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第34話 呼ぶ

「もう一度やるわ」


 セリアが言った。


 ユリスは思わず顔を上げる。


「今のをもう一回か」


「次は紙片よ。羽根より少しだけ重い。空気の流れも変わる」


「休憩は?」


「必要?」


「気持ちの上では必要だ」


「なら十秒」


「短いな」


「九秒になったわ」


「いや、増やせよ……」


 セリアは涼しい顔で紙片を床へ置いた。


 ユリスは息を吐いた。


 怖さはある。


 でも、さっき見えたものが頭から離れなかった。


 羽根の下に足りなかった風。

 床の傷へ逃げようとした反動。

 セリアの境界針(リミナル・ニードル)に引かれ、砂箱へ流れた小さな負荷。


 初めて、自分の魔法の裏側を見た気がした。


 成功の裏側。


 間違いの行き先。


 それを見なければ、きっとまた何かを傷つける。


「……分かった」


 ユリスは杖を構え直した。


「やる」


 セリアは少しだけ目を細めた。


「いい返事ね」


「今日は何回それを言う気だ」


「言えるうちに言っておくわ。あなた、すぐ嫌な顔をするから」


「今してるだろ」


「ええ。だから貴重なの」


 そう言って、セリアは床に指先を添えた。


 白銀色の魔力が薄く広がり、紙片の周囲に小さな未決結界アンディサイド・フィールドが形作られる。


「今度は、結果が確定する前に自分で探して」


「探す?」


「反動が行きたがる場所よ。私が針を打つ前に、あなたが言うの」


 ユリスは紙片を見る。


 薄い紙。

 羽根よりは重いが、それでも軽い。


 さっきセリアは、これを結界標識や巡回札の見立てだと言っていた。


 ただの紙片として見れば、風で少し動いたところで大したことはない。

 けれど、外周区の標識だと思った途端、その軽さが少し怖くなる。


「これが動くと、何が困るんだ?」


「本来あるべき場所からずれれば、修繕担当者が線を読み違える。水路の補修位置を間違えることもある。魔術灯の導管だと思って触れた場所が、実際には排水結界の逃がし口だった、ということも起きるわ」


「……ただの紙じゃないんだな」


「ただの紙でも、場所によっては意味を持つわ」


 ユリスは紙片を見る目を少し変えた。


 軽くて薄くて、風で動きそうなもの。


 でも、そこにあることに意味があるなら、勝手に動かしていいものではない。


微風(ブリーズ)


 杖先に魔力を流す。


 今度は、すぐに結果を追わないようにした。


 紙を動かす。


 そう考えた瞬間に、結果が先に立ち上がろうとする。

 紙片が動いた後の光景が、頭の中で勝手に形になる。


 違う。


 そこじゃない。


 ユリスは奥歯を噛んだ。


 風になる前を見る。

 空気が押される前を見る。

 紙が動く前に、何が紙の下へ入り込もうとしているのかを見る。


 紙片の端が浮いた。


 その下に、本来なら生まれるはずの風の薄い流れがある。


 だが、やはり足りない。


 足りないまま、紙だけが動こうとする。

 不足分が床へ落ち、今度は床の傷ではなく、紙片の左に置かれた欠けた石板の縁へ吸い寄せられていく。


「石板の端」


 ユリスは言った。


 セリアの指が動く。


境界針(リミナル・ニードル)


 白い針が石板と砂箱の間に打たれる。


 紙片がふわりと動き、半歩分だけ滑った。


 反動は一瞬、石板へ向かった。

 しかし白い針に引かれ、砂箱の方へ曲がる。


 砂がさっきより少し強く跳ねた。


 同時に、石板の端がかすかに鳴った。


 ぴし、と小さな音。


 ユリスの肩が跳ねる。


「今、石板が」


「わずかに触れたわね」


 セリアは石板を見つめた。


 欠けた縁に、髪の毛ほどの細いひびが伸びていた。


「止めきれてない」


「当然よ。今のあなたは、反動の行き先を見つけただけ。選べてはいない」


「選ぶって……どうやって」


「見つける。呼ぶ。流す。その順番よ」


 セリアは立ち上がった。


「今は、見つけた。次は呼ぶ」


「反動を?」


「ええ。そちらへ行くな、では足りないわ。こちらへ来い、と道を作る必要がある」


 ユリスは砂箱を見る。


 壊れていい場所。


 いや、壊していいと決めた場所。


 その違いが、少しだけ胸に引っかかった。


「壊していいものを先に決めるのか」


「そうよ」


 セリアははっきりと言った。


「壊してはいけないものを守るために」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、ユリスの中に深く残った。


