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第35話 半分だけ

 外周区。


 そこには、人が住んでいる。

 水路があり、石畳があり、魔術灯があり、小さな子供が歩く道がある。


 その全部が、訓練室の床のように都合よく守られているわけではない。


「明日、外で同じことが起きたら……」


 ユリスの声は、自分でも驚くほど小さかった。


 セリアはすぐには答えなかった。


 白線封鎖ホワイト・ライン・シールの光が、石板のひびに沿って淡く残っている。


「だから、今日見たのよ」


 やがてセリアは言った。


「見ないまま明日を迎えるより、ずっといい」


「でも、まだ選べてない」


「ええ」


「止められてもいない」


「そうね」


「それで、外に出ていいのか」


 ユリスはセリアを見た。


 問い詰めるつもりではなかった。


 ただ、本当に分からなかった。


 自分が外で魔法を使っていいのか。

 誰かを助けたいと思ったとき、使ってしまっていいのか。

 結果だけが成功して、その裏で別のものが壊れるなら、自分はどうすればいいのか。


「使わない、という選択もあるわ」


 セリアは静かに言った。


 ユリスの胸が、少し沈む。


「でも、使わなければ守れないものもある」


 その言葉に、ユリスは顔を上げた。


 セリアは石板から手を離し、まっすぐユリスを見ていた。


「だから、見なさい。明日は、結果だけを見ないで」


 青い瞳が、夕方の光の中で澄んで見えた。


「動かすものだけを見ない。助けたい相手だけを見ない。地面も、壁も、水路も、人の足元も見るの」


「そんなに全部、見られるかな」


「今は無理ね」


「はっきり言うな……」


「でも、今日よりは見えるわ」


 セリアは床に置かれた羽根、紙片、木札、砂箱、石板を順に見た。


「羽根一枚の反動を見た。紙片の逃げ道を見た。木札を動かしたとき、石板が傷つく瞬間も見た」


 そして、少しだけ声を柔らかくした。


「何も見えなかった昨日とは違うわ」


 ユリスは黙った。


 昨日。


 いや、もっと前から。


 自分はずっと、結果しか見ていなかった。


 成功した。

 助かった。

 壊れた。

 間違えた。


 その後ろにあるものを、怖くて見られなかった。


 でも今日は、ほんの少しだけ見えた。

 自分の魔法が、どこを傷つけようとしたのか。


 それは怖かった。


 けれど、見えないままでいるよりは、ずっとましだった。


「もう一回、やる」


 ユリスは言った。


 セリアがわずかに目を見開く。


「まだ続けるの?」


「十項目やれって言ったのはセリアだろ」


「十項目同時に見てほしい、と言っただけよ。今日中に全部やれとは言っていないわ」


「じゃあ、一つ増やす」


 ユリスは杖を握り直した。


「砂箱へ流すところまで、自分でやってみたい」


 セリアは少しだけ黙った。


 それから、小さく息を吐く。


「無茶ね」


「知ってる」


「失敗するかもしれないわ」


 ユリスは苦笑した。


「俺がそれを言われるの、変な感じだな」


「ええ。だから言ったの」


 セリアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「でも、いいわ。もう一度だけ」


 セリアは新しい紙片を床へ置いた。


 欠けた石板は少し離す。

 砂箱はユリスの正面。

 白い針を打つ位置は、あえて空けてある。


 今度も、最初からセリアが針を打つのではない。


 ユリスが見つけ、ユリスが呼ぶ。

 セリアは、最後に止めるだけ。


 それが分かった瞬間、緊張で胃のあたりが重くなった。


 けれど、逃げたいとは思わなかった。


 ユリスは杖を向ける。


 紙片、砂箱、床の傷、石板、壁際の継ぎ目。

 窓から差し込む光。

 自分の呼吸。

 セリアの白銀色の魔力。


 全部が、一度に目に入る。


微風(ブリーズ)


