第32話 微風
放課後の小訓練室へ向かう間、ユリスの頭には、午後の終わりに告げられた連絡が残っていた。
――明日、第一組は外周区実習を行う。
ガルディアは、淡々とそう告げた。
外周区における魔力環境の観察。
生活結界の保全状況。
水路導管、魔術灯、外壁補修線の確認。
言葉だけなら、ただの課外実習だった。
王都の中を歩き、普段の授業では見られない魔術設備を見て回る。
教師の説明を聞き、必要なら簡単な記録を取る。
そう聞けば、少し変わった授業にすぎない。
けれど、セリアはその説明を聞いたとき、少しだけ目を細めていた。
あの顔を、ユリスは覚えている。
ただ授業予定を聞いた顔ではない。
何かの線を、他の誰より先に見つけたときの顔だった。
小訓練室の扉の前に着くと、ユリスは一度だけ足を止めた。
今日の実技授業だけで、体はもう十分に疲れている。
火になる前を見る。
火が消えた後を見る。
結果だけで済ませない。
そう意識し続けるだけで、思っていたよりずっと消耗した。
魔力を使った疲れというより、ずっと目を逸らしていたものを無理やり見続けた疲れに近い。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
ユリスは息を吐き、扉を開けた。
小訓練室は、昼間の実技場よりも静かだった。
窓から差し込む光は少し傾いていて、床に刻まれた結界線を淡く照らしている。
授業中は何人もの生徒が並んでいた訓練区画も、今は誰もいない。
いや、正確には一人いた。
セリアが、床の中央に膝をついていた。
彼女は並べた道具の位置を確かめるように、指先を静かに動かしている。
制服の裾が床近くで小さく揺れたが、その青い瞳が見ているのは道具そのものではなかった。
羽根や木札の下を走る結界線と、まだ見えない反動の行き先を追っている。
セリアの前には、いくつかの道具が並べられていた。
白い羽根が一枚。
薄い紙片が数枚。
小さな木札。
欠けた石板。
浅い砂箱。
それから、古びた金属片と、細い管のようなもの。
ユリスはそれらを見下ろし、眉を寄せた。
「……今日は火じゃないのか」
「ええ」
セリアは当然のように答えた。
「今日は微風を使うわ」
「微風って、紙を揺らすくらいの魔法だろ」
「そうね」
「それなら、そんなに危なくないんじゃないか」
「普通の微風ならね」
即答だった。
ユリスは口を閉じた。
この言い方をされると、だいたい何かある。
セリアは床に置いた白い羽根の位置を指先で少しだけ整えた。
「今日やるのは、風を起こす訓練ではないわ」
「微風を使うのに?」
「ええ。物が動く前を見る訓練よ」
ユリスは床の羽根を見る。
白く、軽い。
少し息を吹きかけるだけでも動きそうだった。
「これを動かせばいいのか」
「最初はね。ただし、強く飛ばしては駄目。羽根が床から少し浮いて、半歩分だけ移動する。それだけでいい」
「半歩分……」
「結果だけなら簡単でしょう?」
ユリスは言葉に詰まった。
結果だけなら。
その言葉は、今日の授業でレオンに言われた言葉とよく似た場所へ刺さった。
結果だけで済ませるな。
レオンの声が、まだ耳に残っている。
ユリスは腰の学院標準杖に手を伸ばした。
白木の杖は手に馴染んできたようで、まだどこか他人の道具のようでもある。
村で使っていた簡素な練習杖とは違う。
けれど、それでも杖を握っていると、魔法と自分の間に白木一本分の距離ができる気がした。
「ユリス」
セリアの声が、静かに割り込んだ。
「今日は、杖先だけを見ないで」
「……分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん、では足りないわ」
「厳しいな」
「明日の外周区には、訓練室と同じ反動線はないもの」
外周区。
その言葉で、ユリスはもう一度、床の道具を見た。
ただの訓練道具だと思っていた羽根や木札が、急に別の意味を持ち始める。
「これ、もしかして明日のために用意したのか」
「ええ」
セリアは短く答えた。
「白い羽根は、落ち葉や布切れの代わり。紙片は結界標識や巡回札。木札は古い水路の蓋。欠けた石板は外周区の石畳。金属片は魔術灯の古い固定具。細い管は、使われなくなった導管の見立てよ」
「……急に嫌な感じになったな」
「嫌な感じがするなら、正しく見えているわ」
セリアは、浅い砂箱へ視線を落とした。
「これは、壊れても人に届かない逃がし先。空の魔力槽や、水路脇の余白だと思って」
「余白?」
「ええ。都市には、魔力を逃がすための場所があるわ。けれど、外周区ではそれが古くなっていたり、詰まっていたり、そもそも足りなかったりする」
セリアは指先で砂を軽く均した。
「明日の実習では、そういうものを見ることになる」
「教師は、魔力環境の観察って言ってた」
「間違ってはいないわ」
「でも、セリアの言い方だと、ただの見学には聞こえない」
「ただの見学ではないもの」
セリアは立ち上がり、窓の外へ一瞬だけ目を向けた。
王都アルヴェリアの白い建物が、夕方の光を受けて淡く輝いている。




