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第十二話 沈黙

      六花


 商店街を歩いていた。


 四人で。大学から帰る途中。十月の昼。空が低い。山がない。


 まどかがあたしの肩にもたれている。歩けない。足を引きずっている。体が軽い。軽すぎる。


 つむぎくんがよはんさんを背負っている。制服を背負っている。よはんさんの顔だけが肩越しに見えている。薄い。ボタンは全部ついていた。一番上に罅が入っている。屋上の罅。


 四人の足音が商店街に響く。あたしの右足。左足。音が揃わない。まどかが引きずるから。でも音がしている。いた。存在の音。


 商店街に入った。壁だらけの。アーチの文字は全部消えていた。


 人が少なかった。昼なのに。角を曲がる老人が一人。自転車を押す女の人が一人。それだけだった。半年前なら昼の商店街は買い物客でいっぱいだったはずだ。シャッターの向こうから音楽が聞こえるはずだった。おばちゃんの声。レジの音。全部消えていた。音だけが先に死んでいた。


 風が吹いた。十月の乾いた風。つむぎくんの背中でよはんさんの制服が揺れた。布だけが膨らんで、しぼんだ。中身が足りないから。


 左手でまどかの肩を支えていた。右手は白いまま動かなかった。壁に差し出した手。B値の手。ことはに触れたときから、ずっと冷たい。


 煎餅屋の壁の前を通りかかった。チャーちゃんが壁際に丸まっていた。


 チャーちゃんが起き上がった。つむぎくんの足にすり寄った。よはんさんを背負ったまま、よけようとして——よけきれなかった。靴の上に座られた。


「……猫」


 つむぎくんの声が力なかった。


 まどかの口の端が動いた。笑いではなかった。笑いの手前にある何か。全部壊れているのに。猫が靴に座っただけなのに。


 ポケットの中でスマホが震えた。通知。「四ヶ月前の思い出」。


 画面に写真が出ていた。


 六月の写真。ホワイトボードの前で五人が並んでいる。


 五人。


 あたしがいる。まどかがいる。つむぎくんがいる。よはんさんがいる。——あたしの隣に、もう一人いる。


 知らない顔だった。


 いや——知らないのではない。見覚えがない。見覚えがないのに、写真の中であたしの隣に立っている。ホワイトボードの前で。LOGICAが初めて動いた日の部室で。腕を伸ばしてシャッターを切った側の手が、画面の端に映っている。この子が撮ったのだ。


「……ねえ。この写真——五人いる」


 つむぎくんがよはんさんを背負ったまま振り返った。画面を見た。


「……誰だ」


 まどかが顔を上げた。あたしの手の中のスマホを見た。


「わからない」


 三人とも覚えていなかった。あたしも覚えていなかった。


 ことはは覚えている。声も。笑い方も。河原を走った足音も。全部あたしの中にある。——でもこの子は。この子のことは、何も残っていない。名前も。声も。どんな顔で笑ったかも。


 写真の中だけにいる。


 あたしのB値の体は、ことはを覚えていた。矛盾を抱えても壊れないから。覚えている限り、ことはは消えない。——でも覚えていなかったら。記憶ごと消されていたら。


 この子はそうなったのだ。


 誰にも覚えられないまま、写真だけが残った。


 まどかが画面から目を離した。あたしを見た。目が濡れていた。泣いているのではなかった。もっと手前にある何か。


「——もう、いたんだ」


「あたしたちが気づかないうちに。もう、消えてた」


 つむぎくんが何も言わなかった。よはんさんの背中に顔を押しつけた。制服の布が揺れた。


 スマホの画面に十月の光が反射した。五人目の顔が光に飛んだ。


 あたしはスマホをポケットに戻した。


 ことはの次ではなかった。ことはの前に、もう一人消えていた。あたしが覚えている全部の外側に、覚えていない一人がいた。


 足が動いた。止まっていた足が。


 もう止まれない。止まったら——次は、ここにいる四人の誰かが写真だけの存在になる。


 ポケットの中でスマホが冷たかった。


 空が落ちた。



 落ちたのは空だけではなかった。


 空が裂けた。十月の青い空に——亀裂が走った。青い膜が破れるように。裂け目の向こうが暗かった。昼なのに。裂け目の向こうに宇宙があった。大気が剥がれている。空が地球を覆う薄い膜であることが、むきだしになっていた。


