第29話 扉の向こうの視線
小訓練室の外では、別の足音が廊下に響いていた。
レオン・グランフィールは、閉まりきっていない扉の前で足を止めた。
聞き覚えのある声がした。
セリア・ノルフェインの声だった。
レオンは動かなかった。
覗くつもりはなかった。
ただ、声が聞こえただけだ。
そう自分に言い聞かせた。
けれど次の瞬間、扉の隙間から見えた光景に、指がわずかに強張った。
小訓練室の中央に、ユリス・フォルクが立っている。
黒髪黒目の、地方から来た少年。
測定では下位判定を受けたはずの生徒。
魔力制御も、術式理解も、発動過程も、正しく整っていない。
なのに、結果だけは不可解に成立する。
レオンにとって、ユリスは気に入らない存在だった。
単に成績が悪いからではない。
劣っているなら、まだ分かる。
努力不足なら、なおさら分かりやすい。
だが、ユリスは違う。
正しくないのに、結果だけが出る。
術式が崩れているのに、成功したように見える。
それは、レオンが積み上げてきたものを横から踏み荒らすような不気味さがあった。
そして今、セリア・ノルフェインが、そのユリスの杖先を覗き込んでいた。
近い。
ただの助言ではない。
ただの授業でもない。
セリアの青い瞳は、測定室でレオンの炎を見たときよりも、ずっと強く何かを追っていた。
「……なぜだ」
声は、ほとんど息に近かった。
正しく成功したのは、自分のはずだ。
測定でも、実技でも、レオンは間違えていない。
術式も崩していない。
教師からも認められ、周囲の生徒も自分を優秀だと言った。
グランフィール家の名に恥じない結果を出してきた。
なのに、セリア・ノルフェインが今見ているのは、自分ではなかった。
灯火すら正しく止められない、黒髪の少年だった。
室内で、ユリスが杖を構える。
レオンは扉の外から、その様子を見ていた。
ユリスの構えは、やはり美しくない。
肩に余計な力が入り、杖先の角度も少し硬い。
魔力の流し方にも迷いがある。
レオンなら、あの程度の灯火は息をするように発動できる。
火を灯すことも、消すことも、出力を弱めることも難しくない。
優れているのは自分だ。
だが、セリアは目を離さない。
ユリスの失敗を、まるで宝石の傷を見るように追っている。
その集中が、レオンの胸をざらつかせた。
室内で、蝋燭に火が灯った。
やはり失敗だ。
火をつけてはいけないであろう課題で、火がついた。
レオンはそう判断した。
けれど、セリアの反応は違った。
紡がれる言葉は、レオンが普段から耳にする類いの評価ではなかった。
上位、特位、安定、優秀。
そういう評価なら、何度も聞いてきた。
けれど今のセリアの声は、点数をつける声ではない。
目の前の相手が、確かに前へ進んだことを見つけた声だった。
レオンの胸の奥で、何かが硬くなる。
魔術師は、正しく術式を組み、正しく魔力を流し、正しく結果を出す。
そのために学び、そのために訓練する。
なのに、セリアはユリスの失敗を見ている。
そして、それを前進と呼んでいる。
レオンには、そのことが理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「……何をしているんだ、セリア嬢」
小さく漏れた声は、扉の向こうへは届かなかった。
レオンはその場を離れようとした。
だが、足がすぐには動かなかった。
もう一度、室内を見る。
セリアは床の未決結界を消しながら、ユリスに何かを説明している。
ユリスは少し疲れた顔をしていたが、逃げようとはしていない。
その顔が、レオンにはなおさら気に入らなかった。
測定のときのユリスは、もっと怯えていた。
何も分からず、ただ結果に振り回されているだけに見えた。
なのに今は違う。
不安そうではあるし、怖がってもいる。
けれど、その目は火から逃げていない。
レオンは無意識に拳を握った。
そのとき、背後から声がした。
「レオン?」
振り向くと、カイル・ベルグラントが廊下の向こうから歩いてきていた。
茶色の髪を少し乱し、いつものように軽い足取りだった。
その隣には、金髪のエリオット・ラングレイもいる。
薄青の瞳が、レオンと訓練室の扉を交互に見た。
「こんなところで何してるんだ?」
カイルが首を傾げる。
「別に」
レオンは短く答えた。
声が思ったより硬くなった。
カイルは訓練室の扉へ目を向ける。
その隙間から、室内の光が細く漏れていた。
「あれ、誰か使ってるのか?」
「行くぞ」
レオンはそれ以上見せないように、扉の前から離れた。
カイルは一瞬だけ不満そうにしたが、すぐにレオンの横へ並ぶ。
「なあ、今の声、セリア嬢じゃなかったか?」
レオンは答えなかった。
エリオットが静かに言う。
「ユリス・フォルクもいたように見えた」
カイルの眉が跳ねた。
「あいつが? なんでセリア嬢と?」
「知らない」
レオンは歩きながら言った。
その声に、カイルは少し口をつぐんだ。
エリオットだけが、何かを察したように目を細める。
「特訓、でしょうか」
「特訓?」
カイルが嫌そうに顔をしかめる。
「あいつが? 灯火もまともに扱えないのに?」
「だからこそ、かもしれない」
エリオットは淡々と言った。
「ノルフェイン嬢は、ユリスの異常反応に興味を持っている。測定のときからそうだった」
「興味って……あんな危ないだけの魔法にか?」
「危ないからこそ、見る価値がある。彼女ならそう考えるでしょう」
レオンは足を止めなかった。