 何も壊さないことが成功ではない。

 壊れるものを選ぶ。


 それは、怖い考え方だった。


 でも、何も選ばずに弱い場所へ押しつけるより、ずっとましなのかもしれない。


「次は木札よ」


 セリアが言った。


 床に置かれた小さな木札。


 セリアはそれを、古い水路の蓋の見立てだと言っていた。


 羽根や紙片より重い。

 けれど、手で持てば軽いものだ。

 学院の備品に使われるような、薄い長方形の札。


 セリアはその下に、欠けた石板を敷いた。


「水路の蓋の下に、石畳か」


「ええ。足場も導管も、外から見えるほど分かりやすく傷んでいるとは限らないわ」


「嫌な想像をさせるな」


「明日はもっと嫌なものを見るかもしれないわ」


 ユリスは何も言えなくなった。


 セリアは木札の横に砂箱を置き直す。


「木札を半歩分動かす。石板には反動を入れない。砂箱へ逃がす」


「つまり、水路の蓋を動かして、足場を壊さず、余白に逃がす」


「そう」


「……課題としては小さいのに、嫌な重さがあるな」


「外周区では、小さいものが人を支えているの」


 その言葉に、ユリスは木札を見る。


 ただの木札。


 けれど、水路の蓋だと思えば話は変わる。

 誰かがその上を歩くかもしれない。

 子供が乗るかもしれない。

 荷車が通るかもしれない。

 それが少し動いただけで、足場が崩れるかもしれない。


微風(ブリーズ)でやるんだよな」


「ええ」


微風(ブリーズ)って、こんなに怖い魔法だったか?」


「魔法が怖いのではないわ」


 セリアは淡々と答えた。


「結果だけ見て、周りを見ないことが怖いの」


 ユリスは杖を握り直した。


 木札を動かす。

 ただそれだけ。


 でも、その下の石板を壊さない。

 反動を砂箱へ逃がす。


 見つける。

 呼ぶ。

 流す。


微風(ブリーズ)


 魔力が流れる。


 木札はすぐには動かなかった。


 羽根や紙片より、確かに重い。

 微風(ブリーズ)だけでは、少し押しづらい。

 ユリスの中で、もっと強く動かしたいという想いが立ち上がる。


 動け。


 半歩だけでいい。


 その思いが強くなった瞬間、木札が先に揺れた。


 風が追いついていない。


 木札の下に空気の流れが足りず、不足した力がそのまま下の石板へ落ちていく。


 まずい。


 ユリスは見た。


 反動は石板の欠けた部分へ向かっている。

 さっきより重い。

 羽根や紙片とは違う。

 このままいけば、石板が割れる。


「石板に行く!」


「呼んで!」


 セリアの声が飛ぶ。


 呼ぶ。


 どうやって。


 ユリスは砂箱を見た。


 そこへ流せ。


 石板じゃない。

 砂箱だ。


 壊れていい場所。

 受け止めていい場所。


 そこへ――。


 ユリスの杖先が震えた。


 魔力が乱れる。


 木札が半歩分、滑るように動いた。


 結果は成立した。


 その直後、石板が鳴った。


 ぴしり。


 さっきよりはっきりした音だった。


 セリアが床へ手を伸ばす。


白線封鎖ホワイト・ライン・シール


 白い線が石板の縁を走った。


 それは盾のように守る結界ではなかった。

 広がりかけた亀裂や魔力の流れを、その場で縫い止めるための線だった。


 伸びかけたひびの上に白い光が重なり、石板の奥へ逃げようとしていた反動を押さえ込む。


 同時に、砂箱の中で砂が跳ねた。


 小さな粒が、ぱらぱらと床へ落ちる。


 ユリスは息を呑んだ。


 木札は、指定通り半歩分動いている。


 成功。


 そう言える結果だった。


 けれど、石板には細いひびが入っていた。


「……割れた」


「割れてはいないわ。ひびが入っただけ」


「同じだろ」


「同じではないわ。でも、今はそう感じていい」


 セリアは石板に触れ、白線封鎖ホワイト・ライン・シールを維持したまま言った。


「今のが、外で起きるかもしれないことよ」


 ユリスは言葉を失った。


 木札を動かした。


 ただそれだけで、足場に見立てた石板へひびが入った。


 もしこれが外周区なら。

 もし石板の上に誰かが立っていたら。

 もし水路の縁だったら。

 もし、子供の足元だったら。


 想像した瞬間、呼吸が浅くなった。


「……これが外周区だったら」


 ユリスは、ひびの入った石板を見下ろした。


「ただ木札を動かしただけで、足場が割れるのか」


「ありえるわ」


「水路の蓋なら?」


「落ちるかもしれない」


「魔術灯なら?」


「灯りが消えるだけならまだいい。古い導管に逆流すれば、周囲の灯りまで巻き込むわ」


 ユリスは何も言えなかった。


 明日の実習が、急にただの見学ではなくなった。

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