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第26話 結果だけでは足りない

「では、最初の授業に入りましょう」


 リーゼル先生が白墨を手に取った。


 黒板に、一本の線が引かれる。

 白い粉の音が、教室に細く響いた。


「基礎魔術理論。最初に確認するのは、魔法の成功とは何か、です」


 成功。


 その言葉に、ユリスの胸が小さく揺れた。


「結果が出た魔法を、必ずしも成功とは呼びません」


 教室が静かになった。


 リーゼル先生は、黒板にもう一本線を足した。


「火が灯る。水が生まれる。風が動く。そうした結果だけを見れば、魔法は成立したように見えます」


 白墨が、黒板の上を滑る。


「けれど、魔術師が本当に見るべきものは、そこに至るまでの魔力の流れです。そして、発動後に残った負荷の行き先です」


 黒板には、中央へ向かう線、途中で分かれる線、外へ逃げる細い線が足されていく。

 簡単な術式図が、少しずつ形を持っていった。


「そこを説明できなければ、たとえ結果が出ていても、次に同じ魔法を安全に使えるとは限りません」


 ユリスは、息を詰めた。


 結果だけでは、成功ではない。


 それは、ユリスがずっと感じていたことだった。


 皿は割れなかった。

 倒木は止まった。

 測定でも、結果だけは成立した。


 それでもユリスは、いつも胸のどこかで、また間違えたと思っていた。


 成功したはずなのに、何かが違う。


 その違和感に、今、黒板の上で名前を与えられている気がした。


 だが、それは救いというより、胸の奥に押し込めていたものを静かに引き出されるような感覚だった。


「たとえば、初級の灯火ライトを考えましょう」


 リーゼル先生は、黒板の術式図の一部を丸で囲んだ。


「火を灯すためには、魔力を火属性へ変換する必要があります。ですが、それだけでは不十分です。火が大きくなりすぎないように出力を絞り、余った魔力が術式内に残らないよう、反動経路を確保しなければなりません」


 反動経路が詰まれば火は揺らぎ、術式が弱ければ火花が散る。

 そして測定室や演習場のように保護結界が張られている場所では、行き場を失った魔力を結界が受け止め、壁や床に刻まれた分散層へ逃がすことがある。


 リーゼル先生の説明を聞きながら、ユリスの手がわずかに強張った。


 結界と負荷。


 測定盤、閉鎖式測定用結界、壁や床に走った白い稲妻のような反応。


 あれは、結果の裏側だったのかもしれない。

 自分には見えなかった道筋の残り香だったのかもしれない。


「先生」


 前方の席から、レオンが手を上げた。


「はい、グランフィール」


「発動結果が同じでも、反動経路が異なれば、評価は変わるということでしょうか」


「その通りです。同じ大きさの火を灯しても、安定して反動を逃がした魔法と、術式内に負荷を残した魔法では、まったく違います。結果だけを見れば同じでも、次の発動で差が出ます」


 レオンは納得したように小さく頷いた。


 正しい質問だった。

 正しく理解して、正しく確認する。


 それができることが、ユリスには少し眩しかった。


「では、反動経路が塞がれた場合、残った負荷はどうなると思いますか」


 リーゼル先生が教室を見回した。


 少しの沈黙が落ちる。


 ユリスは、黒板に描かれた閉じた線を見つめていた。

 逃げ道を失った負荷、と言われても何を想像すればいいのか分からない。

 ただ、測定室の床や壁に走った白い反応だけが、ぼんやりと頭に浮かぶ。


 隣で、紙の擦れる音がした。


 セリアが視線を紙面から上げ、静かに手を上げていた。


「ノルフェイン」


 リーゼル先生が促す。


「反動は、消えるわけではありません。逃げ道がなければ、術式の弱い部分か、周囲へ流れます。場合によっては、発動者本人ではなく、別の場所に歪みとして残ることもあります」


 リーゼル先生は、満足そうに頷いた。


「その通りです。よく分かっていますね、ノルフェイン」


「結界術では、反動の行き先を見ないまま術式を閉じることが、最も危険だと教わりました」


「ええ。閉じることは、守ることでもあります。ですが、逃げ道を失わせることにもなります」


 黒板に、丸く閉じた線が描かれる。

 その内側に、細い線が何本も詰め込まれていった。


「閉じるなら、どこへ逃がすのかも考えなければなりません」


 ユリスは、胸元の学院章を思い出した。


 白い塔を囲む、三本の線。


 あの線は、守ることも、流すことも、閉じ込めることもできる。

 同じ線なのに、誰が何のために引くかで意味が変わる。


 ユリスは紙束の余白に、無意識に短い線を引いていた。


 一本目を引き、それからもう一本を引く。

 けれど、三本目をどう引けばいいのか分からなくなった。


 何を守る線なのか。

 何を流す線なのか。

 どこで止める線なのか。


 分からなかった。


「そこ」


 隣から、小さな声がした。


 セリアだった。


「印をつけておいた方がいいわ」


「……ここか?」


「ええ。反動経路。あなたにとっては、特に」


 あなたにとっては、特に。


 その言葉は、針のように細く刺さった。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 見ないふりをするな、と言われている気がした。


