第28話 形を持った魔法
火は、また灯った。
蝋燭の芯に小さな炎が揺れ、ユリスは杖を下ろして息を吐いた。
「……また失敗か」
「ええ。課題としては失敗ね」
セリアは迷わず言った。
けれど、その声は最初のときより少しだけ柔らかい。
「でも、今のは悪くないわ」
「火がついたのに?」
「火はついたわ。でも、あなたは今、火がつく前を見ようとしていた」
セリアは床の未決結界へ視線を落とした。
白銀色の線が、まだ薄く震えている。
「一回目は、火がついたあとに違和感を思い出した。今は違う。火がつく直前に、あなた自身が杖を止めようとした」
「止まらなかったけどな」
「止まらなかったことと、止めようとしたことは別よ」
セリアは蝋燭の火を見つめたまま続けた。
「あなたの魔法は結果へ導く力が強い。だから今は、止められなくてもいい。まずは、その直前に何が起きているのかを見つける。それができなければ、何も選べないわ」
何も選べない。
その言葉は、ユリスの胸に残った。
今までは、火がつけば成功で、火がつかなければ失敗だった。
けれどセリアの訓練では、火がついたかどうかよりも、その前に何が起きたのかを見なければならない。
自分の魔力がどこで細くなり、どこで裂け、どこで勝手につながったのか。
その見えない一瞬を、言葉にしなければならなかった。
ユリスは杖先を見つめた。
学院標準杖の先端には、まだわずかな熱が残っている気がした。
もちろん、本当に熱いわけではない。
それでも、魔力が火に変わる直前の嫌な感覚が、まだ手の奥に残っていた。
燃えた熱ではない。
燃える前に、内側だけが焦げるような感覚。
そして、切れかけた糸を誰かが無理やり結び直すような、気持ちの悪い引っかかり。
「……今のは、少し分かった気がする」
ユリスは杖先を見つめたまま言った。
「火になる直前、流れが細くなった。さっきよりも長く。細い糸みたいに伸びて、それが切れる前に、無理やり結ばれた感じがした」
「無理やり結ばれた」
セリアが繰り返す。
「ええ。その表現はいいわ」
「いいのか?」
「少なくとも、あなた自身の感覚としては重要よ。術式が自然に閉じたのではなく、外から引き寄せられたように感じたのなら、結果だけを成立させる何かが働いている可能性が高い」
セリアはそこで少し考えるように目を伏せた。
「結果補完、とでも名付けるわ」
「……名前なんて付けるなよ」
ユリスの声は、思ったより低く出た。
セリアが顔を上げる。
「嫌なの?」
「嫌だろ。そんな大層な名前を付けられたら、まるで俺の魔法みたいじゃないか」
「あなたの魔法でしょう」
「違う」
ユリスはすぐに否定した。
自分でも、どうしてそこまで強く言ったのか分からなかった。
ただ、その言葉を認めてしまったら、今まで起きたこと全部を、自分のものとして背負わなければならない気がした。
皿が割れなかったこと。
倒木が止まったこと。
病の夜に、願った結果だけが届いたこと。
その裏で、別の場所が軋んだこと。
あれを魔法と呼ぶのは、怖かった。
「俺は、ちゃんと使えてるわけじゃない。ただ、勝手に結果だけがそうなるんだ。だから……名前なんて必要ない」
「名前を付けないと、向き合えないものもあるわ」
セリアの声は静かだった。
「名前を付けるのは、あなたを責めるためじゃない。分からないまま怖がり続けるより、何が起きているのかを少しずつ切り分けるためよ。結果補完という呼び方が正しいかどうかは、まだ分からない。でも、仮の名前があれば、次に同じ現象が起きたとき、それを探せる」
「……探して、どうするんだよ」
「選べるようにするの」
セリアは即答した。
「どこで術式が崩れて、どこで結果が補われて、どこへ反動が逃げるのか。それが分かれば、あなたはただ結果に振り回されるだけではなくなる。少なくとも、何を壊してはいけないのかを考えられるようになる」
ユリスは言い返せなかった。
結果補完。
その言葉は、まだ胸に馴染まない。
むしろ、押し込まれた小石のように重かった。
けれど、セリアはユリスの魔法を怖がっているだけではなかった。
分からないから遠ざけるのではなく、分からないものに仮の名前を付け、形を探し、どこが壊れるのかを追おうとしている。
