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最終話 不完全で走れ

      六花


 地面に制服が落ちていた。


 ボタンが一つもない。さっき落ちた音がしたのに、コンクリートの上にもない。中に誰もいない。よはんさんの制服。よはんさんがいた場所に。


 あたしはまどかの手を握り直してから——一瞬だけ離して——制服を拾った。畳んだ。丁寧に。襟を揃えて。袖を折って。よはんさんがいつも正確に着ていた制服を、あたしが畳んだ。


 中身がない。軽い。布だけ。


 泣いた。制服を胸に抱えて、泣いた。声が出た。出てしまった。


 まどかの手を握り直した。まどかが何も言わなかった。よはんの名前を覚えていないまま、あたしが泣いているのを見ていた。





 翌朝。学校に行った。


 教室の窓際に空席があった。よはんさんの席。誰も座らない。席を詰めてもいない。ことはの席は消えた——最初からなかったみたいに机ごと。よはんさんの席は残っている。空のまま。何かが座っているみたいに、誰も近づかない。


 購買に行った。メロンパンが三つ残っていた。よはんさんはいつも一個だけ買っていた。お昼に。毎日。今日は誰も買わない。


 廊下を歩いた。教室の前を通るとき、「お先に失礼します」が聞こえると思った。聞こえなかった。何度通っても聞こえない。あたしだけがその声を待っている。


 制服を鞄に入れて持ち歩いていた。一日中。置く場所がなかった。





 一週間が経った。


 毎朝走った。河原を。ことはちゃんがいた河原を。声を出さなかった。発声練習をやめた。口を開いても、ことはの声が出そうで怖かった。


 購買のメロンパンが棚から消えた。消費期限が来たのだろう。誰も買わなかったから。よはんさんの日常が世界から一つずつ引き抜かれていく。


 まどかは覚えていない。よはんさんの名前も。ことはちゃんの声も。つむぎくんのノートは白紙になった。六月から書き溜めた検算。全ページ白。


 あたしだけが覚えている。全部。ことはの笑い声。でかくて、河原に響いた声。よはんさんの微笑み。窓際の光の中の横顔。階段の段数。十三段。いや十二段だった。白くなる前のまどかの髪。全部あたしの中にある。矛盾したまま。壊れないまま。降ろせない。


