——何をする。式は書けない。
零崎の声が聞こえた。
「梶くん」
つむぎくんの鉛筆が止まった。
「三週間。火曜と金曜。——君は一番よく見ていた」
つむぎくんが動かなかった。鉛筆を握ったまま。零崎の方を見ていた。さっきまで壁に向かっていた目が、零崎に向いていた。
「この式の美しさがわかるだろう。完全にすれば矛盾は消える。消えれば——これ以上誰も失われない」
「先生」
つむぎくんの声がかすれていた。
「ことはは戻りません」
零崎が——少し笑った。悲しい笑い方だった。
「戻らない。だが梶くん。君の検算は何のためにある。正しさを確かめるためだろう。——正しさの先にあるのは完全性だ。君はそれを知っている」
つむぎくんの手が震えた。鉛筆の先がノートの上で揺れた。
知っている。つむぎくんは知っている。あの研究室で三週間、零崎の式を検算した。美しさを知った。完全性の誘惑を知った。正しいことの先に完全があることを——あたしより、たぶんまどかよりも、知っている。
「僕は検算者です」
つむぎくんが言った。声が低かった。
「先生の式も検算しました。——合ってました。合ってたから怖かったんです」
零崎の眉が動いた。
「合っている式が世界を壊す。合っている式でことはが消えた。正しさで人が消えるなら——正しさは何のためにあるんですか」
あたしは立ち上がっていた。いつの間にか。つむぎくんの声を聞きながら。膝が震えていたけど立っていた。
零崎が——一歩、つむぎくんの方に近づいた。
「だからこそだ、梶くん。矛盾を放置すれば、消失は続く。ことはさんの次は——」
零崎の目がよはんさんに向いた。一瞬。戻った。
「完全にすることでしか、止められない」
つむぎくんの顔が——白かった。血の気がなかった。反論の言葉を探している。見つからない。合っているから。零崎の論理が合っているから。検算者には合っているものを否定する言葉がない。
まどかが壁の前で振り返った。つむぎくんを見ていた。つむぎくんは——まどかを見なかった。零崎を見ていた。
つむぎくんの手が——鉛筆を握り直していた。答えより先に手が動いていた。
「——書きます」
つむぎくんが壁に向き直った。零崎の問いに答えなかった。答えられなかった。だから書く方を選んだ。
零崎が——小さく頷いた。何かを確認したように。あるいは——何かを諦めたように。
◇◇
零崎の右手が——ポケットの上からスマホの画面を叩いた。
三つが同時に壊れた。
よはんさんの膜にひびが入った。ひびの隙間から圧力が噴き出した。まどかの体がよろめいた。つむぎくんが壁から手を離した。よはんさんが自分の体を両腕で抱えた。感情を押し戻している。
まどかの手が止まった。指の力がなくなっていく。マーカーが——落ちた。コンクリートの上で跳ねた。
きゅ が止んだ。
風の音だけが残った。あの音がなくなっただけで、世界が一段、静かになった。
まどかの膝が折れた。コンクリートに打ちつけた。両掌をついた。コンクリートが掌の皮を削った。あたしが駆け寄った。支えた。体が軽かった。肋骨の形がわかった。
つむぎくんのノートが白くなっていた。六月の「合ってる」が消えた。九月の二文字が——指の下で消えた。鉛筆が鳴った。三本同時に。ぱきん。乾いた音。つむぎくんの手の中で、三本の木が同時に死んだ。
つむぎくんが白いページを見ていた。長く。指が白い紙の上を滑った。あったものがなくなった場所をなぞるように。
——書いたものだけが在る。つむぎくんが六月にあたしに言った言葉。書いたものだけが在る。ならば、書いたものが消されたら——もう一度書く。
つむぎくんの目が白いページから壁に移った。握り直した。折れた先端を。
道具が全部壊れた。
零崎がまだ式を走らせている。表情を変えずに。ポケットに手を入れたまま。両手が空いていた。