 ユリスは紙の端に、小さく印をつけた。


 反動経路。

 たった四文字。


 なのに、その文字を囲んだだけで、見ないふりをしていたものに印をつけてしまった気がした。


「難しい?」


 反対側から、リナが小声で聞いた。


「難しい」


 ユリスは正直に答えた。


「だよね。私、途中から線が全部同じに見えてきた」


「俺もだ」


「セリアは?」


 リナがセリアを見る。


 セリアは少しだけ考えてから、答えた。


「……私は、同じ線には見えないわ」


「だと思った」


 リナが小さく笑った。


 セリアは少しだけ困ったように眉を寄せる。


「でも、最初から全部見えていたわけではないわ」


「そうなのか?」


 ユリスが聞くと、セリアは視線を黒板へ戻した。


「初めて結界式を読んだときは、線が多すぎて気分が悪くなったもの」


「セリアでも?」


「ええ。……だから、そこをそんなに驚かないで」


 小さく不満そうな声だった。


 リナがまた笑い、ユリスも、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


 同じ教室にいて、同じ黒板を見ているはずなのに、見えているものが違う。


 レオンには、正しい術式が見えている。

 セリアには、線の意味と反動の行き先が見えている。

 リナには、たぶん人の緊張や疲れが見えている。


 では、自分には何が見えるのか。


 ユリスは黒板を見た。


 白い線も、閉じる線も、逃げる線も、そのどれもが自分にはまだ遠い。

 けれど、初めて思った。

 見えないままでは、いけない。


 午前の授業は、思っていたより早く過ぎた。


 リーゼル先生の説明を聞き、黒板を写し、紙束に挟まれていた講義予定の端に印をつける。

 それだけなのに、測定とは違う疲れがあった。


 測定は、見られる時間だった。

 けれど授業は、自分で見なければならない時間だ。


 授業終了の鐘が鳴ると、教室の空気が一気にほどけた。

 あちこちで椅子を引く音がして、生徒たちが昼食へ向かい始める。


 ユリスは紙束をまとめながら、黒板に残った線を見た。


 結果だけでは、成功ではない。

 その言葉が、まだ耳の奥に残っている。


「お昼、行こ」


 隣でリナが立ち上がった。


「頭使ったらお腹すいた」


「リナはいつもお腹すいてそうだな」


「失礼な。今日は特にだよ。線がいっぱい出てきたから」


「線で腹が減るのか」


「減るよ。難しい線は特に!」


 リナは真剣な顔で言った。


 ユリスは思わず少し笑った。


 セリアも紙束を整え、席を立った。


「セリアも?」


「ええ。……一緒に行ってもいいでしょう?」


 その言い方が少しだけ意外で、ユリスは返事に詰まった。


「いや、もちろん」


「なら、行きましょう」


 セリアは何事もなかったように歩き出そうとしたが、少しだけ耳のあたりが赤く見えた。


 リナが小さく笑う。


「セリア、そういうところあるよね」


「何の話?」


「なんでもない」


 教室の何人かがこちらを見ている気配はまだあった。

 けれど、今はそれよりも、隣の二人の声の方が近い。


 ユリスは紙束を抱え直し、席を立った。


 教室を出ると、廊下には昼食へ向かう生徒たちの声が満ちていた。


 四月の学院は、もう測定期間の学院ではない。

 教室があり、授業があり、昼食へ向かう流れがある。


 その中に、自分も入っていく。

 まだ馴染めたわけではないし、ここにいる理由もはっきり分かったわけではない。

 けれど、今日一つだけ分かったことがある。


 結果だけでは足りない。

 なら、見なければならない。

 自分の魔法が何を通り、何を壊し、どこへ流れていくのか。


「ユリス、早く。いい席なくなるよ」


 リナが振り返って手を振る。


 セリアも、一度だけこちらを見た。


「置いていくわよ」


「ああ、今行く」


 ユリスは少しだけ足を速めた。


 紙束は軽い。


 けれど、その中に書かれているものは、やはり重い。


 それでも、ひとりで抱えるよりは、少しだけ持ちやすい気がした。

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