 老人が立ち止まって空を見上げた。女の人が自転車を倒して走った。商店街から人が消えた。四人と猫だけが残った。


 星が見えた。昼の空に。裂け目の向こうに。


 星が——落ちてきた。


 流れ星ではなかった。光の粒が、裂け目から剥がれて、ゆっくりと降ってくる。降りながら消えていく。あるのかないのかわからなかった星が、ないに変わっていく。一つ。三つ。十。裂け目が広がるたびに、見えた星が消えていく。


 昼の空が暗くなっていく。青が剥がれて、黒が迫ってくる。宇宙が地表に落ちてきている。


 地面が振動した。膝が折れた。まどかが肩から滑り落ちた。コンクリートに二人とも膝をついた。


 空気が重い。さっきの屋上の比ではない。宇宙の質量が頭上から押してきている。


 つむぎくんが振り返った。空を見た。裂けた空を。


「全域展開だ——空が破れてる——星が確定されて落ちてる——宇宙ごと縮んでる——」


 壁のひび割れが消えていく。排水溝が消える。雑草が消える。コンクリートが完璧に滑らかになっていく。空から星の残骸が光の粉塵になって降っている。商店街に。昼の光と宇宙の闇が混ざって、世界が薄暮のような色になった。


 チャーちゃんが毛を逆立てて走った。


 まどかがコンクリートの上に倒れていた。顔が白い。目だけが開いている。低い空を見ている。


 あたしはまどかの隣にしゃがんだ。目が合った。


 沈黙が落ちた。商店街に。白い空の下に。二人の間に。


 世界が息をしていない。星が落ちているのに。空が裂けているのに。何も音がない。完全な沈黙。


 まどかの目があたしを見ている。視線が。手が。体が。全部あたしを見ている。


 何か言うまでの間隔。言葉が出るまでの間隔。呼吸をするまでの間隔。


 その沈黙の中で。


 まどかの口が開きかけて。閉じた。


 また開いた。音は出ない。空気を吐いているだけ。吐く力がない。言葉を作る力がない。


 沈黙。


 もう一度。


 口が動く。


「助けて」


 声を絞り出す体で。あたしの顔を見て。三十センチ。


「一人じゃ書けない。一人じゃ——」


 あたしは泣かなかった。泣く代わりに壁に右手を押しつけた。白い手を。煎餅屋の壁。ことはが消えた場所。


 温かさが流れた。少ない。でも流れた。壁が赤みを帯びた。——指が動いた。壁の温度が手に戻っていた。


「書こう。一緒に」


 まどかのポケットから赤いマーカーを取った。蓋を噛んで開けた。まどかの右手を取った。マーカーをまどかの指に握らせた。まどかの指に力がなかった。マーカーが滑った。


 あたしの左手でまどかの手を包んだ。まどかの指ごとマーカーを握った。上から。二人で一本のマーカーを持っている。


 壁に当てた。


 まどかの手があたしの手の中で震えていた。


 震えが——止まった。


 対角線。


 赤い線が壁の上を駆け抜ける。真っ直ぐではなく斜めに。白い式の壁を貫く。


 B値の色。矛盾の色。


 がり。


 コンクリートにマーカーが引っかかる音。硬い。きゅ、ではない。


 あたしの左手がまどかの手を握っている。あたしの右手が壁に触れている。まどかの手を通じてマーカーが壁に触れている。三つが繋がっている。


 壁が——色が変わり始めた。


 赤い線の周囲から。正しいか間違いかだけだった世界が、もっと広い場所に開いていく。壁が解体する。


 がり——ごご。


 音が変わった。あたしの手がまどかの手に触れた部分から。腹の底に響く音。マーカーの先端がコンクリートに食い込んでいる。赤い溝が壁に走る。


 赤。


 マーカーの赤。


 壁に焼きつく赤。


 まどかの髪に飛び散る赤い粉塵。


 式の中を通す赤い光。


 壁が崩れるのではない。


 壁が——開く。


 斜めの線が通過した向こうが、別の場所に繋がっている。窓。石門。七つ脚の影。ありえた歴史。複数の赤が重なって、一つの答えになっている。


 つむぎくんがよはんさんを壁際に下ろして、壁を見た。


「音が違う——式にB値が混入してる——矛盾を含んでるのに崩壊してない——」


「合ってるの」


「——合ってる!」


 つむぎくんが立ち上がった。折れた鉛筆を握った。


 走った。


 まどかの隣に。右足。左足。商店街の足音。


「検算じゃない。信仰だ」


 声が震えていた。不完全な声。でも届いている。


「完全にはならない。でも走る」


 四人が走っていた。壁に沿って。商店街の端から端まで。


 走りながら書いていた。


 まどかの右手にマーカー。あたしの左手がまどかの手を包んでいる。走りながら。壁にマーカーを当てたまま。赤い線が壁の上を走っていく。あたしたちと同じ速度で。右足を踏み出すと線が跳ねた。左足で着地すると線が沈んだ。走りのリズムが式のリズムになっていた。


