第38話 家伝結界
ユリスは、動けなかった。
目の前で子供が落ちかけている。
今にも水路の奥へ引き込まれそうになっている。
それなのに、足が地面に縫い止められたように動かない。
ここは訓練室ではない。
閉鎖式測定用結界も、床の分散層もない。
自分が何かを起こせば、その分どこかが壊れる。
今日一日、ずっとそれを見てきた。
壊れた導管。
揺れる魔術灯。
継ぎ足された生活結界。
中心では見えない負荷が、ここには残っている。
その上に、自分の反動まで押しつけるのか。
そう思った瞬間、胸の奥が沈んだ。
怖い。
また間違えるかもしれない。
助けたつもりで、別の何かを壊すかもしれない。
そう思った。
けれど。
子供の小さな手が、精一杯に橋の縁を掴んでいるのを見た瞬間、別の手を思い出した。
ニナの手。
倒れてきた木の下で、こちらに向かって伸ばされた小さな手。
助けたはずなのに、傷つけてしまった手。
あの日、自分は間違えた。
結果だけは成功した。
でも、成功とは呼べなかった。
だからといって。
今、見ているだけなら。
それは、もっと違う。
「……見てるだけなんていられるかよ」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
けれど、足は動いた。
「ユリス!」
リナの声が背中に刺さる。
「フォルク、止まれ!」
ガルディアの怒声が飛んだ。
ユリスは止まらなかった。
水路へ向かって走る。
石畳が濡れている。
足が滑りそうになる。
リーゼルの防護結界の端を抜けた瞬間、全身に外周区の乱れた魔力がまとわりつくような感覚があった。
重い。
空気が重い。
訓練室で魔法を使うときとは違う。
ここには、魔力の逃げ道がない。
いや、逃げ道はある。
けれど、それは誰かの家へ繋がる導管であり、古い水路であり、外周区の石畳だった。
子供がこちらを見る。
涙で濡れた目が、ユリスを見た。
「たすけ……」
声が最後まで続かなかった。
水路の光が強くなる。
子供の体が、縁から離れかける。
ユリスは手を伸ばした。
届かない。
どう見ても届かない。
風魔法では、水路の渦に巻かれる。
補助魔法は届かなかった。
ガルディアは導管を押さえている。
リーゼルは生徒を守っている。
レオンの火力は使うことができない。
なら。
自分がやるしかない。
「ユリス、あの子だけを見なさい!」
セリアの声が響いた。
ユリスは走りながら振り返りかけた。
セリアは、水路の手前に立っていた。
杖を抜いていない。
両手を胸の前へ上げている。
親指と人差し指を重ねるようにして、空中に小さな三角形を作っていた。
その隙間に、白銀の光が灯る。
その光を見た瞬間、リーゼルの表情が変わった。
「あれは……ノルフェイン家の家伝結界……」
防護結界を維持したまま、リーゼルは小さく息を呑む。
「守護、誘導、封止を同時に定める三重結界。彼女、あの年齢で発動できるのね……」
ユリスの視界の端にも白銀の光が入る。
「セリア、何を――」
「反動は、私が引く!」
「無理だ、ここは訓練室じゃない!」
「だから、私の全力を使うのよ!」
セリアの声に、迷いはなかった。
けれど、余裕もなかった。
その青い瞳は、ユリスではなく、水路と子供と外周区の導管を同時に見ていた。
「あなたは、あの子だけを見て!」
ユリスの胸の中で、何かが決まった。
助ける。
それだけを見る。
全部を無傷で済ませようとするな。
何も壊さないことを願うな。
今、壊してはいけないものを間違えるな。
子供を。
あの子だけは。
落とさない。
「第一界、守護」
セリアの声が、水路の上に走った。
一本目の白線が、子供の体を囲む。
濁った水路の光が、その線に触れて弾かれた。
「第二界、誘導」
二本目の白線が、水路の奥へ伸びる。
使われていない古い排水路。
今は閉じられ、生活導管とは切り離されているはずの空洞へ、白い線が深く突き刺さる。
「第三界、封止」