「止めてください!」
あたしが叫んだ。
「雪城さん。——私も止められないんです」
零崎の目が——壁のまどかの式を追った。消しながら読んでいた。一瞬、目が止まった。写真立ての前を通るときと同じ目。すぐに消えた。
その目が——まどかの目と同じだった。止められない目。
あたしの背中が冷えた。まどかと零崎が同じ目をしていた。同じ目で、同じ壁を見ていた。片方は書くために。片方は消すために。同じ止まれなさで。
◇
まどかの口が動いた。
目が変わっていた。さっきまでの——式が見えてしまう目ではなかった。選んでいる目だった。
「……書いて」
声がかすれていた。
「あたまの中に式がある。書けない。手が——動かない。つむぎ。書いて」
「僕が?」
「口で言う。つむぎが書いて。検算しながら。——できる?」
「……やる」
つむぎくんが壁に向かった。ノートは白い。鉛筆を構えた。芯が壁を削って、灰色の跡が残った。
残った——一秒だけ。灰色の線が薄くなった。消えた。零崎の古典化が追いかけている。
「書いても消される——」
壁の赤い線もどんどん消えていく。まどかが書いた式が——古典化で白く塗り潰されていく。
「——あたしの証明が」
まどかの声が震えた。床から。
◇
空がまた落ちた。
フェンスがなかった。あった場所に何もない。さっき握った支柱の錆の粉があたしの手のひらにまだ残っている。なのにフェンスがない。
屋上の端が崖になった。五階分の高さ。風が吹いている。遮るものがない。
壁に書いた式は全部消されている。つむぎくんのノートは白い。まどかの声は出ない。
残らない。何を書いても残らない。
◇
立ち上がった。もう一度走った。壁に向かって。零崎に向かってではなく——まどかの方に。
足がもつれた。膝が笑っていた。四回目に走った体が——壁にぶつかった。右手がコンクリートに叩きつけられた。
痛かった。手のひらの皮が擦れた。
——壁の色が変わった。
灰色が——微かに赤みを帯びた。あたしの右手が触れている場所だけ。温度が変わった。手のひらから壁に何かが流れている。
「消えない——! 六花が触った場所だけ消えない——!」
つむぎくんの声が飛んだ。
あたしは壁を見た。右手が触れている場所だけ、赤い式が残っている。周囲は灰色に消えていく。あたしの手のひらの下だけが——赤い。
ことはに触れなかった。あの朝。消えていく手に、あたしの手は届かなかった。
——離さない。
手のひらを壁に押しつけた。
つむぎくんの目が——壁の上の式を追っていた。消えない式を。
「……合ってる」
呟いた。道具なしで。目だけで。記憶だけで。検算者がまだ検算している。
壁に向かった。折れた先端を握り直して。壁に直接。芯がコンクリートに当たって削れた。
ざり。
きゅ、ではなかった。鉛筆の芯がコンクリートの粒子を削る、粗くて荒い音。太い線。乱暴な字。でも式。まどかが口で言った式。つむぎくんが壁に書いている。
ざり、ざり、ざり。
「第三項——Σ——」
「合ってる——いや違う——合ってるか——」
つむぎくんが書きながら検算している。同時に。書く手と検算する頭が同時に走っている。
式が壁に残った。消えない。
——いける。
あたしの右手が——沈んでいた。
壁に。コンクリートの中に。指先が壁の表面を通過しかけている。第一関節まで壁に入っている。
冷たかった。建物の芯の温度。日光が一度も届いたことのない場所の温度が、指先を包んでいた。
痛くはなかった。それが怖かった。
第二関節。手首が壁の表面に触れている。体温が抜けていく。あたしの三十六度が壁の中に溶けていく。
引き抜かない。引き抜いたら壁の保護がなくなる。つむぎくんが書いた式が消える。
「六花! 手が——」
つむぎくんが振り返った。
「引き抜け! 消えるぞ!」