 きゅ——がり——きゅ——がり。


 足音と筆音が交互に鳴っている。走る音。書く音。走る音。書く音。分離できない。止まったら書けない。書かなかったら走る意味がない。


 つむぎくんが並走していた。折れた鉛筆を壁の上部に当てたまま。走りながら検算を書いている。芯が壁に食い込むたびに体がぶれた。ぶれたまま走った。足が追いつかない速度で鉛筆が走っていた。


 赤い線が壁を駆けていく。一本の道。曲がり、跳ね、走りのリズムで揺れる。まどかの頭が式を生成し、あたしの手がまどかの手を動かし、つむぎくんの鉛筆が並走する。三人の走りが一本の線になっていた。赤い粉塵がまどかの白い髪にかかった。



 壁に——何かが起きていた。


 あたしの右手が壁に触れている。温かさが流れている。壁のB値が安定して——壁の向こうに別の壁が透けた。石と漆喰の壁。知らない文字の看板。香辛料の匂い。空からパルスが降っている。地面を七つ脚の影が這っている。ありえた歴史が商店街に溢れ出していた。


 壁の亀裂を見た。亀裂の中に——小さな商店街があった。小さすぎる四つの影が壁に手をついていた。その壁の中にも。目を逸らした。見続けたら戻れない気がした。



 商店街のアーチの向こうから足音がした。


 走ってくる。一人分。


 零崎だった。ジャケット。スマホ。画面を叩き続けた指が赤くなっている。目が据わっていた。


 壁に浮かぶ別の文字を見た。空から降るパルスを見た。


「B値の歴史が顕在化している——消す」


 零崎が壁に向かって走った。まどかが書いている壁の隣の壁に手をつけた。冷たさが流れた。古典化。知らない文字が消えていく。石と漆喰が消えていく。B値が「なかった」に確定されていく。


 チャーちゃんが商店街の隅に蹲っていた。毛の縞模様が薄くなっていた。キジトラの茶と黒が灰色に近づいている。ことはが名前をつけた猫の、固有の模様が、消えかけている。


 壁から壁に古典化が広がっていく。まどかの壁に向かって。


 あたしはまどかの手を離した。壁から手を離した。


 走った。


 右足。左足。足音がコンクリートに響く。自分の足音がしている。存在の音。消えていない。


 零崎に向かって。



 体当たりした。


 零崎の横腹に肩から突っ込んだ。零崎が壁から手を離した。よろけた。あたしもよろけた。


 零崎が壁に手を伸ばした。あたしは零崎と壁の間に体を割り込ませた。背中を壁に押しつけた。零崎の顔があたしの三十センチ前にあった。眼鏡がずれていた。


 零崎の手があたしの肩を掴んだ。引き剥がそうとした。指が食い込んだ。


「退け——雪城さん——」


「消さないで——ここにことはがいた——!」


 ことはの声がした。頭の中で。あの声量。肩をばんばん叩いてくる距離。『りっかー! こっちこっち!』。ここで。この壁の前で。あの子はこの距離にいた。


 零崎の古典化があたしの肩から体に流れてきた。冷たい。凍るように。背中から壁の温かさが来ている。古典化と温かさがあたしの体の中でぶつかっている。透けかける。戻る。


「ことはが消えた場所なの——消さないで——!」


 零崎が押した。あたしは壁に背中を押しつけて動かない。



 まどかが動いた。


 座り込んでいた場所から這っていた。膝と肘で。マーカーを握ったまま。あたしと零崎の横を通り過ぎた。零崎の背後に回った。


 あたしは壁に背中を押しつけたままだった。古典化と温かさがまだ体の中でぶつかっている。動けない。動いたら壁が零崎に渡る。


 零崎のジャケットの裾を左手で掴んだ。右手のマーカーを——零崎の背中に当てた。


 ごご。


「何を——」


 零崎が振り返った。まどかの手を見た。自分の背中に書かれている赤い式を。


「式を書き換える」


 声が低かった。別人の声だった。


「消す式じゃない。矛盾したまま在る式に」


 零崎がまどかの手首を掴んだ。引き剥がした。マーカーが背中から離れた。ジャケットの背中に赤い式が途中まで書かれている。


 まどかが転がった。コンクリートの上に。肘を擦った。立てなかった。膝が折れた。


 立てなかったが——這った。


 零崎の足に。しがみついた。両手で。マーカーを握ったまま。零崎のズボンの裾を掴んで、体を引き上げようとした。腕の力がない。一ヶ月ろくに食べていない体。引き上がらない。でも離さない。