 ポケットのスマホに、まだあの写真が残っている。五人目は、まだわからないままだ。


 B値の体。矛盾を抱えても壊れない体。——壊れないことが、こんなに重いとは思わなかった。


 十月になった。空気が乾いた。夏じゃない風が吹いた。ことはがいた夏は終わっている。





 演劇部に顔を出した。十月の公演が近い。


 台本を受け取った。開いた。


 読めなかった。


 文字は読める。意味はわかる。声にならない。


 去年は読めた。誰の台詞でも。老婆の声も子供の声も。あたしの声は通る——ことはちゃんがそう言った。河原で。台詞じゃなくてもでかくていいのに、と笑って。


 台詞を読もうとした。口が動いた。空気が喉を通った。音にならなかった。


 他人の言葉が声にならない。あたしの中にことはの声がある。よはんさんの「お先に失礼します」がある。覚えている声で満杯になっている。台詞が入る場所がない。


「ごめん。今日はだめ」


 それだけ言えた。それだけは自分の言葉だったから。


 部室を出た。廊下を歩いた。壁の向こうから陸上部の声が聞こえた。「もう一本!」。ことはちゃんがいた場所。ことはちゃんの声がいた場所。


 あたしの声は他人の言葉を話すための声だった。台詞。台本に書いてある言葉。誰かの言葉を、あたしの喉で鳴らす。それが演劇だった。


 その声が消えた。残ったのは、誰かの記憶だけ。





 商店街に行った。壁に赤い式が残っている。沈黙が残っている。


 チャーちゃんが壁のそばにいた。戻ってきていた。壁に頬を擦りつけていた。ことはの温度が焼きついた場所に。猫はそこが温かいことを知っている。


 まどかがいた。壁の前に座っていた。


 あたしはまどかを見た。白い髪。赤い指先。


「ずるい」


 声が出た。


「ずるいよ、まどか」


 自分の声だった。台詞じゃなかった。台本に書いてない。あたしの言葉だった。


「全部忘れてるじゃん。ことはちゃんの声も、よはんさんの名前も。あたしだけ覚えてる。全部持ってる。降ろせない。——ずるいよ」


 まどかが振り向いた。


 あたしは泣いていた。怒りながら泣いていた。声が裏返った。喉が痛い。台詞じゃない声で叫んだから。発声練習で出したことのない声。汚い声。あたしの声。


 ことはちゃんの声が耳の奥で笑っている。台詞じゃなくてもでかくていいのに。——うるさい。でかいよことはちゃん。あたしの中で笑わないで。


 風が吹いた。十月の風。乾いている。


 まどかが黙っていた。長く黙って、それから——


「ごめん」


 短かった。まどかの声が震えていた。


「助けてって言えなかった。ずっと。六月からずっと。一人で全部やろうとした。遠ざけた。嘘ついた。怪物だって言った。——ごめん」


「知ってる。怒ってた」


「……なんで、ここにいるの」


 あたしは答えようとした。口が動いた。声が出なかった。さっき叫んだから——違う。自分の言葉を使い果たしたから。台詞ならある。台本に書いてある言葉ならある。でもそれはあたしの答えじゃない。


 まどかがあたしの手を取った。初めてだった。いつもあたしがまどかの手を握っていた。逆は一度もなかった。まどかの赤い指が、あたしの冷たい手を包んだ。


「定義できない」


 まどかが言った。


「りっかとあたしが何なのか。好きとか嫌いとか、友達とか。全部当てはまるけど全部違う。定義できない。定義できないから大事なの。名前つけたら小さくなる」


 まどかの目から涙が出た。初めてだった。あたしはまどかが泣くのを見たことがなかった。声を出さなかった。涙が頬を伝った。赤い指で拭おうとして、頬に赤い跡がついた。


 あたしの言葉だった。あたしが言いたかった言葉を、まどかが言った。——いや。まどかの言葉だ。同じ場所に、別の道から辿り着いた。数学の道から。


「ありがと、りっか。ずっと帰ろって言ってくれて」


「帰ろ」


「うん」


 あたしも泣いていた。怒りの涙が、別の涙に変わっていた。





 部室に帰った。


 つむぎくんが先にいた。壁にもたれて座っていた。折れた鉛筆を三本、膝の上に並べていた。


 HBだった。いつもの2Bじゃない。九月に文房具屋のガラス越しに見たときから変わっていた。あたしはつむぎくんの鉛筆の種類を覚えていた。食パンの朝と同じように。


「つむぎくん。今朝何食べた」


「……覚えてない」


「食パン。月曜はいつも食パン」


 つむぎくんがあたしを見た。少しだけ、目の奥が緩んだ。


 ポケットからノートを出した。開いた。白かった。全ページ白かった。六月から書き溜めた検算。まどかの証明を追いかけた跡。全部消えていた。白いノート。沈黙の代償。


 つむぎくんが白いページを見ていた。長く見ていた。目が白いページから壁に移った。商店街の壁に残った式。零崎の古典化で消えなかった式。あたしの手の温度が焼きついた式。——白いページと、消えなかった壁。つむぎくんの目が、二つを比べていた。


 零崎先生のペンは赤かった。つむぎくんの鉛筆は黒い。先生は壁を書き換えた。つむぎくんは壁を確かめた。同じ壁に向かって。


 つむぎくんはノートを閉じなかった。白いページを開いたまま。


「……合ってる」


 検算じゃなかった。何もないノートに。白いページに。つむぎくんがそう言った。正しいから合っているのではない。失われたことが本当だから合っている。あったことが本当だから合っている。——証言だった。


