第42話 綺麗な術式
「ユリス」
セリアの声がした。
ユリスは彼女を見る。
セリアはベッドの上から、まっすぐにこちらを見ていた。
顔色はまだ万全ではない。
それでも、その青い瞳だけは揺れていない。
「火を大きくしようとしないで。灯す結果だけを見ないで。火が灯る前の流れを見るの」
「……分かってる」
「分かっていない顔をしているわ」
「そこまで言うか」
「言うわ。あなた、すぐ結果に怯えるもの」
リナが横から口を挟む。
「セリア、言い方」
「事実よ」
「事実でも言い方ってあるの」
ユリスは、少しだけ笑いそうになった。
息がしやすくなる。
杖先へ意識を向ける。
灯火。
火を灯す。
違う。
火を灯したい、ではない。
小さく、そこに火がある状態を作る。
大きくなくていい。
強くなくていい。
何も壊さなくていい。
杖先に赤い魔力が集まった。
いつもなら、その時点で何かがずれる。
術式の線がうまく噛み合わない。
火になるはずの魔力が、火になる前に別の形へ曲がる。
焦りが結果だけを引き寄せる。
だが、今日は違った。
ずれかけた瞬間、左手の白環がかすかに光った。
音はない。
衝撃もない。
ただ、杖先へ向かう魔力の裏側で、余った何かがすっと抜けた。
どこかへ暴れるのではなく、指輪の内側へ沈む。
赤い光が、小さく揺れる。
次の瞬間、杖先に小さな火が灯った。
灯火。
何の変哲もない、基礎魔法。
けれど、ユリスは息を忘れた。
床は軋まない。
壁の結界線も光らない。
薬棚の瓶も震えない。
誰も痛がらない。
ただ、杖先に小さな火がある。
それだけだった。
「……できた」
ユリスの声は、ほとんど息のようだった。
リナが目を丸くする。
「すごい……本当に、何も起きてない」
ミレーヌも慎重に周囲を確認していた。
「医務室の保護結界にも、目立った反応はないわ。魔力圧も安定している」
ユリスは、杖先の火を見つめた。
小さい。
弱い。
ただの灯火。
でも、それが今は信じられないほど遠いものに思えた。
「俺……今、ちゃんとやれたんですか」
誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。
エルディスは、穏やかにうなずいた。
「少なくとも、今の発動は安定していた。周囲への影響も抑えられている」
「周囲に……」
「白環が、流れようとした余剰を抑えた」
エルディスは淡々と言った。
「君が完全に制御した、とはまだ言わない方がいい。だが、制御のための余地は生まれた。恐怖で止まっているより、ずっと良い」
完全に制御したわけではない。
その言葉に、ユリスは少しだけ胸を刺された。
けれど、同時にほっとしていた。
完全ではない。
でも、何も壊れなかった。
それだけで、今は十分すぎた。
「ありがとうございます」
ユリスは、深く頭を下げた。
エルディスは微笑む。
「礼を言うのは早い。道具は使い方を誤れば危険にもなる。白環にも限界はある。」
「はい」
「熱を持つ、痛みが返る、指輪の光が濁る。そうした兆候があれば、すぐに魔法の使用を中止するんだ」
ユリスはうなずいた。
リナが少し安心したように笑う。
「よかったね、ユリス。これで少しは練習できるかも」
「あ、ああ……うん」
ユリスはもう一度、白環を見る。
白い指輪は静かだった。
まるで何もしていないかのように。
セリアだけが、黙ってそれを見つめていた。
エルディスは、セリアの視線に気づいたように顔を向けた。
「ノルフェイン嬢」
「はい」
「君なら、その指輪の術式にも興味を持つだろうね」
「……ええ。とても」
「だが、今日は休みなさい。ルクレール先生に叱られる」
ミレーヌがすぐに言った。
「叱ります」
エルディスは小さく笑った。
「ほらね」
セリアは不満そうに口を閉じた。
その顔が少しだけ子どもっぽく見えて、リナがくすりと笑う。
エルディスは踵を返した。
「では、私はこれで失礼する。フォルク君、白環は一時的に君へ預ける。レイヴァン学長へは私から伝えておこう。」
「分かりました」
エルディスは扉の前で立ち止まり、振り返った。
「君の力は、危険だ」
その声は、先ほどまでと同じく穏やかだった。
「だが、危険だからこそ、目を逸らしてはいけない。見えないものは、制御できない。君自身が、自分の魔法を見なさい」
ユリスは返事を探した。
けれど、うまく言葉が出なかった。
だから、ただうなずいた。
エルディスは満足したように微笑み、医務室を出ていった。
扉が静かに閉まる。
しばらく、誰も声を出さなかった。
杖先の火は、もう消えている。
それでもユリスの中には、まだ小さな明かりが残っているような気がした。
何も壊さずに、魔法を使えた。
その事実が、胸の奥をじんわりと温めていた。
「……すごいな」
ユリスはぽつりと言った。
「本当に、何も起きなかった」
リナが大きくうなずく。
「うん。すごかった。私、ちょっと泣きそうになったもん」
「泣くほどか?」
「泣くほどだよ。ユリス、ずっと怖そうだったから」
その言葉に、ユリスは何も返せなかった。
怖かった。
たぶん、自分で思っていたよりもずっと。
ミレーヌは白環を見ながら、考え込むように腕を組んだ。
「管理局の技術ね……。たしかに医務室の保護結界には負荷が流れていない。見事なものだわ」
セリアは黙っていた。
ベッドの上で、指先を膝の上に置いたまま、じっとユリスの左手を見ている。
「セリア?」
ユリスが呼ぶと、セリアはゆっくりと顔を上げた。
青い瞳に、安堵はなかった。
怒りでもない。
もっと別の、細い違和感のようなものが宿っている。
「……綺麗すぎるわね」
「え?」
ユリスは聞き返した。
セリアは白環に視線を落とす。
「その指輪の術式よ。反動を受け止めるだけなら、あそこまで流れを整える必要はない」
「どういうことだ?」
「まだ分からないわ」
セリアは小さく息を吐いた。
そして、少しだけ眉を寄せる。
「でも、ただ吸収しているだけにしては、綺麗すぎる」
ユリスは自分の指輪を見た。
白環は、変わらず静かだった。
何も語らない。
何も要求しない。
ただ、白く、滑らかに、ユリスの指に収まっている。
その静けさが、さっきより少しだけ違って見えた。
――王都結界管理局の執務室で、エルディスは白銀色の測定板を見下ろしていた。
淡い赤の反応。
灯火の記録。
基礎魔法としては、あまりに小さな発動だった。
だが、その線の奥に、別の色が混じっている。
灰白。
火が灯ったあとではない。
灯る前だ。
エルディスは、しばらくその一点を見つめていた。
「……発動前に、反応がある」
呟きは、静かな部屋に溶けた。
測定板の端で、白い輪のような術式がかすかに瞬く。
エルディスはそれを指先でなぞり、薄く微笑んだ。
「なるほど」
それ以上は言わなかった。
窓の外では、王都の魔術灯がひとつずつ灯り始めている。
その光は、いつもと変わらず穏やかだった。




