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第43話 休日の王都中心街

 休日の朝。


 ユリスは、学院寮の食堂でぼんやりと湯気の立つ茶を見つめていた。


 授業はない。


 測定もない。


 訓練室へ呼び出される予定もない。


 何かを失敗するかもしれない時間が、今日は少しだけ遠い。


 そう思えるはずだった。

 けれど、左手の人差し指には白環がある。


 白く、滑らかで、何も語らない指輪。


 昨日、医務室で灯火(ライト)を発動したとき、白環は確かに反動を受け止めた。


 床は軋まなかった。


 壁の結界線も光らなかった。


 薬棚の瓶も震えなかった。


 誰も痛がらなかった。


 ただ、杖先に小さな火が灯った。


 その事実を思い出すたび、胸の奥が少し温かくなる。

 そして、その温かさのすぐ横に、別の不安が残る。


 完全に制御したわけではない。


 エルディスはそう言った。


 セリアは、綺麗すぎると言った。


 白環は、何もしていないような顔でユリスの指に収まっている。


 それがかえって落ち着かなかった。


「ユリス」


 名前を呼ばれて、ユリスは顔を上げた。


 食堂の入口に、リナが立っていた。


 オレンジ色の短い髪が、朝の光を受けて明るく見える。

 休日だからか、制服の上着は少しだけ着崩していて、いつもより気楽な雰囲気だった。


「今日、空いてる?」


「空いてるけど」


「じゃあ決まり」


「何が?」


「王都に行くよ」


 ユリスは茶を飲みかけたまま固まった。


「王都?」


「中心街。食べ歩き。休日。おいしいもの。以上」


「説明が雑すぎる」


「細かく説明したら逃げるでしょ」


「逃げる前提なのかよ」


「うん」


 リナは悪びれもなく頷いた。


 ユリスは思わずため息をつく。


「俺、王都の中心街なんてほとんど知らないぞ」


「だから行くんじゃない。学院と訓練室と医務室だけが王都じゃないんだよ」


 その言い方に、ユリスは反論できなかった。


 王都アルヴェリアに来てから、ユリスが見てきたものは、白い門と学院の校舎と測定室ばかりだった。


 白い壁。


 閉鎖式測定用結界。


 黒銀色の測定盤。


 医務室の清潔な布と薬草の匂い。


 王都がどんな場所なのかを、ユリスはまだほとんど知らない。


「セリアは?」


「連れてくる」


「本人の意思は?」


「聞いたら断るでしょ」


「それ、いいのか?」


「いいの。セリアは放っておくと休日まで術式のこと考えてるから」


 リナは胸を張った。


「ミレーヌ先生にも言われたんだよ。今日はセリアを休ませなさいって」


「それで中心街に連れ出すのか」


「部屋にいたら休まないから。外に出した方が休む」


「理屈が強引だな……」


「でも合ってるでしょ?」


 ユリスは少し考えた。


 たぶん、合っている。


 セリアは休めと言われても、頭の中では白環の術式を組み立て始める気がした。


 そんな姿が簡単に想像できてしまい、ユリスは小さく笑った。


「分かった。行くよ」


「よし。じゃあ十分後に寮の門ね。セリアを回収してくる」


「回収って言うな」


「だって回収だもん」


 リナは手を振って、軽い足取りで食堂を出ていった。


 ユリスはもう一度、左手を見る。


 白環は静かだった。


 何も起きていない。


 何も起きていないように見える。


 その静けさを胸のどこかに引っかけたまま、ユリスは立ち上がった。


 寮の門の前に行くと、リナはすでに待っていた。


 その隣には、セリアが立っている。


 銀色の髪を背中に流し、いつものように姿勢は綺麗だった。

 けれど、表情には明らかに不満が浮かんでいる。


「ユリス」


「おはよう」


「あなたも共犯なの?」


「いや、俺は巻き込まれた側だ」


「そう」


 セリアはリナを横目で見る。


「私は部屋で休むつもりだったのだけれど」


「部屋で術式紙を広げるつもりだった、の間違いでしょ」


「……確認したいことが少しあっただけよ」


「ほら」


 リナが勝ち誇った顔をする。


 セリアは静かに目を細めた。


「リナ、あなた、最近少し強引になっていない?」


「セリアが無茶するからだよ」


「私は無茶なんて」