「来てよ、つむぎ」
「え」
「書いて。場所はここ。あたしの手で。あたしの温かさで。——来てよ」
つむぎくんが壁に向き直った。鉛筆が走った。あたしが沈む壁に。
ざり、ざり、ざり。
まどかが床から声を絞り出した。式を。一語ずつ。
あたしの手が壁に沈んでいく。温度が抜けていく。右腕が冷えていく。
よはんさんが——膜を維持しながら——あたしのそばに来た。左手があたしの右腕を握った。小指が曲がらなくなった手。
「六花さん。僕が引っ張ります。限界が来たら」
「まだ」
「まだ大丈夫。まだ温かい」
温かくはなかった。右手の感覚がなくなりかけていた。
よはんさんの目が——あたしの腕から、まどかへ、つむぎくんへ、順に動いた。三人を見ていた。一人ずつ。何かを確かめるように。何かを数えるように。
壁の上に——つむぎくんが書いた式の跡がある。鉛筆の灰色の線。太くて乱暴で、まどかの赤いマーカーとは全然違う。でも式が書いてある。あたしの手の温かさの上に。
◇
零崎が壁を見た。
「……なぜ消えない」
声の高さが変わらなかった。それが怖かった。
零崎がポケットからスマホを取り出した。画面を走らせた。
全域展開。
空が三段分落ちた。最後の稜線が消えた。完璧な空色。一面の、濃淡のない青。
◇◇
壁の式が燃えた。
燃えたのではない。式が壁の表面から剥がれた。灰色の鉛筆の線が、赤いマーカーの線が、壁から浮き上がって——空気に溶けた。つむぎくんが書いた式。あたしの温度で守っていた式。消えた。全部。
コンクリートが白くなっていく。完璧な灰色に。式の痕跡ごと。
「——嘘だ」
つむぎくんの声が割れた。
◇
まどかが動いた。
床に倒れていた。倒れたまま——口が動いた。
「第四項——」
血が出ていた。さっき膝を打ったときに切った額。床に当たったときに割れた唇。赤いものが顎を伝って、コンクリートに落ちた。
「第四項——Σ——上限——」
声にならなかった。空気の塊が口から出ているだけ。顔をコンクリートに押しつけたまま、まどかが式を吐き出していた。
つむぎくんがまどかを見た。
——あたしには見えた。つむぎくんの目が変わった瞬間が。さっきまで壁に向かっていた目が、まどかの顔を見て——凍った。
まどかの目。血を流しながら式を吐き続ける目。止められない目。止まれない目。
研究室の零崎と同じ目だった。
つむぎくんはそれを——あたしより正確に知っている。三週間、零崎の隣に座っていたから。止められない人間の目を、間近で見ていたから。
つむぎくんの手が震えた。鉛筆の欠片が指の間で揺れた。
あたしにはそう見えた。まどかの式を書くことが——まどかを零崎と同じ場所に送ることに見えた。合っていたから零崎は走り続けた。走り続けた先で山が消えた。今、まどかの式を壁に書いている。合っているからまどかは止まらない。止まらない先に——何がある。
つむぎくんの手が——止まりかけた。
「——つむぎ」
まどかの声。床から。血の味がする声。
「書いて」
つむぎくんが壁に向き直った。鉛筆がなかった。手が空だった。——つむぎくんの手が空なのを初めて見た。
壁を見た。自分の手を見た。指の先に爪がある。鉛筆の代わりになるものが、まだある。
爪を立てた。
がり。
鉛筆の音ではなかった。爪がコンクリートの粒子に食い込む音。右手の人差し指と中指。爪の先が壁に白い線を刻んだ。
「つむぎくん——!」
「書ける」
がり、がり。爪が削れていく。三画目で人差し指の爪が割れた。血が出た。灰色のコンクリートに赤い筋が混じった。
「書ける——まだ書ける——」
式が刻まれた。一秒。二秒。
消えた。
白く。きれいに。刻んだ溝ごと。爪の血ごと。コンクリートが修復されるように滑らかになった。書いた痕跡が世界から削除されていく。
