第49話 二人で見る
「……今の」
「見えた?」
セリアが聞く。
「少しだけ」
「どこ?」
「水になる前に、外側が裂けた。そこから、灰白の変なものが出た。それが白環へ行った」
セリアの瞳が、静かに見開かれた。
「今、灰白と言ったわね」
「ああ」
「あなた自身にも、見えたの?」
「見えたっていうか……感じた。色として見えたわけじゃないかもしれない。でも、青じゃなかった」
セリアは少しの間、黙った。
それから、唇に指を当てる。
「白環があることで、逆に観測できた……?」
「どういうことだ?」
「本来なら、あなたの結末到達は結果を成立させた瞬間に過程を塗り潰す。だから崩れた場所が見えにくい。でも白環が灰白の反応を一時的に受け取るなら、その流れを追えるかもしれない」
「つまり、白環がある方が見えるのか?」
「可能性はあるわ」
セリアはすぐに言い切らなかった。
「ただし、それは白環が安全だという意味ではない」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん、では困るのだけれど」
セリアの眉が寄る。
ユリスは少しだけ笑った。
「分かってるよ。便利だから大丈夫、とは思ってない」
「ならいいわ」
セリアは水球へ視線を戻す。
「でも、今のは前進よ」
その言葉に、ユリスは思わず顔を上げた。
「前進?」
「ええ。あなたは今、自分の失敗の手前を感じた」
セリアの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「結果ではなく、過程を見たのよ」
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
ユリスは杖先の水球を見る。
完全な球ではない。
表面は揺れていて、少し歪んでいる。
周囲から見れば、さっきより出来が悪いかもしれない。
でも、ユリスには不思議と、さっきよりこちらの方が自分の魔法に思えた。
形だけの成功ではない。
歪みのある、不完全な水球。
それでも、自分がどこで間違えたのかを少しだけ知っている。
それが、妙に大事なことに思えた。
「フォルク」
ガルディアの声が近くで聞こえた。
気づけば、ガルディアがこちらへ歩いてきていた。
ユリスは慌てて姿勢を正す。
「はい」
ガルディアはユリスの水球を見た。
完全ではない。
少し歪んでいる。
今にも形を崩しそうだ。
だが、ガルディアはすぐには叱らなかった。
「一度目より形が悪いな」
「……はい」
「だが、顔は一度目よりましだ」
ユリスは意味が分からず、瞬きをした。
「え?」
「一度目は、成功した形に戸惑っていた。今は、何を間違えたか考えている」
ガルディアの黄色い瞳が、ユリスの左手に向く。
「補助具を使うこと自体は否定せん」
実技場の空気が、少しだけ静まった。
近くの生徒たちが、さりげなく聞き耳を立てる。
「だが、補助具で見えなくなった失敗を、克服した失敗と勘違いするな」
その声は厳しかった。
けれど、切り捨てるものではなかった。
「白環が何を肩代わりしているのか。お前自身がどこで崩れているのか。それを理解しろ」
「はい」
「水球が丸いかどうかだけを見るな。水になる前に、魔力がどこで乱れたかを見る。それができなければ、補助具を外した瞬間に同じ失敗を繰り返す」
ユリスは強く頷いた。
「はい」
ガルディアは次にセリアを見る。
「ノルフェイン。観察者としての指摘は適切だ。ただし、踏み込みすぎるな。お前も体調が万全だとは言い難い」
セリアがわずかに目を伏せる。
「……はい」
「返事が遅い」
「はい」
リナが遠くでうんうんと頷いていた。
セリアはそれに気づき、少しだけ不満そうな顔をした。
ガルディアは最後にユリスの水球を見た。
「形は悪い。だが、今日の課題としては悪くない」
ユリスは驚いた。
「え?」
「完璧な形だけを出して終わるより、崩れを自覚した方が得るものはある」
ガルディアは短く言った。
「続けろ。ただし、無理はするな。白環に熱、痛み、違和感が出た時点で中止だ」
「分かりました」
ガルディアは頷き、別の組の方へ歩いていった。
ユリスはしばらくその背中を見ていた。
「ガルディア先生って」
「何?」
「厳しいけど、ちゃんと見てるんだな」
「当然でしょう。実技教師なのだから」
セリアは淡々と言った。
「ただ怒るだけの教師なら、王立魔術学院で実技基礎を任されないわ」
「それもそうか」
ユリスは小さく笑った。
水球はもう限界だった。
形が崩れかけている。
ユリスは慎重に魔力を抜いた。
今度は解除の瞬間に意識を向ける。
水がほどける。青い魔力が霧のように薄まる。
その端に、わずかな灰白が混じり、白環が小さく光る。
ユリスは、それを見逃さなかった。
完全に理解できたわけではない。
止められたわけでもない。
でも、分かった。
自分の魔法は、何もなかったように成功しているわけではない。
見えなくなった失敗が、確かにそこにある。
それを見つけることが、たぶん最初の一歩なのだ。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
生徒たちはそれぞれ水球を解除し、訓練区画から出ていく。
