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第48話 形だけの成功

 青い瞳は、水球ではなく、その手前を見ている。


「今、崩れたわ」


「でも、水球は崩れてないぞ」


「結果は崩れていない。過程は崩れた」


 セリアは一歩近づいた。


「水になる直前、青い魔力の外周が割れた。普通なら、水球は下へ落ちている」


「でも落ちなかった」


「白環が拾ったのよ」


 セリアの声が低くなる。


「崩れた部分だけを、あまりにも綺麗に」


 ユリスは左手を見る。


 白環は、もう光っていなかった。


 何事もなかったように白く静まっている。

 杖先の水球もまだ丸い。

 まるで最初から成功していたかのように。


「維持して」


 セリアが言った。


「まだ消さないで」


「分かった」


 ユリスは水球へ意識を戻す。


 丸い形を保つ。


 崩さない。


 ただそれだけのはずなのに、水球は維持するほど難しかった。

 火を灯すのとは違う。

 ただ生まれれば終わりではない。

 形を保つために、魔力を流し続けなければならない。


 少しでも強すぎれば膨らみ、弱ければ落ちる。


 ユリスは細く息を吐いた。


 水球の表面が揺れる。

 青い魔力が内側で波打ち、形が横へ歪みかけた。


 まただ。


 そう思った瞬間、白環が淡く光る。


 歪みかけた水球の輪郭が、何もなかったように丸く戻る。

 周囲から見れば、少し揺れただけに見えただろう。


 だが、ユリスには分かった。


 今のは、自分で戻したのではない。


 水球が勝手に成功した。


 いや、成功したように見える形へ戻された。


「二度目」


 セリアが呟いた。


「今度は形状維持の線が折れたわ。水の境界が外へ逃げようとした。でも、白環が先に受けた」


「そんな細かいところまで見えるのか」


「水は境界が曖昧だから、制御の乱れが見えやすいの」


 セリアは水球を見つめたまま言った。


「結界魔法にも近いわ。大きな力で押し広げるのではなく、どこまでを内側にして、どこからを外側にするかを決める。水球は小さな境界の練習でもある」


 昨日、中心街で聞いた言葉が、ユリスの中で重なった。


 結界魔法は、魔力量より制御がものを言う。


 どこまでを守り、何を通し、何を止めるか。


 境界を正確に定める魔法。


 セリアは、その目で水球の境界を見ている。

 自分には丸い水にしか見えないものの、その手前にある線を見ている。


「……やっぱり、すごいな」


「今、感想はいいわ。集中して」


「悪い」


 ユリスは水球へ意識を戻す。


 十秒。


 それだけの時間が、やけに長い。


 水球は丸い。

 けれど、その丸さが、自分の手の中にない。

 指から滑り落ちたものを、誰かが横から拾って丸く置き直しているような感覚があった。


 白環があるから、失敗は外へ出ない。

 周囲は壊れない。

 床も軋まない。

 誰も傷つかない。


 それは、ありがたいことのはずだった。


 なのに、ユリスの胸には別の重さが残った。


 自分が間違えたことまで、自分にも見えなくなりかけている。


 その怖さがあった。


「時間」


 ガルディアの声が響いた。


「発動者は水球を解除。観察者は結果を伝えろ」


 ユリスは慎重に魔力を抜いた。

 水球が小さく揺れ、空中でほどける。

 青い光が薄い霧のように散り、床の反動線へ淡く流れた。


 白環は、最後まで静かだった。


 セリアはしばらく黙っていた。


 ユリスは落ち着かず、杖を握り直す。


「どうだった?」


「形だけなら成功よ」


「形だけ」


「ええ。水球は作れた。十秒維持もできた。周囲への反動も出ていない。結果だけを見れば、成功」


「……結果だけを見れば、か」


「でも、過程は三度崩れている」


 三度。


 ユリスは思わず左手を見た。


 自分で分かったのは二度だった。


「一度目は生成直前。二度目は形状維持。三度目は解除直前よ」


「解除のときも?」


「ええ。魔力を抜くとき、水の輪郭が一瞬だけ残った。普通なら床へ水滴が落ちるか、青い魔力が反動線へ乱れて流れる。でも白環が先に整えた」


 セリアは、白環を見る。


「反動を受け止めているだけじゃない。崩れた結果を、周囲に見えない形へ畳んでいる」


「畳む?」


「そうとしか言いようがないわ」


 セリアは眉を寄せた。


「吸収なら、もっと痕跡が残る。負荷を受けたものには、熱でも、色の濁りでも、線の歪みでも、何かが出る。でも白環は、崩れた部分だけを綺麗に受け取りすぎている」


 その言い方に、ユリスの胸の奥が沈む。


 綺麗すぎる。


 また、その言葉に戻ってくる。


「つまり、俺はできたわけじゃないんだな」


 ユリスが言うと、セリアは少しだけ視線を上げた。


「できていない、とは言わないわ」


「でも、俺が制御したわけじゃない」


「そうね」


 セリアは嘘を言わなかった。


 それが少し痛かった。


 けれど、以前ほどつらくはなかった。


 ユリスは水球が浮かんでいた空間を見つめる。


 丸い水。


 形だけの成功。


 周囲からは、きっと普通にできたように見えた。


 でもセリアは見ていた。

 どこで崩れたのか、何が白環へ流れたのか。

 自分では見えなくなりかけていた失敗を、セリアは言葉にしてくれた。