——検算できない。書いた式が消える方が速い。合っているかどうか、自分でも確かめられない。
つむぎくんが壁に手を押しつけた。指の付け根で。掌がコンクリートに当たった。皮が裂けた。血が壁に滲んだ。滲んだ血が——文字の形を取る前に消えた。存在ごと。
もう一度押しつけた。血の上に指を走らせた。式ではない。文字ですらない。線。一本の赤い線。
「書いたんだ——!」
検算者の声だった。喉が裂けかけている声。零崎に合ってると言い続けた声。まどかに合ってると言い続けた声。その声が——初めて、正しさとは関係のない言葉を叫んでいた。
◇
あたしの手がまだ壁に沈んでいた。肘まで。冷たいのは肩まで来ていた。
壁が震えた。全域展開の波が壁を通って、あたしの腕を通って、体の芯まで揺らした。骨が震える感覚。歯が鳴った。
壁が——あたしを引き込もうとしていた。沈むのではなく、引かれている。壁の中の何かがあたしの温度を求めている。温度を全部吸い取ろうとしている。
「六花さん——!」
よはんさんが腕を引いていた。引いていたが——引けなかった。壁の方が強かった。
◇
零崎がスマホを叩いた。
まどかが式を吐いた。声にならない式を。
「——δ——第五——」
壁が弾けた。
弾けたのはまどかの式だった。壁に残っていた最後の赤い線——まどかが最初に書いた式の残骸が、壁の表面から剥がれて飛んだ。コンクリートの欠片と一緒に。赤い破片が空気の中に散った。
まどかの額に当たった。
音がした。小さくて硬い音。石が肌を叩く音。
血が——額の生え際から流れた。赤い線が一本、まどかの顔を縦に割った。眉の間を通って、鼻筋を通って、唇に届いた。まどかが目を閉じた。閉じただけ。声は止まらなかった。
「——第五項——」
血の味がする口で。まだ式を吐いていた。
◇
壁が一度脈を打った。
あたしの腕が——壁の中で一度握られた。握られて——押し出された。
腕が壁から飛び出した。
反動であたしの体が後ろに倒れた。後頭部がコンクリートに当たった。視界が白くなった。一秒。二秒。空が見えた。完璧な青。星も雲もない。
右手が——戻っていた。白かった。血の気がなかった。指が動かなかった。壁の中の温度がまだ腕に残っていた。肩から先が別の生き物になっていた。
体を起こそうとした。右腕が突っ張った。支えにならなかった。冷たい腕が——あたしの体を拒否していた。
◇
よはんさんが膜を張り直した。
張り直そうとした。両手を広げた。小指が曲がらない手で。
膜が——出なかった。薄い光が指先に揺れて、消えた。
もう一度。
光が——つながった。膜になった。紙よりも薄い。息を吹きかけたら破れる。透けている。向こう側の空が見えている。でも膜。
よはんさんのボタンが鳴った。
一番上のボタン。首元。糸が張り詰める音。布が引っ張られる音。ぷ、と短い音が——鳴って止まった。切れなかった。だが糸が——伸びていた。ボタンの縁に細い線が走っていた。罅。針で引いたような罅。
よはんさんの体が揺れた。透けかけた。戻った。透けて、戻って、揺れている。
膜を維持している。あの薄い膜を。体が消えかけているのに。
よはんさんの顔が——穏やかになった。痛みではなかった。何かを手放した顔だった。
あたしを見ていた。つむぎくんの方は——見なかった。目を逸らした。——たぶん。つむぎくんに見られたら、止められる。そう思ったのだと思う。
あたしだけを見ていた。温かさの理由を。
◇
零崎がスマホの画面を叩いた。
膜が弾けた。
石鹸の膜が割れるのと同じ音がした。ぱん、と軽い音。軽い音のくせに——衝撃波が四人を叩いた。
つむぎくんの体が浮いた。背中から階段室の壁に叩きつけられた。壁とつむぎくんの間で空気が潰れた。ずるっと壁を滑り落ちた。うつ伏せに。血がこめかみから出ていた。指がまだ——丸まっていた。鉛筆を握る形のまま。何も握っていないのに。
