第47話 水球
休日明けの実技場には、いつもより少し柔らかい空気が流れていた。
朝の光が高い窓から差し込み、白い床に細長い線を落としている。
訓練区画の境界線はまだ淡く眠っていて、生徒たちの足音だけが広い空間に響いていた。
ユリスは、左手を一度だけ握った。
人差し指に白環がある。
昨日、王都の中心街を歩いたときも、その白い指輪はずっと静かだった。
痛みも熱もなく、魔力を吸われるような感覚もない。
何も起きていないように見える。
けれど、セリアは最後まで安心した顔をしなかった。
綺麗すぎる。
その言葉が、まだ耳の奥に残っている。
白環は何かを受け止めているはずなのに、まるで何も残さない。
普通なら出るはずの濁りや歪みが見えない。
それが、セリアには不自然に見えるらしい。
ユリスには、まだ分からない。
ただ、昨日の王都中心街で見たものは覚えている。
淡金色に揺れる魔術灯。
屋台の焼き菓子を温める小さな加熱。
果実水を冷やす水属性の冷却符。
子供の杖先で、ほんの一瞬だけ形になった小さな火。
魔法は、壊すものだけではない。
誰かの一日を、ほんの少し明るくするものでもある。
そう思えたことは、ユリスにとって小さくなかった。
だから、今日の実技場は、以前より少しだけ違って見えた。
怖くないわけではない。
杖を持てば、胸の奥は沈む。
魔力を流そうとすれば、どこかでまた何かが壊れるのではないかと思う。
それでも、すぐに逃げ出したいほどではなかった。
少なくとも、今日は。
「フォルク」
低い声が実技場に響いた。
ユリスは顔を上げる。
ガルディア・ヴァイスが、訓練区画の中央に立っていた。
肩口まである金髪は、朝の光を受けても柔らかく見えない。
黄色い瞳は鋭く、生徒たちの小さな緩みまで見落とさないように実技場全体を見渡している。
「ぼうっとするな。今日は見学ではない」
「はい」
ユリスは慌てて背筋を伸ばした。
近くでリナが小さく笑う。
「休日明けって感じだね」
「リナは元気そうだな」
「昨日いっぱい食べたからね」
「その理屈で元気になるのか」
「なるよ。おいしいものは強い」
リナは胸を張った。
ユリスは思わず笑いかけたが、ガルディアの視線がこちらへ向いた気がして、すぐに口を閉じた。
少し離れた場所では、セリアが静かに立っていた。
銀色の髪を背に流し、いつも通り背筋を伸ばしている。
休日に中心街で見せた表情の柔らかさは、今は薄い。
けれど、完全に消えてはいなかった。
ユリスと目が合うと、セリアはわずかに頷いた。
それだけで、昨日の会話を思い出す。
俺が結果を見て、セリアが過程を見るなら。
二人で見れば、少しはまともになるのかな。
その答えを、今日、少しだけ試すことになるのかもしれない。
ガルディアが一歩前に出た。
「本日の実技は、二人一組で行う」
生徒たちの間に、小さなどよめきが走った。
「内容は水球の生成および維持。発動者は掌大の水球を作り、十秒間、形を保て。観察者は発動者の魔力流、形状維持の乱れ、余剰魔力の逃げ方を見る」
ガルディアの声は淡々としている。
けれど、生徒たちの表情は少し緊張した。
水球。
ユリスも村で名前くらいは知っている。
小さな水の球を作る基礎魔法だ。
水を生む、というだけなら単純に聞こえる。
だが、学院で扱う水球は、桶に水を出すのとは違う。
空中に浮かせ、形を保ち、崩さず、落とさない。
水は火より派手ではないが、制御の乱れがすぐに形へ出る。
「水は誤魔化しが利かん」
ガルディアが言った。
「魔力を流しすぎれば膨らむ。足りなければ落ちる。制御が乱れれば形が歪み、維持できなくなる。発動者は水を作ることだけを考えるな。観察者は、崩れた後ではなく、崩れる前を見ろ」
崩れる前。
その言葉に、ユリスは思わずセリアを見た。
セリアもこちらを見ていた。
青い瞳は揺れていない。
まるで、最初からその言葉だけを待っていたようだった。
「組み合わせは自由とする。ただし、遊びではない。互いの癖を見ろ。指摘しろ。指摘を受けた者は、言い訳をする前に修正しろ」
ガルディアが言い終えると、生徒たちは一斉に動き始めた。
近くにいた者同士で声をかけ合う者、いつもの友人のもとへ向かう者、実力の近い相手を選ぶ者。
それぞれの動きが実技場の中に広がっていく。
リナは当然のようにセリアの方を見た。
「じゃあ私、セリアと――」
「私はユリスと組むわ」
セリアの声は、静かだった。
けれど、迷いはなかった。