 ホワイトボード。八月の式が残っている。窓から光が入っていた。


 窓際の椅子が空いていた。よはんさんがいつも座っていた椅子。あたしは鞄からよはんさんの制服を出した。畳んだまま。椅子の上に置いた。ボタンのない制服。中に誰もいない。


 窓から光が入った。制服に当たった。布が温かくなっていた。中に誰もいないのに。


 まどかがホワイトボードの前に立った。マーカーの蓋を取った。


 きゅ。


 あの音。いつもの音。帰ってきた音。


「今度は何?」


「次の定理」


 つむぎくんが白いノートを開いた。新しい鉛筆を持った。HB。2Bには戻らない。でも折れていない鉛筆。


 きゅの残響が消えた。部室が静かになった。


 三人で座っていた。


 まどかがマーカーの蓋を戻した。ホワイトボードの前の床に座った。いつもの場所。


 つむぎくんがノートを開いたまま膝に載せていた。何も書かなかった。白いページを見ていた。


 あたしは窓の外を見ていた。空が低い。稜線が薄い。校庭の砂が風に飛んでいた。


 時計が鳴った。チャイム。五時。


 誰も動かなかった。


 窓際のよはんさんの制服に、夕方の光が当たっていた。布が少しだけオレンジに染まった。中に誰もいないのに、光は当たる。


 まどかが靴紐を結んだ。黙って。誰にも言わずに。立ち上がった。


 あたしは立った。言葉はなかった。


「帰るか」


 つむぎくんが最後に立った。


「じゃあクレープ行こう」





 部室を出た。三人で。


 校門を出て、坂道を下った。商店街に向かって歩いた。


 走らなかった。走る理由がなかった。考えなくていいから走るのでもない。怒りでもない。足が地面を踏んでいた。一歩ずつ。


 まどかが隣にいた。つむぎくんが後ろにいた。三人で歩いていた。


 坂道の途中で、風が変わった。十月の風。さっきより少しだけ温かかった。


 あたしの足が速くなった。少しずつ。気づいていなかった。


 まどかの手を握っていた。引っ張っていた。まどかが追いつけない速度で。まどかの足が動いた。走れるとは思っていなかった。走れた。制服がばたばた鳴った。


 いつの間にか走っていた。


 つむぎくんが後ろから追いついた。三人で走っていた。


 走るの好きなんだよね——ことはちゃんの声が混ざった。あたしの声に。境目がない。


 意味はなかった。考えなくていいから走るのでもない。思い出すために走るのでもない。走れるから走っていた。不完全だから走れた。





 クレープ屋の前。


 まどかが立ち止まった。店員に何か言おうとした。口が動いている。声が出ない。


 あたしは何も言わなかった。まどかの手を握ったまま。


 もう一度。口が動いた。


「マンゴー」


 声が小さかった。裏返っていた。でも——出た。声が出ない世界で。記憶が消える世界で。まどかが「マンゴー」と言った。


「マンゴー。お願いします」


 声がまだ震えていた。でも、そこにあった。


 店員が聞き返さなかった。


 つむぎくんが何か頼んだ。聞いていなかった。


 あたしの番が来た。


 いつもは頼まない。まどかのを一口もらう。それが役だった。誰かの台詞を読む役。誰かのクレープを分けてもらう役。


「いちご」


 声が出た。あたしの声で。台詞じゃない。あたしが食べたいものを、あたしが頼んだ。


「いちご、お願いします」


 店員がうなずいた。


 クレープを受け取った。いちごの匂い。甘くて、冷たかった。


 三人で食べた。商店街のベンチで。壁に式が残っている。沈黙が残っている。


 あたしの右手が冷たかった。左手も冷たかった。まどかの手も冷たかった。襟元によはんさんのボタンが一つ留まっていた。


 空がまだ低かった。少しだけ高くなったけど、六月の空ではない。星はまだ足りない。全部は戻らない。


 まどかの髪が風に揺れた。白い。根元まで白い。戻っていない。


 どこかで零崎先生が歩いている。スマホをポケットに入れたまま。汐さんの部屋に向かっているのかもしれない。今度こそ振り返ってもらえると思って。今度も振り返ってもらえなくて。それでもまた行くのだろう。止まれないから。