「離しなさい——」


 零崎がまどかの肩を掴んだ。引き剥がそうとした。まどかの手がジャケットの裾に移った。掴み直した。布が引っ張られて零崎の体が傾いた。


「離さない——書かせて——式に書かせて——」


 まどかの声が割れていた。懇願ではなかった。要求でもなかった。止められない人間の声だった。零崎が四十年聞いてきたはずの声。自分自身の声。


 零崎がまどかの両手首を掴んだ。引き剥がした。強く。まどかが離さなかった。零崎がもう一度引いた。まどかの指がジャケットから一本ずつ外れていく。最後の一本が離れた——零崎が振り払った。


 まどかの体が飛んだ。


 壁に。頭から。


 がん。


 音がした。コンクリートに頭蓋が当たる音。硬い。鈍い。人間の頭が出す音ではなかった。壁に書いてあった式の上に、まどかの後頭部が叩きつけられた。赤い線の上に。


 まどかの体が壁からずり落ちた。背中が壁に沿って下がっていく。膝が折れた。コンクリートの上に座り込んだ。頭を押さえていた。指の間から血が出ていた。髪に赤い粉塵がついていた。壁の式の粉と、血と、マーカーの赤が混ざっていた。


 マーカーが手から落ちていた。地面に転がっている。赤い点。


 零崎が——止まっていた。


 自分の両手を見ていた。子供を投げた手。娘の写真を撫でた手。同じ手。


 穏やかさが剥がれた。屋上では剥がれなかった仮面が、ここで割れた。


 目が変わった。学術的な観察の目が消えた。代わりに出てきたのは——探す目。あたしが毎朝スマホでことはのトーク画面を開くときの目と同じだった。


「汐は窓の外を見ていた。名前を呼んだ。肩に触れた。——振り返らなかった」


 声が変わっていた。教授の声ではなかった。四十年の厚みが剥がれた声だった。


「完全さが私の娘を消した」


 手が落ちた。


 商店街に沈黙が落ちた。


 まどかが壁の下で頭を押さえていた。目が開いていた。焦点が合っていなかった。揺れていた。


 あたしは壁から手を離してまどかに駆け寄った。まどかの頭に触れた。指に血がついた。温かかった。まどかの血は温かかった。


 つむぎくんがよはんさんの傍から走ってきた。よはんさんの体が——制服の中で揺れた。支えがなくなった。


 あたしの右手が白い。よはんさんの体が透けている。つむぎくんの鉛筆が全部折れている。まどかの頭から血が出ている。


 四人とも壊れていた。


 零崎が一歩退いた。自分の手を見ていた。


「——十六夜さん」


 声が出なかった。出たが掠れていた。教授の声ではなかった。


 まどかの目が——焦点を結んだ。あたしの腕の中から。零崎を見上げた。血が額を伝っていた。息が白かった。十月なのに。壊れた体から出た息だけが白かった。


「先生」


 声が小さかった。怒りではなかった。壁の下から。頭から血を流して。先生、と呼んでいた。壁に叩きつけられた子が、叩きつけた人間を先生と呼んでいた。


「先生の体系には——書けない。完全だから。閉じてるから。——汐さんが見えなくなった」


 零崎の膝が折れた。


 沈黙。


 まどかの目が変わった。焦点が戻ってきた。血が流れ続けている。だが目が——座った。覚悟が座った。


 マーカーを拾った。血で滑った。握り直した。左腕の袖をまくった。白い腕。


「先生」


 声が変わっていた。さっきの壊れた声ではなかった。低いが、芯がある。


「先生に書けないなら——あたしに書く」


 つむぎくんが叫んだ。


「自分の定理を書き換えたらお前自身が——」


「知ってる」


 まどかの目があたしを見た。一瞬。あの目。止められない目。でもさっきまでと違うものが混じっていた。額から血が流れている。それでも止まらない。止まらないことを選んでいる。


「あたしが不完全であることの証明に」


 赤いマーカーを自分の腕に当てた。


 きゅ。


 まどかの肌の上で。あの音。部室で何百回も聞いた音が、まどかの腕の上で鳴っている。


 まどかの体が変わり始めた。


 髪が白くなった。根元から毛先に向かって。戻らなかった。瞳の中に赤い光が走った。式だ。まどかの瞳の中に式が走っている。瞳孔が開いていた。黒目の中の黒が広がって、虹彩を呑み込んでいく。