それが、少しだけ怖くて、少しだけ救いだった。
「もう一度やるわ」
「やっぱり容赦ないな」
「感覚が残っているうちに繰り返す方がいいの」
「俺の疲労は考慮されないのか」
「しているわ。だから灯火にしているのよ」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ」
セリアは当然のように答えた。
このやり取りに、リナがいたら笑っていただろうな、とユリスは思った。
「分かった。もう一回」
ユリスは杖を構えた。
火をつけるのではない。
火になる前を見る。
失敗が成功に塗り替えられる、その一瞬を見る。
セリアが小さく頷く。
「始めて」
ユリスは、杖先へほんの少しだけ魔力を流した。
魔力は指先から杖へ移り、杖先へ集まる。
火属性へ変わり始める。
赤くなる前の、熱になる前の、まだ名前のない揺らぎ。
そこで止める。
止める。
止める。
ユリスは息を詰めた。
魔力の流れが細くなり、糸のように伸びて、切れそうになる。
その瞬間、胸の奥で何かが強く引っ張られた。
だめだ。
火をつけるな。
そう思った直後、蝋燭の芯に火が灯った。
「……っ」
ユリスは思わず杖を引いた。
小さな炎が揺れる。
結果だけなら、何の問題もない。
灯火は成功している。
けれど、ユリスはその火を成功だとは思えなかった。
今のは、止めようとした。
止めようとしたのに、止まらなかった。
火が灯る直前、切れかけた流れが無理やりつながった。
その感覚が、はっきり残っている。
「今のは?」
セリアの声が飛んだ。
ユリスは火から目を離さずに答えた。
「細くなった。さっきよりも、もっと細く。途中で切れると思った」
「切れた?」
「いや。切れなかった。切れる前に、何かが結んだ」
「何か、というのは外から?」
「分からない。でも、自分でつないだ感じじゃない。勝手に戻された」
言いながら、ユリスは喉の奥が乾くのを感じた。
勝手に戻された。
それは、今までずっと起きていたことなのかもしれない。
自分が失敗する前に、あるいは失敗した瞬間に、世界の方が無理やり成功へつなぎ直している。
そう考えた瞬間、背中に薄い緊張が走った。
「いいわ」
セリアは静かに言った。
「今の記録はかなり大事よ」
「火はついたぞ」
「ええ。だから課題としては失敗」
「それで、いいのか?」
「良くはないわ。でも、前進ではある」
セリアは蝋燭の火を小さな結界で包み、すっと消した。
「今までのあなたは、結果が出たあとに落ち込むだけだった。成功したのに、どうして怖いのか。なぜ胸が重いのか。自分でも分からないまま、ただ怖がっていた」
ユリスは何も言えなかった。その通りだったからだ。
「でも今は違う。怖い理由の一部を、言葉にできている。細くなった、切れそうになった、勝手につながった、自分でつないだ感じではなかった。全部、次に見るための手がかりになる」
「手がかり……」
「そうよ。結果ではなく、過程を見るための手がかり。あなたに一番足りていなかったもの」
セリアの言葉は厳しかった。
けれど、突き放す響きではなかった。
ユリスは杖を握り直した。
手のひらに汗がにじんでいる。
疲れているし、怖さも残っている。
それでも、もう一度やれば、さっきより分かるかもしれない。
そう思えた自分に、ユリス自身が少し驚いた。
「……もう一回やる」
「無理はしなくていいわ」
「今、止めたら忘れそうだ」
セリアはわずかに目を細めた。
それは笑ったようにも見えたが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「なら、あと一回だけ」
「一回だけ?」
「ええ。あなたの魔力制御はまだ粗い。そして、通常の過程を経た魔法発動でもない。続けすぎれば、疲労で感覚が鈍るわ」
「ちゃんと考慮してたんだな」
「していると言ったでしょう」
「いや、容赦のなさが勝ってるのかと思ってた」
「失礼ね」
セリアは短く言ったが、怒っているわけではなさそうだった。
ユリスは小さく息を吸った。
もう一度。
火をつけない。
火になる前を見る。
そう意識して、杖先へ魔力を流そうとした。