けれど、エリオットの言葉は耳に残った。
危ないからこそ、見る価値がある。
それは分かる。
セリア・ノルフェインが、ただの好奇心だけで動く少女ではないことも分かっている。
彼女は術式を見る。
構造を見る。
普通の生徒が気づかない反動線や、魔力の逃げ道まで見つける。
だから、ユリスの異常に気づいた。
その理屈は分かる。
それでも、胸の奥のざらつきは消えなかった。
「レオン」
エリオットが静かに呼んだ。
「気にしない方がいい」
「何をだ」
「ノルフェイン嬢のことです」
レオンは横目でエリオットを見た。
エリオットは表情を変えない。
「彼女は、優秀な魔術師に興味を持っているわけではないのでしょう。今は、未知の異常を見ているだけです」
未知の異常。
その言い方は正しい。
ユリス・フォルクは、優秀な魔術師ではない。
少なくとも、レオンが認めてきた意味での優秀さではない。
なのに、エリオットの言葉は慰めにはならなかった。
未知だから見られる。
異常だから見られる。
なら、自分の正しさは何なのか。
積み上げてきた制御は、磨いてきた火属性魔法は、崩れない術式は、セリアの目を引くには足りないのか。
「……くだらない」
レオンは小さく吐き捨てた。
カイルがすぐに頷く。
「だよな。あんなの、魔術って呼べるかも怪しいだろ。失敗してるくせに成功したみたいに見えるだけでさ」
「カイル」
エリオットが軽くたしなめる。
「言いすぎだ」
「でも本当だろ。レオンがあれだけ綺麗に魔法を扱えるのに、なんでセリア嬢はあいつなんか――」
「やめろ」
レオンの声が、廊下に低く落ちた。
カイルははっと口を閉じる。
レオンは前を向いたまま言った。
「あいつをどう見るかは、セリア嬢の勝手だ」
「でも」
「それ以上言うな」
短い言葉だった。
カイルは不満そうにしながらも、それ以上は口を挟まなかった。
エリオットは、レオンの横顔をじっと見ていた。
レオンはその視線に気づいていたが、何も言わなかった。
胸の奥には、まだ消えない熱がある。
怒りなのか、嫉妬なのか、焦りなのか、自分でも分からない。
ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。
ユリス・フォルク。
あいつは、自分の前に立つ。
成績でではない。
実力ででもない。
もっと不快で、もっと分かりにくい場所で。
セリア・ノルフェインの視線の先に、あいつがいる。
それが、レオンには許せなかった。
――小訓練室では、最後の片づけが始まっていた。
セリアは床の結界線を消し、蝋燭と木皿を台の上へ戻している。
ユリスは椅子に座り、杖を膝の上に置いていた。
体は疲れていて、頭も少し重い。
けれど、不思議と嫌な疲れではなかった。
何も分からずに成功してしまったあとの、
あの空っぽな感じとは違う。
今日は、少なくとも一つだけ分かった。
火がつく前に、魔力は細くなる。
切れそうになる。
勝手につながる。
その違和感を、言葉にできた。
「今日はここまでにするわ」
セリアが言った。
「明日もやるのか?」
「もちろん」
「即答だな」
「一度で終わると思っていたの?」
「少しだけ期待してた」
「甘いわ」
「分かってたけどさ」
ユリスは苦笑した。
セリアは紙束を取り出し、今日の記録を短く書き込んでいる。
その横顔は真剣だった。
ユリスは少し迷ってから、口を開いた。
「セリア」
「何?」
「……ありがとな」
白銀色のペン先が止まった。セリアは顔を上げる。
「急にどうしたの」
「いや。今日、少しだけ分かった気がしたから」
「そう」
「怖くなくなったわけじゃない。でも、前よりは……何を怖がってるのか、少し分かった」
セリアはしばらくユリスを見ていた。
それから、静かに言った。
「それでいいわ」
「いいのか?」
「ええ。怖くないふりをする必要はないもの。怖いなら、何が怖いのかを見ればいい。怖さに名前をつけられれば、次にどこを見るべきか分かる」
ユリスはその言葉を胸の中で繰り返した。
怖さに名前をつける。
失敗の影を見る。
壊れていい場所を決める。
どれも、まだ簡単にはできない。
でも、今日の訓練で、ほんの少しだけ道が見えた気がした。
「明日は、今日より少しだけ難しくするわ」
「今の話の流れでそれを言うのか」
「必要なことよ」
「怖さに名前をつけたら、次は怖さを増やされるのか」
「違うわ。見る場所を増やすの」
「言い方の問題じゃないか?」
「大事な違いよ」
セリアは淡々と言った。
ユリスは思わず笑った。
その笑いは、自分でも少し意外なほど自然に出た。
すると、つられるようにセリアも柔らかく微笑んだ。
あまりの可憐さに、ユリスは目を逸らすことができなかった。
訓練室の外で何が起きていたのか、ユリスは知らない。
レオンが扉の向こうに立っていたことも、その赤い瞳が自分とセリアを見ていたことも。
ただ、ユリスはこの日、初めて思った。
自分の魔法は、怖いだけのものではないのかもしれない。
失敗できないことは、今も呪いのように胸に残っている。
けれど、その失敗の影を見つけられるなら。
いつか、何を壊し、何を守るのかを選べるようになるのなら。
この力にも、向き合う意味があるのかもしれない。
ユリスは学院標準杖を握り、立ち上がった。
窓の外では、夕方の光が白い校舎を淡く染めている。
王立魔術学院での一日目が終わる。
けれどユリスは、本当の授業はたぶん、今から始まったのだと思った。