 まどかの声が変わった。低くなった。一人の喉から出る声ではなかった。共鳴している。複数の声が重なっている。


 まどかの顔が——わからなくなった。顔の輪郭が揺れている。目の前にいるのがまどかなのか。まどかという人間が、自分自身の式によって再構成されている。


 怖かった。まどかが別の何かになりかけている。


 あたしはまどかの右手を掴んだ。


 冷たかった。だが手の形は変わっていなかった。指の長さ。爪の形。小指の付け根のほくろ。体がどれだけ変わっても。手はまどかだった。


 握った。


「まどか。帰っておいで」


 まどかの目が——あたしを見た。瞳の中の赤い光が、一瞬消えた。黒い目が戻った。まどかの目。あたしを見ている目。


「面白い」


 まどかが言った。あたしの手を握り返しながら。


「怖い。面白い。怖い。——全部本当。りっかと同じ。あたしもB」


 まどかの体が——戻った。完全にではない。髪の先端はまだ白い。左腕に赤い式が焼きついている。目の奥にかすかな赤が残っている。でもまどかだった。あたしの手を握っている。あたしの手が握り返している。手が繋がっている限り、まどかはまどかのままいる。


 不完全なまどか。あたしの手が、まどかを人間の側に繋ぎ止めている。


 商店街が一瞬だけ静かだった。二人の呼吸が聞こえた。



 まどかが立ち上がった。


 立ち上がったのではない。体が浮いたのだ。まどかの足がコンクリートから離れた。三センチ。五センチ。まどかの体の周囲に赤い光が滲んでいた。左腕の式が光っている。


 あたしの手が引っ張られた。まどかの右手を握ったまま。まどかが上に浮き、あたしが下に引かれている。腕が伸びている。手が離れそうになる。握った。離さなかった。まどかが浮く力と、あたしの重さが、手の中で拮抗していた。


 まどかの目が——遠くなった。


 あたしを見ている。見ているのに遠い。まどかの目がどこか別の場所を見ている。この場所と、別の場所を、同時に。


 チャーちゃんがコンクリートの上を歩いた。肉球の跡が残った。まどかがその跡を見た。


「……足跡が、式に見える」


 小さく呟いた。怖くなった。猫の足跡が式に見える目。世界が全部式に見えている。まどかの目には。


 壁に——式が現れた。まどかが書いていない式。マーカーが触れていない壁に。赤い式が壁の表面に浮かんでいく。自動的に。まどかの頭の中で組み上がった式が、まどかの体を通じて、直接壁に書き込まれていく。


 隣の壁にも。向かいの壁にも。商店街の壁という壁に、赤い式が広がっていく。


 つむぎくんが壁を見て叫んだ。


「式が壁に——まどかが触れてない——触れてないのに——!」


 式が壁から剥がれ始めた。赤い記号が壁の表面を離れて、空に昇っていく。商店街の上空に赤い文字が浮かぶ。浮かんで——見えなくなる。消えたのではない気がした。空気の中にまだある気がした。