「……そっか」


 ユリスは小さく息を吐いた。


「俺、三回も間違えたのか」


「ええ」


「でも、分かった」


 セリアがわずかに目を細める。


「何が?」


「間違えたことが」


 ユリスは左手を握った。


「白環があると、周りには出ない。結果だけなら成功に見える。でも、セリアが見てくれれば、俺がどこで間違えたのかは分かる」


 言いながら、昨日の言葉を思い出す。


 二人で見れば、少しはまともになるのかな。


 まともになるかは分からない。


 でも、ひとりで見るよりはずっとましになる。


 今、その意味が少しだけ分かった気がした。


「もう一回やりたい」


 ユリスが言うと、セリアは少しだけ驚いたように瞬きをした。


「怖くないの?」


「怖いよ」


 ユリスは正直に言った。


「でも、今ならどこを見るべきか少し分かる。火が灯る前じゃなくて、水になる前。丸くなる前。崩れる前」


 セリアの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「いいわ。次は生成直前だけに集中して。水球を維持しようとしすぎないで。まず、水になる前の青い魔力がどこで折れるかを感じて」


「分かった」


「白環へ流れたら、そこを覚えて」


「覚えられるかな」


「覚えなさい」


「命令だな」


「今のは命令よ」


 ユリスは少しだけ笑った。


 そのやり取りを、少し離れたところから見ている視線があった。


 レオン・グランフィールだった。


 赤い髪が、実技場の白い光の中でよく目立つ。

 彼の前には、綺麗な水球が浮かんでいた。

 大きさは指定通りで、表面の揺れは少なく、形も安定している。


 レオンは、当然のように課題をこなしていた。


 観察者役のエリオット・ラングレイが、水球を見て静かに頷く。


「維持時間、問題なし。魔力流も安定している。余剰も少ない。さすがだね、レオン」


 レオンは短く答えた。


「当然だ」


 しかし、その視線は自分の水球ではなく、ユリスとセリアの方へ向いていた。


 カイル・ベルグラントが横から顔をしかめる。


「なんだよ、あいつ。指輪つけて成功しただけだろ。補助具ありなら誰でも――」


「誰でも、ではない」


 レオンが低く言った。


 カイルは言葉を止める。


「え?」


「水球の形は保っていた。だが、魔力の流れは一度乱れた」


 レオンの赤い瞳が細くなる。


「それを、あの指輪が戻した」


 エリオットが興味深そうに目を向ける。


「君にも見えたのか」


「完全には見えない。だが、火属性と違って水は形の乱れが出やすい。あれはフォルク自身の制御ではない」


「なら、やはり補助具頼りだね」


 エリオットの声は穏やかだった。


「でも、セリア嬢はそこを見ている」


 その言葉に、レオンの表情がわずかに硬くなった。


 セリアは、ユリスの水球そのものを見ていない。

 結果ではなく、崩れた瞬間を見ている。

 そしてユリスも、それを聞いて逃げていない。


 もう一度やりたい、と言った。


 レオンの指が、杖を握る手にわずかに力を込める。


「……何をしているんだ、あいつは」


 それは嫌味ではなかった。


 苛立ちに近い。


 だが、その奥に、わずかな困惑が混じっていた。


 ユリスは気づいていなかった。


 セリアの声に意識を向けていたからだ。


「次、始めるわよ」


「ああ」


「今度は結果を急がないで。水球を完成させようとしない。青い魔力が集まり、水になる直前を見る」


「水になる直前……」


「ええ。水がある、じゃない。水になろうとしている流れを見るの」


 セリアの言葉は、昨日の中心街で聞いたものと似ていた。


 火を作れなかった子供だったセリア。


 でも、火が消えたあとの線を見ていたセリア。


 結果へ届かなかったからこそ、過程を見ることを覚えた少女。


 その彼女が、今、ユリスに過程を見せようとしている。


 ユリスは深く息を吸った。


 杖先へ意識を向ける。


 水球(ウォーター・スフィア)


 水を作る。


 違う。


 水がある状態だけを求めない。


 青い魔力が集まる。

 冷たく、流れやすく、形を持たない力。

 それが、水になろうとする。


 丸くなろうとする。


 その前。


 その手前。


 魔力の線が、内側へ折れた。


「そこ」


 セリアの声が鋭く入った。


 ユリスは、逃がさなかった。


 見た。


 ほんの一瞬。


 青い魔力が水へ変わる直前、形の外側が薄く裂けるような感覚があった。


 その裂け目へ、灰白の何かが生まれる。

 それは水の魔力ではない。

 青ではない。火でも風でも土でもない。


 見覚えのある、曖昧な色。


 ユリス自身の異常。


 灰白の揺らぎ。


 それが白環へ向かう。


 白環が光る。


 けれど、今度はただ見送らなかった。


 ユリスは、その流れを覚えようとした。


 どこで折れたのか。


 何が白環へ入ったのか。


 結果ではなく、その手前で何が起きたのか。


 杖先に水球が浮かぶ。


 さっきより少し小さい。


 形も完全な球ではない。


 表面がわずかに揺れている。


 それでも、ユリスは息を吐いた。

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