床には水滴がいくつも落ちていた。
うまく維持できなかった生徒の水球が崩れた跡だ。
ユリスの足元には、水滴はない。
そのことが、少し前なら安心だったかもしれない。
でも今は、少し違った。
水滴がないことは、失敗がなかった証拠ではない。
失敗が、別の場所へ隠れただけかもしれない。
「ユリス」
リナが駆け寄ってきた。
「さっきの水球、最初はすごく綺麗だったね」
「あれは俺が綺麗に作ったわけじゃない」
「でも、二回目はなんか、ユリスがちゃんと見てる感じだった」
「分かるのか?」
「うん。顔が違った」
リナは自信満々に言った。
「顔かよ」
「顔、大事だよ」
リナは笑った。
セリアも横で小さく頷く。
「実際、顔は一度目よりましだったわ」
「セリアまで言うのか」
「事実よ」
「事実でも言い方ってあるって、昨日リナに言われてただろ」
「……努力するわ」
「今の間は努力しない間だな」
リナがくすくす笑う。
ユリスも、少しだけ笑った。
そのとき、背後から足音が近づいた。
振り向くと、レオンが立っていた。
少し後ろにはカイルとエリオットもいる。
レオンはユリスを見ていた。
いつものように堂々としているが、その赤い瞳には、ただの侮りだけではない色があった。
「フォルク」
「何だよ」
「補助具で形を整えただけなら、次は崩れる」
カイルが横で鼻を鳴らす。
「ほらな。やっぱり――」
だが、レオンはカイルを見ずに続けた。
「だが、二度目は違った」
ユリスは少し驚いた。
「見てたのか」
「目に入っただけだ」
「それ、見てたって言うんじゃないのか」
レオンの眉がわずかに動く。
「調子に乗るな」
「乗ってないよ」
ユリスは肩をすくめた。
レオンはセリアへ視線を移す。
「セリア嬢。君は、あの補助具の反応をどう見た?」
セリアの表情が少しだけ引き締まる。
「まだ断定はできないわ」
「断定できないことを、君はそう簡単に口にしない」
「ええ」
「なら、何か見えたんだな」
セリアはすぐには答えなかった。
ユリスは二人の間に流れる空気を感じた。
レオンは嫌味を言っているわけではない。
少なくとも、今は。
彼はセリアの見立てを知りたがっている。
それは、ユリスへの嫉妬とも、警戒とも違う。
魔術師としての関心に近いものだった。
「白環は、反動を消していない」
セリアは静かに言った。
「見えない形へ畳んでいる。少なくとも、私にはそう見えた」
エリオットの薄青の瞳が細くなる。
「畳む、か。面白い表現だね」
カイルは顔をしかめた。
「結局、危ないってことじゃないのかよ」
「危ないわ」
セリアは即答した。
ユリスの胸が小さく沈む。
だが、セリアは続けた。
「でも、見えるようになれば、扱い方を考えられる」
その言葉に、レオンがわずかに目を細めた。
「見えるようになれば、か」
「ええ」
レオンはしばらく黙っていた。
そして、ユリスを見る。
「なら、せいぜい見失うな」
「え?」
「自分の失敗をだ」
それだけ言って、レオンは踵を返した。
カイルが慌てて後を追う。
「レオン、今のどういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
「いや、だからさ――」
エリオットは一度だけユリスたちを振り返った。
薄く笑っているようにも見えたが、その目は冷静だった。
「面白くなってきたね」
そう呟いて、彼もレオンの後を追った。
ユリスはしばらくその背中を見ていた。
「今の、励まされたのか?」
「レオンに?」
リナが首を傾げる。
「うーん、嫌味三割、忠告五割、素直じゃなさ二割って感じ?」
「細かいな」
「リナにしては妥当な分析ね」
「セリア、今日ちょっと私に辛くない?」
「私の言葉を勝手に訳したことをまだ根に持っているの」
「そこ!?」
リナが大げさに声を上げる。
ユリスは笑った。
笑ってから、左手を見る。
白環は静かだった。
授業中、何度も灰白の反応を受け取ったはずなのに、熱もない。
痛みもない。
色も濁っていない。
やはり、綺麗すぎる。
でも、今日のユリスはその静けさを、ただ怖がるだけではなかった。
見えなくなった失敗がある。
白環の内側へ畳まれたものがある。
それを見ようとしているセリアがいる。
自分でも、ほんの少しだけ見えた。
灰白の揺らぎ。
水になる前の崩れ。
結果ではなく、その手前にあったもの。
それは、失敗だった。
けれど、初めて自分のものとして触れられた失敗でもあった。
「セリア」
「何?」
「次も、見てくれるか」
セリアは一瞬だけ黙った。
それから、当然のように言った。
「そのために組んだのでしょう」
「そうだったな」
「ええ」
セリアは少しだけ口元を緩める。
「あなたが勝手に結果だけへ行かないように、見張っているわ」
「言い方……」
「観察しているわ」
「それも微妙だな」
リナが隣で笑う。
実技場の窓から差し込む光が、白い床に揺れていた。
ユリスはもう一度、白環に触れた。
何も起きていない。
何も起きていないように見える。
けれど、その内側にはきっと、見えなくなった失敗がある。
ならば、見ればいい。
ひとりで見えないなら、二人で。
結果だけではなく、その前にあるものを。
ユリスは、少しだけ深く息を吸った。