 まどかの顔が——変わった。


 目が虚ろになりかけた。式が一行壁に現れるたびに、まどかの目が一瞬暗くなる。


「まどか」


 あたしが呼んだ。まどかの目があたしに戻った。戻ったが——何かが欠けていた。


「まどか。あたしの名前、覚えてる?」


「……りっか」


 覚えていた。壁にまた式が現れた。まどかの目がまた遠くなった。


「さっき屋上で何があった?」


「屋上……何があったっけ」


 さっき。数時間前。零崎と戦った。つむぎの爪が割れた。よはんの膜が壊れた。——まどかが覚えていない。


「まどか——式書くたびに記憶が——」


「知ってる。止められない」


 あたしはまどかの手を握った。右手で。冷たい手で。さっきより冷たい。温かさを渡し続けて、残りがほとんどない。


「あたしのこと忘れても、手は覚えてる。あたしが握ってるから」


「……りっか。祭りの夜って——何があったっけ」


「ことはに会った夜だよ。——覚えてない?」


「ことは。名前は覚えてる。顔が——出てこない」


 あたしの手が触れている間の記憶だけが消えない。あたしの名前。あたしの手の冷たさ。それだけはまどかの中に残っている。


 壁に式が広がり続けている。まどかの記憶を燃料にして。


 あたしの右手が——透けた。


 まどかの手を握っている右手。指の輪郭が薄くなった。向こう側のまどかの指が見えた。温かさが尽きかけている。壁に渡しすぎた。まどかに渡しすぎた。もう残っていない。


 つむぎくんが走ってきた。あたしの手を見て。


「六花——お前の手が消えかけてる——」


 つむぎくんがあたしの手を掴もうとした。掴めなかった。つむぎくんの手があたしの手を通り抜けた。つむぎくんの手には——あたしの手を繋ぎ止める力がない。


「……くそ。僕の手じゃ——」


 手が透けたら——握れなくなる。握れなくなったらまどかの記憶が全部消える。あたしの名前も。


「——だめ」


 手に力を込めた。透けている手に。力が入らない。指が閉じない。まどかの手がすり抜けかけている。


「だめ——離したくない——」


 左手も透けかけていた。両手。両方。温かさが全部なくなっている。体が薄くなっていく。足が見えない。膝が消えかけている。


 消える。あたしが消える。ことはと同じように。


「——やだ。消えたくない。まだ——」


 まどかの手があたしの手の中で遠くなっていく。指が触れているのに、感触がない。


 あたしが消えたら——ことはの声を、誰が覚えている。



 よはんさんが動いた。


 壁際に下ろされていた。制服の中にうっすら残っている体。ボタンが五つ——二番目は八月に落ちていた。一番上に罅が入っている。屋上の罅。あれ以上広がっていなかった。広がっていないことが、よはんさんの意志だった。