「昨日、医務室でミレーヌ先生に実験禁止って言われたよね」


「……覚えているわ」


「じゃあ今日は外に出る。はい決定」


 リナはそう言って、セリアの手首を軽く取った。


 セリアは一瞬だけ抵抗しようとしたが、すぐに諦めたように息を吐いた。


「分かったわ。少しだけよ」


「うん。少しだけ。昼過ぎくらいまで」


「それは少しではないわ」


「王都基準では少し」


「そんな基準はない」


 ユリスは二人のやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 医務室で見たセリアは、いつもより弱って見えた。


 白環を見つめる青い瞳には、安堵よりも違和感があった。


 それが今も消えたわけではない。


 けれど、リナに引っ張られて不満そうにしているセリアは、少なくとも昨日より少しだけ普通の少女に見えた。


 三人は学院の門を出て、王都の中心街へ向かった。


 王都アルヴェリアの中心街は、ユリスの想像よりもずっと賑やかだった。


 白い石畳の道が広く伸び、その両側に店が並んでいる。


 魔術具店。


 焼き菓子の屋台。


 布飾りの店。


 湯気を上げる肉串の屋台。


 瓶詰めの果実水を売る店。


 軒先には小さな魔術灯が吊るされ、昼間だというのに淡い光を揺らしていた。


 ただ照らすためではない。


 看板の文字を浮かび上がらせたり、商品の色を綺麗に見せたり、客の足元を柔らかく照らしたりしている。


 魔法が、生活の中にある。


 ユリスは足を止めかけた。


「すごいな……」


「何が?」


 リナが振り返る。


「いや。魔法って、こういうふうにも使うんだなと思って」


「こういうふう?」


「灯りとか、店とか、人の生活とか」


 ユリスは、屋台の上で回っている小さな風車を見た。


 風もないのに、淡い緑の魔力でゆっくり回っている。


 それにつられて、小さな子供が笑っていた。


「魔法って、壊すものじゃないんだな」


 ぽつりと漏れた言葉に、リナが少しだけ表情を緩めた。


 セリアも横でユリスを見た。


「当たり前でしょう」


 いつものような淡々とした声。


 けれど、そのあとに続いた言葉は少しだけ柔らかかった。


「魔法は本来、人の生活を支えるものよ。明かりを灯し、水を清め、熱を整え、怪我を癒やし、危険から守る。戦うためだけにあるわけではないわ」


「……そうか」


「そうよ」


 セリアは中心街の白い街並みへ視線を向ける。


「……そうであるべきものよ」


 その最後の言葉だけ、少しだけ響きが違った。


 ユリスは何かを聞き返そうとしたが、その前にリナが両手を叩いた。


「はい、難しい話はあと! まず食べる!」


「急だな」


「食べ歩きに来たんだから当然でしょ。ユリス、甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?」


「え、どっちでも」


「一番困る答え!」


「じゃあ、しょっぱいの」


「よし。じゃあ肉串から」


 リナは迷いなく屋台へ向かった。


 焼けた肉の匂いが、通りに広がっている。


 鉄板の上で薄く切られた肉が焼かれ、香草と塩を混ぜた粉が振られていた。

 横には小さなパンが並び、注文すると肉を挟んで紙に包んでくれるらしい。


「三つください」


「俺、払うよ」


 ユリスが言うと、リナは振り返って首を振った。


「今日は私が誘ったから最初は私」


「いや、悪いって」


「じゃあ次はユリスね」


「商売がうまいな……」


「交渉って言って」


 リナは笑いながら肉入りのパンを受け取り、ユリスとセリアへ渡した。


 ユリスは紙包みを受け取る。


 温かい。


 香草の匂いがする。


 かぶりつくと、肉の塩気とパンの甘みが口の中に広がった。


「うまい」


「でしょ?」


 リナが嬉しそうに笑う。


 セリアは少し上品に小さくかじってから、しばらく無言で咀嚼した。


「……悪くないわ」


「セリアの悪くないは、かなりおいしいって意味です」


「勝手に訳さないで」


「じゃあ、おいしくない?」


「そうは言っていないわ」


「ほら」


 リナは得意げだった。


 ユリスは思わず笑った。

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