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第41話 白塔の贈り物

 医務室には、薬草と清潔な布の匂いが薄く残っていた。


 窓から差し込む午後の光は柔らかく、白いカーテンを通って、部屋全体を淡く照らしている。


 セリアはまだベッドの上にいた。


 上半身を少し起こし、背中には枕が当てられている。

 顔色は先ほどより戻っていたが、いつものような張り詰めた鋭さは少しだけ薄い。


 リナはベッド脇の椅子に座り、何度目か分からないため息を吐いた。


「もう、本当に心配したんだからね、セリア」


「大げさよ。倒れたわけではないわ」


「倒れかけたの。そこ、誤差じゃないから」


 リナがむっとして言うと、セリアはわずかに目を伏せた。


「……迷惑をかけたわね」


「迷惑じゃないよ。心配したの」


 その言葉に、セリアはすぐには返事をしなかった。


 ユリスは、少し離れた場所に立っていた。


 医務室の壁際。

 邪魔にならない位置。

 けれど、すぐに声をかけられる距離。


 自分がそこにいていいのか、まだ分からなかった。


 セリアが倒れかけた原因は、彼女自身の無理だけではない。


 ユリスの魔法。


 願った結末へ、過程を飛び越えて到達してしまう力。


 セリアはそれを、結果補完ではなく、結末到達と呼んだ。


 その名前は、まだユリスの胸の奥に重く残っている。


 結末到達(エンドリーチ)


