第25話 この席に座る理由
教室は、ユリスが想像していたものとは少し違っていた。
前方には大きな黒板と教壇があり、それを囲むように長い机と座席が扇状に並んでいる。
床は後ろへ行くほど一段ずつ高くなっていて、どの席からでも黒板が見えるようになっていた。
横長の机に何人かずつ並んで座るその空間は、測定室ほど冷たくはない。
けれど、ただの部屋とも違っていて、ここが魔術を学ぶための場所なのだと、座席の並びだけで思い知らされるようだった。
ユリスは入口の近くで、一度だけ足を止めた。
掲示広場で見たばかりの、第一組という文字を思い出す。
自分は、ここで授業を受ける。
測定のように数日で終わるものではない。
これから何度も、この席に座ることになる。
そう考えた瞬間、肩のあたりに少しだけ力が入った。
中段の席で、リナが小さく手を上げた。
大きく名前を呼ぶのではなく、こちらにだけ分かるように手招きしている。
「ここ、空いてるよ」
ユリスは少し迷ってから、二人の隣へ向かった。
リナの隣に腰を下ろすと、長机の上には座席の数だけ薄い紙束が並べられていた。
表紙には、白い塔を囲む三本の線。
王立魔術学院の学院章が、淡い銀色で押されている。
第一組、基礎課程講義予定。
ユリスはその文字を、しばらく見下ろした。
測定は終わった。
けれど、この紙束の薄さとは反対に、そこから始まる日々はやけに重く感じられた。
紙をめくると、講義予定の欄には、基礎魔術理論や魔力制御訓練、属性別演習といった科目名が整った文字で並んでいた。
その横には、担当教師の名も小さく添えられている。
基礎魔術理論の担当は、リーゼル・エルフォード。
実技基礎の横には、ガルディア・ヴァイスという名があり、さらに基礎魔力循環の欄には、ミレーヌ・ルクレールと記されていた。
リーゼル先生の名には、少しだけ安心できた。
けれど、実技基礎という文字を見た瞬間、ユリスの胸の奥が冷たくなる。
魔法を人前で使う時間は、これから何度も来る。
ガルディア・ヴァイス。
初めて聞く名前ではあったが、実技基礎の担当という文字だけで厳しさを想像してしまう。
講義名と並んで見ると、明日以降の授業が急に現実味を帯びた。
その下にある基礎魔力循環という講義名で、ユリスは少しだけ指を止めた。
ミレーヌ・ルクレール。
魔力の循環。体の中を魔力がどう巡り、乱れたときに何が起きるのかを学ぶ講義なのだろうか。
自分の魔法は、どこから来て、どこへ流れていくのか。
そんなことを考えた瞬間、紙の上の文字が急に重みを増した気がした。
村で習った魔法とは違う。
暗くなったら火を灯し、濡れた薪を温め、井戸水を少し清める。
それくらいなら、ユリスにもできた。
できてしまった。
けれど、この紙に書かれているのは、ただ火がつくかどうかではない。
水が澄むかどうかでもない。
なぜ火が灯るのか、どこを魔力が通るのか、発動したあとに残った反動はどこへ逃げるのか。
ユリスが今まで見ないまま来たものばかりだった。
「ユリス、顔が固いよ」
隣からリナが小声で言った。
「そうか?」
「うん。紙に怒られてるみたいな顔してる」
「紙に怒られるって、どんな顔だよ」
「真面目に読みすぎて、読む前から負けそうな顔」
「もう負けてるかもしれない」
「まだ一枚目だよ?」
リナが困ったように笑った。
その声につられて、ユリスの胸に入っていた余計な力がほんの少しだけ抜けた。
反対側では、セリアが紙束をめくっていた。
すでに講義予定のほとんどへ目を通しているらしく、指先で一箇所を軽く押さえている。
「午前は基礎魔術理論ね。午後は導入説明と施設確認。実技は明日以降よ」
「もうそこまで見たのか」
「見るだけなら難しくないわ」
「俺にはもう難しい」
「……最初から全部読める必要はないわ」
セリアは紙束に目を落としたまま言った。
「講義予定なんて、慣れるまではただの暗号みたいなものよ」
「セリアでもそう思うのか?」
「思ったことくらいあるわ。……少しだけ」
「少しだけか」
「そこを拾わないで」
セリアはほんのわずかに眉を寄せた。
「分からないところがあるなら、あとで一緒に確認すればいいわ。隣に座っているのだし」
淡々とした声だった。
けれど、言葉の端には、ほんの少しだけ不器用な柔らかさがあった。
リナがくすっと笑う。
「セリア、今のちょっと優しい」
「普通の説明よ」
「うんうん、そういうことにしておく」
「リナ」
セリアの声は少しだけ硬くなったが、本気で怒っているようには見えなかった。
教室の扉が開いた。
ざわめきが、少しずつ静まっていく。
「皆さん、席についていますね」
柔らかな声とともに、リーゼル先生が教室へ入ってきた。
茶色の髪を揺らし、緑の瞳で扇状の席をゆっくり見回す。
穏やかな表情だったが、その視線は一人一人をきちんと見ているようだった。
リーゼル先生は教壇に立つと、机の上の紙束を軽く指で示した。
「今日から正式な授業が始まります。机の上にある講義予定は、今後しばらく使いますから、なくさないようにしてくださいね」
あちこちで、紙束を整える音がした。
「第一組については、掲示の際にも説明があったと思います。ここにいる理由は、人によって違います。得意なことも、伸ばすべきところも、それぞれ違います」
先生の声は穏やかなままだった。
「ですが、今日から皆さんは同じ教室で学びます。誰が上で、誰が下かを確かめるためではありません。自分の魔法を、自分で扱えるようになるためです」
ユリスは、紙束の端に触れていた指を止めた。
自分の魔法を、自分で扱えるようになる。
簡単な言葉なのに、胸の奥に引っかかった。
自分の魔法。
あれを、そう呼んでいいのか。
失敗しないのではなく、失敗が残らないだけの力。
結果だけが勝手に届いて、その後ろで何かが壊れる力。
それを、自分で扱えるようになる日が、本当に来るのだろうか。