 まどかを見ていた。空中で式を書き続けるまどかを。記憶を燃やしながら壁を埋めていく十六夜まどかを。


 六花を見た。透けかけている六花を。


 よはんさんの手が——制服の一番下のボタンに触れた。六番目。


「——やめて」


 あたしの口が動いた。声にならなかった。透けかけた体から出る声は空気を震わせなかった。


 指に力が入った。糸が——ぷつ、と切れた。


 外した。


 風が鳴った。空気の中に穴が空いたような風が。


 よはんさんの口が——開いた。


「暑い」


 一語だった。八ヶ月、一度も言わなかった言葉。真夏の部室で汗を拭いたことがない。秋の教室で窓を開けたことがない。


 暑い。十月の商店街で。体が消えかけているのに。感情ではない。もっと手前にあるもの——体が生きていると訴える声。


 よはんさんの肩が落ちた。二月から守ってきた完全な姿勢が——不正確になった。涙が右目から出た。首筋に鳥肌が立った。


 涙が顎の先から落ちた。コンクリートの上に。染みになった。染みが——消えなかった。零崎の古典化の中で。涙の跡だけが消えなかった。



 五番目に触れた。


「五月に。部室でまどかさんの証明を初めて読んだとき。僕は——面白いと思いました」


 声が割れた。よはんさんが「面白い」を言った。まどかの口癖を。よはんさんの口から聞いたことがない言葉を。


「面白かった。——怖かった。同時に。僕には——許されない感情でした」


 外した。


 ガラスが割れる音がした。どこにもガラスはなかった。よはんさんの体の中でガラスが割れていた。


 論理膜が——壊れた。涙が両目から溢れた。止められなかった。嗚咽。八ヶ月間止めていた何かが、体中から一度に噴き出している。


 指先から透け始めた。右手の小指。薬指。手首が透けた。



 四番目に触れた。


「六花さん。僕の名前を——覚えていてください」


 ことはのボイスメッセージが脳裏を走った。あの声。もう再生できない。ノイズになった声。名前を失うとはこういうことだ。体で知っている。


「忘れない」


 外した。


 音が消えた。風の音が。まどかの呼吸が。よはんさんの周囲だけ無音になった。


 名前を呼んだ。


「よはんさん」


 輪郭が一瞬だけ戻った。名前で繋がっている。名前を呼ぶ誰かがいる限り、まだ消えない。



 三番目。指がほとんど見えなかった。透けた手でボタンの輪郭をなぞっている。


 外した。


 遠くで猫が鳴いた。チャーちゃん。ことはが名前をつけた猫が。


 次はなかった。二番目は八月に落ちている。糸ごと。あのとき一つ失って、それでもよはんさんは立っていた。


 制服だけが浮いていた。中にうっすら人の形がある。よはんさんが薄くなるたびに——空が広がった。落ちていた空が減速した。



 よはんさんの左手が——一番上のボタンに触れた。罅の入ったボタン。屋上であたしたちを守って、罅が入ったボタン。最初に守ったもの。最後に残ったもの。


 あたしを見ていた。透けかけた体で。涙を流しながら。笑っていた。初めて見た。よはんさんが笑うのを。口の端が不器用に上がっていた。


「六花さん。一つだけ——」


 あたしの足が出た。


 ——八月。商店街。ことはの手が透けていた。あたしはことはの手を掴んだ。まだ温度があった。でも次の瞬間にはもう掴めなかった。


 あのとき、あたしは「来て」と言えなかった。名前を呼ぶことしかできなかった。ことは。ことは。あの一秒が——あたしの罪だった。


「来て」


 あたしが叫んだ。叫んだというより体から出た。腹の底から。ことはに言えなかった言葉が、二ヶ月遅れで出た。


「来て。来てよ。ここにいて。——来て」


 よはんさんの手が——止まった。罅の入ったボタンに触れたまま。


「六花さんが覚えていてくれたから。窓際の席と、メロンパンと、お先に失礼しますを。——だから六花さんに渡します」


「だめ——消えるよ——」


「怖いです。消えるのが」


 よはんさんの声が震えていた。


「でも六花さんが消えるのはもっと怖い」


 外した。


 罅から割れたのではない。糸が切れた。静かに。



 ボタンがよはんさんの指から離れた。透けかけた手があたしの襟元に伸びた。ボタンをあたしの制服の布に押し当てた。


 穴がなかった。あたしの制服にこのボタンが入る場所がない。


 よはんさんの指がどんどん薄くなる。押し当てている。入らない。


「入って——」


 よはんさんの声が消えていく。体が消えていく。足から。膝から。


 あたしはまどかの手を一瞬離した。よはんさんの手からボタンを受け取った。


 襟元に押し当てた。穴がない。入るわけがない。


 ——入った。


 ボタンが布を通り抜けた。穴を通ったのではない。布そのものを通過した。よはんさんの膜の最後の力。ありえないことを一回だけ許す力。繊維が鳴った。包み込まれる音。ボタンが布の裏側に出て——留まった。カチン。


 よはんさんの顔が最後に見えた。体はもう何もなかった。顔だけが、制服の襟の上に浮いていた。


 笑っていた。目が開いていた。あたしの襟元のボタンを見ていた。


 目が細くなった。安心した顔だった。八ヶ月間見たことのない顔だった。


 よはんさんの体が消えた。制服が崩れた。地面に布が落ちた。ボタンが一つ、コンクリートを叩いた。外れなかった方の。留まった音が、残った。


 制服が地面に広がっていた。中に誰もいない。



 あたしは立っていた。


 よはんさんがいた場所に。


 風が制服の裾を揺らした。


 空気が冷たかった。十月だった。さっきまで暑いと言っていた人が、いなくなっていた。


 まどかが何か言った。聞こえなかった。


 つむぎくんが何か叫んだ。聞こえなかった。


 あたしの耳が、よはんさんの声だけを探していた。暑い、と言った声を。面白い、と言った声を。怖い、と言った声を。


 声は——なかった。


 風だけが鳴っていた。



 空気が爆発した。


 よはんさんの全存在がB値として拡散した。商店街全体が振動した。壁が揺れた。空気が揺れた。壁の式が光った。ありえた歴史がさらに溢れた。知らない文字が空中に浮かんだ。七つ脚が何十体も壁を這った。パルスが空から滝のように降った。