 世界は小さくなった。元には戻らない。失われた山は失われたまま。消えた信号は消えたまま。ことはがいた場所は空のまま。よはんさんがいた場所も空のまま。


 不完全だ。


 不完全なまま、食べている。クレープを。いちごの。あたしが選んだ味の。



===


 商店街の壁。夜。


 式が残っている。赤い。沈黙が残っている。


 チャーちゃんが煎餅屋の壁に丸まっている。温かい壁に。目を閉じている。喉を鳴らしている。


 猫の隣に——制服が畳まれている。ボタンのない制服。いつの間にか。誰が持ってきたのかわからない。中に誰もいない。風が裾を微かに揺らしている。


 空に星が戻っている。少しだけ。猫の背中に星の光が当たっている。制服にも。



 知らない場所。知らない時間。


 建物の形が違う。技術が違う。


 壁がある。壁に式が浮かんでいる。青い。


 ホワイトボードの前に誰かが立っている。背中。前に傾いている。まどかと同じ角度で。ホワイトボードの左上隅に、小さな点がある。


 隣に誰かがいる。手を伸ばしている。触れている。



 暗い。


 星がない。何兆年が過ぎた。宇宙が終わりかけている。


 暗闇の中に——一点だけ温かい場所がある。


 何かが何かに触れている。名前がない。形がわからない。


 触れている。


 それだけ。触れた場所だけが温かい。


 新しい宇宙が始まる。


 最初の星の表面に波紋がある。温かい。


 波紋の形が——かつてある宇宙のある部室のホワイトボードの左上隅にあった点と、同じ形をしている。


 波紋が動いている。まだ動いている。新しい線が書かれている。誰が書いているかはわからない。


 沈黙。


 Q.E.D.


 ——


===



---



まどかのノート #13


「思い出せないことがある。祭りのこと。猫の名前をつけた子の顔。マンゴーの味。消えたのか忘れたのかもわからないことがいくつか。


りっかの手の冷たさは覚えてる。りっかの名前は覚えてる。りっかが握ってくれてたから。


覚えてないことは、りっかに教えてもらう。つむぎに聞く。よはんには——聞けない。よはんの名前はりっかに教わった。覚えてなかった。ボタンをくれた人。あたしたちの友達。りっかがそう言った。もういない人。


ことはちゃんの声が思い出せない。りっかは覚えている。りっかに聞く。何度でも聞く。忘れるたびに聞く。


りっかが怒った。あたしに。ずるいって言った。全部覚えてるのはあたしだけだって。——そうだ。ずるい。あたしは忘れて、りっかだけが持ってる。ごめん。


でもりっかが怒ってくれてよかった。怒ってくれなかったら、あたしはりっかが平気だと思ったままだった。


定義できない。りっかとあたしが何なのか。数学では書けない。書けないものがある。書けないから大事だってことが、ある。


零崎先生はまだ歩いている。先生の体系では汐さんを記述できない。でも先生は歩いている。止まれないから。あたしと同じだ。止まれない人間がもう一人いる。


つむぎが白いノートに『合ってる』と言った。何もないのに。零崎先生なら『間違ってる』と言ったと思う。白いページは間違いだ、元に戻さなければ、って。つむぎは違った。白いページを見て、合ってると言った。同じ正しさなのに、違う。


証明は終わっていない。Q.E.D.は嘘。終わっていないから走れる。終わったら止まるしかない。終わらない。


一人で全部覚えてなくていい。覚えてくれる人がいればいい。いなくなった人のことも、覚えている人がいればいい。


不完全で走れ。」

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