 魔力が流れた。


 紙片が動こうとする。


 結果が先に立ち上がる。


 違う。

 まだ早い。


 ユリスは紙片の下を見る。


 空気の流れ、足りない風、逃げようとする反動。

 床の傷へ向かうそれを、石板でも壁でもなく、砂箱へ向けなければならない。


 そこへ行くな。


 砂箱へ。


 ユリスは杖先をわずかに下げた。


 魔力を押すのではない。


 呼ぶ。


 流れを、そちらへ向ける。


 床の傷へ落ちかけた反動が、ほんの少しだけ曲がった。

 砂箱へ向かう。

 だが、途中で乱れる。


「今」


 セリアの声。


 ユリスは息を止めた。


 白い光が視界の端で走る。


 境界針(リミナル・ニードル)


 セリアが打った針に、ユリスが曲げかけた反動が吸い寄せられた。


 砂箱の中で、砂が跳ねる。


 紙片が半歩分だけ動いて、床に落ちた。


 今度は、床も石板も鳴らなかった。


 沈黙。


 ユリスはしばらく、その場から動けなかった。


「……できたのか」


「半分ね」


「半分か」


「あなたが見つけて、少しだけ呼んだ。最後に流したのは私の境界針よ」


「十分じゃないのか」


「今日としては十分。明日としては足りない」


「やっぱり厳しいな」


「必要な厳しさよ」


 セリアはそう言って、砂箱へ視線を落とした。


 跳ねた砂は、中央から右側へ偏っている。

 反動が完全に均等に流れたわけではない。

 けれど、少なくとも床の傷や石板には逃げなかった。


 ユリスは、ようやく息を吐いた。


 体が重い。


 授業の疲れとは違う疲れだった。


 魔力を使った疲れだけではない。

 見たくないものを見た疲れ。

 自分の魔法の裏側を、自分の目で追った疲れ。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


「明日」


 ユリスはぽつりと言った。


「外周区で、俺が何かを動かさなきゃいけなくなったら」


「そのときは、まず見る」


 セリアが答える。


「それでも間に合わなかったら?」


「私が線を引くわ」


「セリアでも間に合わなかったら?」


 その問いに、セリアは一瞬だけ黙った。


 けれど、目は逸らさなかった。


「そのときは、壊していいものを選ぶ」


 ユリスは胸の奥が少し痛んだ。


 怖い答えだった。


 でも、嘘ではなかった。


 何も壊さないと言われるより、ずっと信じられた。


「床は直せるわ」


 セリアが静かに言った。


「壁も、水路も、石板も。時間はかかるし、費用もかかるけれど、直せる」


 そこで、声が少しだけ低くなる。


「でも、人は同じようには直せない」


 ユリスは何も言えなかった。


 その言葉は、ずっと先まで残る気がした。


 壊れてもいいものなんて、本当はないのかもしれない。


 それでも、壊してはいけないものはある。


 なら、選ばなければならない。


 結果だけで済ませないために。


「明日、外周区で見るべきものを忘れないで」


 セリアは言った。


「魔術灯の光だけを見ない。水路の流れだけを見ない。補修された壁だけを見ない」


「その裏を見るんだな」


「ええ。どこが削れて、どこが軋んで、どこが代わりに傷ついているのかを見るの」


 ユリスは、床に落ちた白い羽根を見た。


 羽根一枚を動かすだけで、石板にひびが入る。


 なら、外で人を動かしたら。

 水を押し戻したら。

 瓦礫をどかしたら。


 何が代わりに傷つくのか。


「……分かった」


 ユリスは杖を腰に戻した。


「明日、ちゃんと見る。結果だけじゃなくて、その外側も」


 セリアは小さく頷いた。


「それが、外周区実習よ」


 小訓練室の外では、夕方の光がさらに薄くなっていた。


 明日の朝には、外周区へ向かう。


 訓練室の床ではない場所。

 反動線が都合よく引かれていない場所。

 壊れかけたまま、人の生活を支えている場所。


 怖くないと言えば嘘になる。


 けれど、ユリスはもう、見えないふりをしたいとは思わなかった。


 床に落ちた白い羽根が、窓から入ったかすかな風に揺れる。


 今度は、本物の風だった。


 ユリスはその小さな動きを見て、静かに息を吐いた。

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