 あたしの体が透けかけた——戻った。襟元のボタンが光っていた。よはんさんの膜の最後の一枚があたしの体を繋ぎ止めている。


 すぐにまどかの手を握り直した。右手で。まどかの目が一瞬戻った。


「……りっか。あたし、よはんって——誰」


「ボタンをくれた人。あたしたちの友達」


「……友達」


 まどかの声が小さかった。覚えていない。よはんの名前を。たった今消えた友達の名前を。


 でもまどかは書き続けている。壁に。空間に。式が広がっている。止められない。



 商店街のすべての壁に式が行き渡った。


 壁から剥がれた式が空に昇っている。赤い記号が空間に散っている。商店街の上空が赤い。


 壁に——応答が来た。


 誰も触っていない壁の上に、線が動き始めた。まどかの式ではない線。自動的に。七月のときと同じ。


 線が——止まった。


 一行も書かれなかった。壁の上に空白が残った。


 沈黙。


 あたしの名前が消えた。


 一瞬。自分の名前が思い出せなかった。りっか。六花。雪城六花。——どれも知らない名前だった。自分が誰かわからなかった。体がここにある。手が冷たい。でも名前が——


「りっか」


 まどかの声。かすれた声。記憶を失いかけている声が、あたしの名前を呼んだ。


 戻った。あたしはりっかだ。六花だ。まどかが呼んでくれたから。まどかがまだあたしの名前を覚えていたから。


 つむぎくんが壁を見ていた。折れた鉛筆を三本握ったまま。目が動いていた。壁の式を読んでいた。応答が来なかった空白を読んでいた。


「——N。真でも偽でもない。応答なし。……宇宙が返さなかったんじゃない。返せなかったんだ」


「……ゲーデルだ」


 つむぎくんの声が震えていた。折れた鉛筆を三本握ったまま。爪が割れた手で。


「完全な体系は——答えようとする。どんな問いにも。答えようとして、壊れる。零崎先生みたいに」


 息を吸った。


「不完全だから——答えなくていい。黙っていい。宇宙が黙った。それが、答えだ」


 つむぎくんの手が壁に触れた。折れた鉛筆ではなく、素手で。応答が来なかった空白に。


「沈黙だ」


 あたしは壁を見た。空白を見た。何も書かれていない壁を。


 壁の上の式が静かになった。震えが止まった。式が壁に固着した。消えない。動かない。ただ在る。沈黙として。


 沈黙が広がった。煎餅屋の壁から隣の壁へ。商店街から通りへ。通りから街へ。壁という壁に。道という道に。


 空が——動いた。


 裂けていた空が塞がっていく。青い膜が戻っていく。宇宙の闇が後退していく。昼の光が戻ってくる。完全にではない。空に薄い筋が残っている。裂けた跡。傷跡。でも塞がっている。


 圧力が減っていく。宇宙の質量が持ち上がっていく。空間が広がる。地平線が遠くなる。


 遠くに稜線が見えた。消えていた山の影。輪郭が薄い。完全には戻っていない。でもある。戻ってきたものが、元のままとは限らない。


 チャーちゃんの縞模様が濃くなっていた。キジトラの茶と黒が戻っている。完全にではない。少し薄い。でも模様がある。ことはがつけた名前の猫の模様が。ことははいない。模様だけが戻っている。戻ることで、失われたものの輪郭が際立つ。



 零崎がスマホを見ていた。


 画面にエラー。古典化のパラメータが全て無効。沈黙に対して式が機能しない。


 零崎がスマホを下ろした。


 商店街を見た。壁に式が残っている。空に赤い記号が浮かんでいる。ありえた歴史の残像が揺れている。


 零崎が座り込んだ。コンクリートの上に。


「……汐」


 小さかった。


 まどかが——浮いていた体がゆっくり降りた。コンクリートに足がついた。膝が折れた。座り込んだ。零崎の前に。


 あたしはまどかの横にいた。まどかの手を握ったまま。右手。透けかけて戻った手。よはんさんのボタンで繋ぎ止められている手。冷たい。でもまどかの手を離していない。


「先生。先生の論理は狭かった。——でも間違ってなかった」


 零崎の目が濡れていた。涙は落ちなかった。


 零崎がスマホを手に取った。古典化のオペレータ。画面がエラーだらけ。


 閉じなかった。


 画面を見ていた。動かないプログラム。動かないと知っている。知っているのに閉じない。


「……それは証明できるのですか」


「できない。信仰です」


「信仰では汐は戻らない」


 静かだった。敵意はなかった。父親の声だった。


 零崎が立ち上がった。スマホを閉じず、ポケットに入れた。また取り出すために。背中にまどかの赤い式が書いてあるジャケット。途中で切れた式。矛盾許容の窓。零崎はその窓を受け入れなかった。受け入れたら、汐を完全に戻す希望を手放すことになるから。


 背を向けた。歩いていく。商店街のアーチをくぐって。止まれないまま。もう一つの走り方で。


 振り返らなかった。


 つむぎくんが壁の前に立っていた。折れた鉛筆を三本、ポケットにねじ込んだまま。零崎の背中を見ていた。赤い式が書かれたジャケットの背中を。途中で切れた式を。つむぎくんの鉛筆は黒い。零崎のペンは赤かった。同じ「正しさ」の、違う色。


 つむぎくんの手が動いた。ポケットの中の折れた鉛筆に触れた。握らなかった。触れただけ。


 何も言わなかった。零崎が商店街のアーチの向こうに消えるまで、つむぎくんは立っていた。


 あたしは声を出そうとした。出なかった。


 ポケットの中のスマホが重かった。五人目の写真がまだ残っている。名前も思い出せないまま。



---



まどかのノート #12


「黙った。

 宇宙が。


 わたしの式を読んで、黙った。


 答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。

 答えなくてよかったのかもしれない。


 りっかが手を握ってくれていた。

 よはんくんがボタンをくれた。

 つむぎくんが最後まで鉛筆を折らなかった。


 頭が痛い。

 血が止まらない。

 でも書ける。まだ書ける。

 書けるうちに書いておく。


 わたしたちは不完全だった。

 だから、黙れた。」

次回最終回

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