まどかの体がコンクリートの上を滑った。制服の肩が裂けた。布の下に肌。肌の下に骨。コンクリートが肌を削った。赤い筋が、まどかが滑った跡に残った。
あたしは飛ばなかった。右腕が動かなかったから。踏ん張れなくて——膝から崩れた。膝がコンクリートに当たった。左手をついた。指が折れそうなくらい体重がかかった。
よはんさんは——飛んだ。一番軽いから。一番飛んだ。制服が空中に広がった。中身がほとんどなかった。コンクリートの上に落ちた。制服が広がって、その中に——うっすらと人の形があった。動かなかった。
ボタンがついていた。五つ全部。罅の入った一番上も。三番目も。四番目も。全部。
でも罅は見えていた。一番上のボタンの、針で引いたような線。折れていない。折れる前の、折れることを知っている線。
◇
静かだった。
風が吹いていた。フェンスがないから、五階分の高さがむきだしだった。
四人が倒れていた。
零崎が立っていた。傷一つなかった。髪も乱れていなかった。あたしが四回突っ込んで、よはんさんが膜を当てて——何も届いていなかった。
あたしは——起き上がろうとした。左腕だけで。右腕は死んでいた。冷たい腕が体の横にぶら下がっていた。
膝が震えた。立てなかった。膝をついたまま、もう一度力を入れた。左手がコンクリートを押した。指が滑った。立てなかった。
三度目。
立てなかった。
まどかが——目を開けていた。仰向け。空を見ていた。完璧な青を。血が顔を覆っていた。額と唇から。目だけが生きていた。
つむぎくんがうつ伏せのまま、指を動かした。コンクリートの上で。式を書くように。何もない地面に。血で。
あたしは四度目に立ち上がった。
立てた。片腕だけで。膝が笑っていた。
まどかのところへ歩いた。二歩。左手でまどかの腕を掴んだ。引き上げようとした。引き上がらなかった。まどかの体が重い。あたしの体が弱い。
引きずった。左手一本で。まどかの腕を握って、引きずった。コンクリートの上を。まどかの制服が擦れた。
「——止まって」
まどかの声。かすれていた。
「りっか。もう——」
「うるさい」
あたしの声だった。自分で驚いた。
引きずった。階段室のドアまで。三メートル。三メートルが遠かった。
◇
つむぎくんが立ち上がった。
ゆっくりだった。両手をコンクリートについて。老人のように。手の血がコンクリートに跡をつけた。赤い手形が——一秒で消えた。
よはんさんの制服の袖を掴んだ。前のように背負うのではなく——腕を自分の肩にかけて、引きずった。
よはんさんの膜がもう一度——出た。
息を吹きかけたら消える膜。向こう側が透けて見える膜。それでも膜。よはんさんの体がほとんど見えないのに、膜だけが残っている。
あたしとまどかの周りの空気が——わずかに軽くなった。あたしたちの方を向いていた。よはんさんだけが、壁の向こう側にいた。——守る人間は、いつもそうだ。
罅の入ったボタンが——軋んだ。糸が、もう伸びきっていた。
零崎が——一歩後ろに下がった。
「——もう十分です」
右手を差し出した。手を貸す仕草。立ち上がるのを助ける仕草。穏やかな目で。
誰も取らなかった。
「十六夜さん。私も、止まれたことはなかった」
まどかは答えなかった。答える声がなかった。
つむぎくんが——振り返って零崎を見た。
情報収集者の目ではなかった。三週間隣に座っていた人間の目だった。あの研究室の椅子に座って、零崎の赤いペンが走るのを見ていた目。零崎の式を検算して「合ってる」と言った目。合っている式が山を消したのを見た目。
あの目が零崎を見ていた。怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと深い場所にあるもの——知っている人間だけが持てる痛み。