リナは一瞬だけ目を丸くした。それから、すぐににこっと笑う。
「うん。そうなると思った」
「……何よ、その顔は」
「何でもないよ。昨日の続きでしょ?」
「続きというほどのことではないわ」
「はいはい」
リナは楽しそうに手を振った。
「じゃあ私は別の子と組むね。ユリス、セリアの言うことちゃんと聞くんだよ」
「なんでリナが俺に言うんだ」
「だって言わないと変なところで意地張りそうだから」
「張らないよ」
言ってから、少し自信がなくなった。
リナはそれを見抜いたように笑った。
「ほら」
「ほらじゃない」
ユリスが言い返すと、リナは軽く手を振って別の生徒の方へ向かった。
セリアはユリスの前に立つ。
「よろしく、ユリス」
「ああ」
そう返したものの、少しだけ胸が落ち着かない。
昨日の中心街では、セリアと話せた。
自分の魔法への怖さも、少しだけ言葉にできた。
でも実技場に戻れば、やることは変わらない。
魔法を使う。
その事実が、ユリスの喉を細くする。
セリアはユリスの左手を見た。
「白環はつけたままでいいわ」
「外した方がいいのかと思った」
「今は外さない方がいい。白環が何をしているのかを見る必要があるから」
「見るって……水球でか?」
「ええ。灯火より水球の方が分かりやすいわ」
セリアは訓練区画の床に視線を落とした。
床には、半円状の反動線が薄く刻まれている。
「火は灯った瞬間に結果が見える。でも水球は維持し続ける魔法よ。形を保っている間、魔力の流れも、崩れかける場所も、白環へ逃げるものも観察しやすい」
「つまり、俺が下手な方が見やすいってことか」
「そうね」
「そこは少し否定してくれないか」
「否定すると嘘になるわ」
セリアは真顔だった。
ユリスは肩を落とす。
「本当に嘘が嫌いなんだな」
「あなたも、私に適当な慰めを言われたいわけではないでしょう?」
「まあ、それはそうだけど」
「なら始めましょう」
セリアは一歩下がり、観察者の位置に立った。
「まずは普通に水球を作って」
「普通にっていうのが難しいんだよ」
「知っているわ」
「知ってるなら言い方を考えろよ」
「考えた結果よ」
ユリスは小さく息を吐いた。
訓練区画の中央に立つ。
杖を構える。
水球。
村でも、水を作る魔法は見たことがある。
井戸から水を汲めないとき、大人たちが手桶に小さな水を満たしていた。
けれどそれは、学院で学ぶような綺麗な球ではなかった。
生活に必要な分だけ水を出す。
それで十分だった。
でも今は違う。
空中に、水を丸く保たなければならない。
ユリスは杖先へ意識を向けた。
水を出す。
違う。
水がそこにある状態を作る。
丸い形。
掌に乗るくらいの大きさ。
落ちない。
広がらない。
崩れない。
杖先に青い魔力が集まり始めた。
火の赤とは違う、水属性の青。
冷たく、流れやすく、形を持たせなければすぐに散ってしまいそうな光。
ユリスは慎重に魔力を流した。
多くしすぎない。
急がない。
結果だけを引っ張らない。
水球を作る。
そこに水球がある。
杖先の空気が揺れた。
青い光が薄く広がり、水滴のようなものが集まる。
丸くなる。
丸くなろうとする。
その瞬間、魔力の流れが内側でねじれた。
ユリスの胸が、ひやりとする。
違う。
今、何かがずれた。
青い魔力が水になる前に、形の外へ逃げようとする。
水球は生まれかけたまま、下へ落ちかけた。
だが、左手の人差し指にはめた白環が、かすかに光った。
音はない。
衝撃もない。
ただ、崩れかけた魔力の端が、白い輪の内側へすっと引かれるように沈んだ。
次の瞬間、杖先に水球が浮かんでいた。
丸い。
透明で、掌ほどの大きさ。
表面にはわずかな波紋があるが、形は崩れていない。
床に水滴も落ちていない。
周囲の生徒が何人か、こちらを見た。
「おお……」
「フォルク、できてるじゃん」
誰かが小さく言った。
ユリスは水球を見つめた。
できている。
確かに、水球はある。
十秒間維持しろと言われた。
まだ数秒しか経っていないが、形は保たれている。
けれど、手応えが気持ち悪かった。
自分で整えた感覚がない。
水球が崩れかけた瞬間までは分かったのに、そこから先が抜け落ちている。
間違えたはずなのに、結果だけが丸く残っている。
「……できてる、のか?」
ユリスが呟くと、セリアがすぐに言った。
「結果はね」
その声に、ユリスは水球から目を離した。
セリアの表情は、少しも緩んでいなかった。