三本目の白線が、外周区の家々へ広がろうとしていた濁った魔力の前に走った。
水路の上に、白い三角形が開く。
それは壁ではなかった。
ただ受け止める結界でもなかった。
守る場所。
逃がす場所。
広げてはいけない場所。
その三つを同時に定める線だった。
「白塔三界」
セリアの声とともに、三本の線が一気に輝いた。
ユリスは手を伸ばす。
届かない。
届くはずがない。
けれど、願った。
あの子を、こちら側へ。
水路の奥ではない。
濁った結界の中でもない。
こちら側へ。
風は吹かなかった。
光も飛ばなかった。
水も跳ねなかった。
ただ、落ちるはずだった子供の体だけが、落ちなかった。
次の瞬間、世界が帳尻を合わせようとした。
水路の底で、古い結界線が一斉に鳴った。
音ではない。
けれど、そこにいた全員の背骨へ響くような軋みだった。
石畳に白い亀裂が走る。
魔術灯が昼間だというのに激しく明滅する。
導管の継ぎ目から、濁った魔力が吹き出しかける。
そのすべてが、セリアの第二界へ吸い寄せられた。
白い線が反動を引く。
水路奥の古い排水路へ、ユリスの結果補完が生んだ負荷が流れ込む。
空の排水路が、内側から砕けた。
低い破裂音が、地面の下で連続する。
それでも、まだ足りない。
「第三界が……押される……!」
セリアの声が震えた。
三本目の白線が、外周区の家々へ向かう濁流の前で軋んでいる。
第一界は子供を守っている。
第二界は反動を逃がしている。
だが、逃がしきれなかった負荷が、第三界を押し広げようとしていた。
セリアの肩が震える。
制服の袖口から覗く指が、白くなるほど力んでいた。
「セリア!」
ユリスは叫んだ。
「いい! 戻せ!」
「まだ!」
セリアは歯を食いしばった。
「第三界が戻りきっていない……ここで緩めたら、家の方へ流れる!」
「でも、お前が――」
「倒れないわよ!」
セリアの声が、初めて怒ったように響いた。
「あなたがあの子を落とさなかったんでしょう! なら、私が外周区へばらまかせない!」
その言葉に、ユリスの息が止まった。
子供の体が、こちら側の石畳へ転がり込む。
リナがすぐに駆け寄った。
「大丈夫!? 息できる!? 痛いところは?」
淡金色の光が、子供の体を包む。
子供は泣きながら頷いた。
生きている。
落ちなかった。
助かった。
それを見た瞬間、ユリスの胸の奥が揺れた。
けれど、安堵するには早かった。
セリアの白線が、まだ軋んでいる。
レオンが動いた。
火属性の魔力ではなかった。
彼は杖先に小さく赤い光を灯し、足元の石畳へ叩きつけるようにして自分の魔力を押さえ込んだ。
「グランフィール!」
ガルディアが叫ぶ。
「火力は入れない!」
レオンは歯を食いしばりながら言った。
「熱に変えない。圧だけを殺す。セリア嬢、第三界の右側が浮いている!」
「分かっているわ!」
「分かっていて、それか!」
「うるさいわね、黙って支えなさい!」
セリアの返しに、レオンが一瞬だけ目を見開いた。
こんな状況でなければ、誰かが驚いていたかもしれない。
だが今は、それどころではなかった。
レオンの魔力が、第三界の手前で反動の圧をわずかに押さえる。
火にしない。
炎にしない。
ただ、大きすぎる圧が白線を押し切らないよう、正面から受ける。
正しい術式で大出力を扱うレオンだからできる、乱暴ではない力の使い方だった。
そのわずかな隙に、セリアが三本目の線を戻す。
「第三界、封止――固定!」
白線が閉じた。
濁った魔力が、家々の方へ広がる直前で止まる。
残った反動は、第二界を通って古い排水路へ流れ切った。
地面の下で、最後の鈍い音が響いた。
それきり、水路の光はゆっくりと弱まっていった。
魔術灯の明滅が収まる。
導管の膨張も止まる。
ガルディアが杖を下ろした。
リーゼルの防護結界が、淡く消えていく。
外周区の道に、静けさが戻った。
ただ、崩れた橋と、砕けた石畳と、奥で潰れた古い排水路だけが残っていた。