つむぎくんが前を向き直った。よはんさんを担いで、階段室のドアに向かった。
◇
「今のうちに」
誰の声かわからなかった。あたしかもしれない。つむぎくんかもしれない。
階段を降りた。
降りたのではない。落ちた。方向のある落下だった。
あたしの膝が三段目で折れた。まどかと一緒にずり落ちた。壁に肩を擦った。制服の繊維がコンクリートに持っていかれた。
つむぎくんが手すりを掴んだ。よはんさんの制服が手すりの支柱に引っかかった。引きちぎった。布が裂ける音がした。
四階。三階。
三階の廊下を見た。
白かった。廊下の奥が——白い。教室があったはずの場所に、完璧な白い壁があった。ドアがない。窓がない。教室ごと消えていた。
二階。
踊り場で転んだ。何回転んだか覚えていない。膝をぶつけた。肘をぶつけた。あたしの右腕は何もできなかった。冷たいまま体の横で揺れていた。
右手が冷たかった。壁の中の温度が指先に残っていた。ことはが消えた朝、商店街の空気と同じ冷たさだった。——覚えている。あたしの体が覚えている。
一階。外。
日光が当たった。だが光に温度がなかった。十月の太陽が——平たかった。白く、薄く、何も温めない光だった。
スマホを見た。通知がなかった。母さんからの「今日遅い?」がない。昨日まで毎日来ていた文字が、今日は来ていなかった。
まどかが壁にもたれていた。立てなかった。あたしは左手でまどかの腕を引いた。右手は動かなかった。白いまま体の横にぶら下がっていた。
まどかの体が軽かった。一ヶ月部屋にいた体。あたしの肩にもたれかかった。足を引きずった。
つむぎくんがよはんさんを背負った。何も言わなかった。よはんさんの制服が風で膨らんだ。中身が足りないから。ボタンだけが見えていた。罅の入った一番上のボタンが——陽の光を反射しなかった。反射するための厚みが、もうなかった。
つむぎくんの手が血だらけだった。爪が割れている。鉛筆を握る形のまま固まっている。よはんさんの背中を支える指が震えていた。
四人で歩いた。壊れたまま。誰も走れなかった。
来たときの方がまだ立てていた。来たときの傷が——嘘みたいに浅かった。
屋上に残したもの。マーカー。折れた鉛筆。コンクリートの上の血。壁には何も残っていなかった。四人で行って——何も持って帰れなかった。世界を削られて帰ってきた。
あたしの右手が白い。壁の中の温度がまだ染みている。握ろうとした。握れなかった。指が曲がらなかった。壁に差し出した手。あたしが自分で差し出した手。
次に負けたら——この中の誰かがことはになる。
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まどかのノート #11
「手が動かない
書けない
つむぎが書いてくれた
あたしの声で あたしの式を
つむぎは両方やった
つむぎの指が血だらけだった
爪が割れていた
それでも書いた
りっかの手が白い
あたしが倒れてる間に白くなった
なんであたしの代わりに壊れるの
りっかは零崎に四回突っ込んだ
四回全部流された
零崎先生は一度もりっかを殴らなかった
穏やかなまま座らせた
りっかを見もしなかった
つむぎは答えられなかった 合ってたから
全部消された
零崎先生は穏やかだった
穏やかなまま世界を壊した
あたしと同じだ 止められない
先生の手とあたしの手は同じだ
同じなのに向いてる方向が逆だ
先生は消すために走る あたしは残すために書く
同じ手で
面白いと思わなかった
初めて
初めて零崎先生の式を見て面白いと思わなかった
怖かった
三階の教室が消えていた
学校が壊れ始めている
りっかがいなかったら
あたしは零崎先生になっていた
りっかがいるから帰れる
りっかが消えたら——あたしは止まれない
次はあたしが
手が動かなくても
体で」