 願った通りの事象を引き起こす力。


 そう聞けば、便利な魔法のように思える。


 だが、ユリスは知っている。


 結果が成功しても、その裏側で何かが壊れる。


 負荷は消えない。


 それがどこへ向かうのか、自分には分からない。


 だから怖かった。


 灯火(ライト)ひとつ灯すことさえ、今のユリスには簡単ではない。


 火がつけば成功。


 けれど、その成功の裏側で、床が軋むかもしれない。

 壁の結界線が歪むかもしれない。

 誰かの体に負荷が流れるかもしれない。


 そう考えるだけで、杖を握る手に余計な力が入る。


 ミレーヌは、セリアの脈を確かめてから、ようやく小さく息を吐いた。


「うん。魔力回路の乱れは落ち着いてきているわ。無理をしなければ、今日はもう大丈夫」


「ありがとうございます、ミレーヌ先生」


 セリアが礼を言うと、ミレーヌは少しだけ目を細めた。


「ただし、繰り返すようですが、今日はもう魔法の使用は禁止ですからね。分かった?」


「……分かりました」


「その間は今、長すぎたわね?」


「分かりました」


 リナが横でうなずく。


「先生、もっと言ってください。セリア、放っておくと絶対また何か考え始めるから」


「リナ」


「だって本当でしょ?」


 セリアは反論しようとして、すぐに諦めたように口を閉じた。


 そのやり取りを見て、ユリスは少しだけ肩の力が抜けた。


 セリアが返事をしている。


 リナが怒っている。


 ミレーヌ先生が呆れている。


 そのどれもが、当たり前のように見えて、今は少しだけありがたかった。


 そのときだった。


 医務室の扉が、控えめに叩かれた。


 ミレーヌが振り返る。


「どうぞ」


 扉が開く。


 入ってきたのは、見慣れない男だった。


 年齢は、学長より少し若いくらいだろうか。

 背は高く、姿勢がよい。

 濃紺の長衣には、白い塔を囲む三本の線に似た紋様が細く刺繍されている。


 ただ、学院章とは違う。


 線の形が、より硬い。


 飾りではなく、何かを測り、囲い、流すための印のように見えた。


 男の髪は灰を含んだ銀色で、後ろへ静かに撫でつけられていた。

 瞳は薄い灰青。

 柔らかく微笑んでいるのに、その奥だけは静まり返った水面のようで、どこまで深いのか分からない。


 ミレーヌは男を見て、小さく会釈した。


「エルディス局長。わざわざ医務室まで?」


「突然すまない、ルクレール先生。学長から、少し様子を見ても構わないと許可をいただいている」


 局長。


 その言葉に、ユリスは思わず背筋を伸ばした。


 セリアもわずかに目を細める。


 ミレーヌは、ユリスたちに向き直った。


「紹介するわ。こちらはエルディス・ヴァロウ氏。王都結界管理局の局長を務めていらっしゃる方よ」


 王都結界管理局。


 その名前は、ユリスでも聞いたことがあった。


 王都アルヴェリアを守る白塔式都市結界。


 その維持、管理、修復、監視を担う組織。


 王都の安全そのものに関わる場所。


 ユリスは慌てて頭を下げた。


「ユリス・フォルクです」


「知っているよ」


 エルディスは穏やかに言った。


 その言葉に、ユリスは顔を上げる。


「君の測定結果については、レイヴァン学長から聞いている。もちろん、必要な範囲だけだがね」


 学長から。


 ユリスの喉が、少し詰まった。


 自分のことが、学院の外にまで伝わっている。


 それは当然なのかもしれない。


 測定室の結界に負荷を発生させた。

 学長立ち会いの追加測定まで受けた。

 普通の生徒として扱えないことは、自分でも分かっている。


 それでも、胸の奥が落ち着かなかった。


 エルディスは、そんなユリスの反応を責めるでもなく、ゆっくりと歩み寄った。


「怖がらせるつもりはない。今日は、君を咎めに来たわけではないから」


「……俺を、ですか?」


「ああ」


 エルディスの視線が、ユリスの手元に落ちる。


 そこには、学院標準杖があった。


 ただの基礎課程用の杖。


 特別な補助性能はない。

 属性に偏らず、生徒本人の力を見るためのもの。


 ユリスにとっては、それだけでも重かった。


 杖を持つだけで、自分が何かを発動してしまうのではないかと、どこかで身構えてしまう。


「君の魔法は、非常に珍しい反応を示す」


 エルディスは言った。


「珍しい、というより、今の学院の分類ではまだ扱いきれない反応と言った方が正確かもしれない」


 セリアの青い瞳が、わずかに動いた。


 ユリスは息を呑む。


 名前。


 つい先ほど、セリアが与えた名前が頭をよぎる。


 結末到達(エンドリーチ)


 エルディスは続けた。


「発動そのものよりも、発動に伴って生じる余剰の流れが問題になる。君自身も、それを恐れているのだろう?」


「……はい」


 ユリスは小さく答えた。


 否定できなかった。


 エルディスは懐から、小さな箱を取り出した。


 白銀色の箱だった。

 表面には、白塔を思わせる縦線と、それを囲む三重の円が刻まれている。


 箱が開かれる。


 中に入っていたのは、指輪だった。


 銀に近い白い金属で作られている。

 派手な宝石はない。

 ただ、内側に細かな術式がびっしりと刻まれていた。


 ユリスには読めない。


 だが、セリアの視線が一瞬で鋭くなった。


「これは?」


 セリアが尋ねる。


 エルディスは微笑んだ。


「反動吸収補助具だ。正式名称は長いが、管理局では白環と呼んでいる」


「白環……」


 リナが小さく繰り返した。


 エルディスは指輪を箱から取り出し、ユリスへ差し出した。


「都市結界の技術を、個人用に簡略化したものだ。魔法発動に伴う余剰を、一定量だけ抑える。もちろん万能ではない。強すぎる魔法や、連続使用には耐えられない。だが、間違いなく、君の負担を減らせるはずだ」


 ユリスは指輪を見つめた。


 綺麗な指輪だった。


 装飾品というより、精密な道具に見える。


 白い金属の内側に刻まれた術式は、細かすぎてただの模様にしか見えない。

 けれど、見ているだけで、そこに何かが流れる余地があると分かる。


「俺が、使っていいんですか」


「そのために持ってきた」


「でも、こんなもの……」


 ユリスは言葉を失った。


 怖かった。


 だが、それ以上に、欲しいと思ってしまった。


 自分の魔法が、誰かを傷つけずに済むかもしれない。


 灯火を灯しても、床が軋まないかもしれない。


 失敗したはずの過程が、どこかに負荷として逃げてしまう前に、この指輪が受け止めてくれるかもしれない。


 その可能性に、胸が揺れた。


 エルディスは静かに言う。


「君に必要なのは、魔法を使わないことではない。使ったときに何が起きるのかを知ることだ。恐怖だけでは、魔法は制御できない」


 その言葉は、優しかった。


 少なくとも、ユリスにはそう聞こえた。


 ミレーヌも、少しだけ表情を和らげている。


「局長の許可があるなら、医務室内で軽い確認くらいはできるわ。ただし、本当に灯火(ライト)程度よ。セリアも観察しすぎない。リナは近づきすぎない。ユリスは無理をしない」


「はい」


 ユリスはうなずいた。


 エルディスから指輪を受け取る。


 手に乗せると、思っていたよりも軽かった。


 冷たい。


 けれど、不快な冷たさではない。

 白い石の床に触れたときのような、澄んだ温度だった。


 ユリスは左手の指に白環をはめた。


 その瞬間、指輪の内側で細い光が走った。


 白い光。


 すぐに消える。


 痛みはなかった。


 ただ、手の奥に薄い輪が通ったような感覚が残る。


「……今のは?」


「同調だよ」


 エルディスが答える。


「君の魔力反応を読み取った。無理に干渉するものではない。発動時に生じる余剰へ、受け皿を開くための準備だ」


「受け皿……」


 ユリスは自分の指を見る。


 白環は、最初からそこにあったかのように静かだった。


「やってみなさい」


 エルディスが言った。


灯火(ライト)を」


 ユリスは学院標準杖を握り直した。


 途端に、胸の奥が重くなる。


 灯火(ライト)


 村でも何度も使った基礎魔法。


 小さな火を灯すだけ。


 だが、今は違う。


 火を灯すだけでは済まないかもしれない。


 結果だけが成立し、過程の失敗がどこかへ逃げる。


 それが怖かった。


 杖先を少し持ち上げる。


 医務室の床。


 白い壁。


 薬棚。


 ベッドの上のセリア。


 隣にいるリナ。


 ミレーヌ先生。


 エルディス。


 その全部が、妙にはっきり見えた。

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