第24話 四月開始
四月の王立魔術学院は、三月とは少し違って見えた。
白い校舎も、高くそびえる王都アルヴェリアの塔も、何かが変わったわけではない。
けれど、学院へ向かう生徒たちの声には、測定期間の張り詰めた空気とは別の熱が混じっていた。
今日から、正式に学院生活が始まる。
ユリスは学院へ続く道を歩きながら、胸元の学院章に目を落とした。
白い塔を囲む、三本の線。
測定最終日、あの印を見上げたときに思ったことが、まだ胸の奥に残っている。
線は、閉じ込めるだけではない。
守ることもできる。
流すこともできる。
そう思えるようになっただけで、学院の白さは少しだけ違って見えた。
とはいえ、怖さが消えたわけではない。
測定で数字や所見として見られていたものが、今度は日々の授業の中で見られることになる。
自分は本当に、ここでやっていけるのだろうか。
そう考えたときだった。
「姉さん、本当に今日から寮なんだね」
聞き慣れない少年の声がした。
ユリスが顔を上げると、学院の門の前にセリアが立っていた。
銀色の髪を背に流し、いつものように背筋を伸ばしている。
その隣に、小柄な少年がいた。
セリアよりずっと幼い。
けれど、整った顔立ちや澄んだ青い瞳は、どこかセリアに似ていた。
「ええ。四月からは、新入生全員が寮生活になる決まりだから」
セリアは淡々と答えた。
けれど、その声は普段より柔らかかった。
「家から通えばいいのに。学院、そんなに遠くないでしょ」
「規則よ。それに、王立魔術学院では家柄に関係なく同じ生活を送ることも教育の一部なの」
「姉さん、そういう言い方すると先生みたい」
「アルト」
セリアが少しだけ眉を寄せる。
少年は慌てて口をつぐんだが、すぐに小さく笑った。
ユリスは思わず足を止めた。
セリア・ノルフェインにも、こんな顔があるのかと思った。
測定室で見るセリアは、いつも冷静だった。
何かを見抜き、分析し、必要なことだけを言う少女。
けれど今のセリアは、少しだけ違った。
弟に呆れているようで、突き放してはいない。
その距離の近さが、なんだか不思議だった。
「あら、ユリスじゃない」
セリアがこちらに気づいた。
ユリスは少し気まずくなって、頭をかく。
「悪い。邪魔するつもりじゃなかった」
「邪魔ではないわ。ちょうどいいから紹介する。弟のアルトよ」
少年が少し背筋を伸ばした。
「アルト・ノルフェインです」
「ああ、ユリス・フォルクだ」
ユリスが名乗ると、アルトは少しだけ目を丸くした。
「姉さんと同じ課程の方ですか?」
「まだクラス発表前だけどな」
「でも、姉さんが名前を呼ぶくらいだから、知り合いなんですね」
アルトはそう言って、セリアを見上げた。
セリアは涼しい顔をしている。
「測定で何度か同じ場にいただけよ」
「姉さんがそう言うときは、だいたい気にしてるときだよ」
「アルト」
「あ、ごめんなさい。でも本当のことだから」
「あなた、余計なことまでよく覚えているのね」
「姉さんのことだから」
アルトは少し得意げに言った。
セリアは返す言葉を探すように一瞬だけ黙ったが、結局、軽く息をついただけだった。
ユリスはそのやり取りを見て、少しだけ肩の力が抜けた。
「アルトは、初等部なんだよな?」
「はい。姉さんたちとは校舎も授業も違いますけど、僕も学院には通っています」
「そっか。何歳なんだ?」
「十歳です」
その答えを聞いた瞬間、ユリスは少しだけ目を見開いた。
「十歳……」
「どうかしましたか?」
「いや。俺の妹と同じ歳だと思って」
アルトがぱっと顔を上げた。
「妹さんがいるんですか?」
「ああ。ニナっていうんだ。村にいる」
ユリスは少しだけ懐かしくなって、目を細めた。
「十歳なのに、俺よりしっかりしてるところがある。王都に来るときも、最後まで泣かないって顔してた」
「泣かないって顔?」
「泣かないって顔してたけど、実際はめちゃくちゃ泣いてたな。俺が見えなくなるまでずっと」
言ってから、ユリスは小さく笑った。
「でも、俺がいなくなったあと、ちゃんと大丈夫だったかは分からない。……少し、心配だな」
口にしてから、胸の奥が少し痛んだ。
王都に来てから、測定のことばかり考えていた。
けれど、村にはニナがいる。
自分を見送ってくれた家族がいる。
「大切なんですね」
アルトがまっすぐに言った。
ユリスは少し返事に困った。
けれど、嘘をつく理由もなかった。
「……ああ。大切だ」
素直にそう言うと、セリアが少しだけ目を伏せた。
「知らなかったわ。妹がいたのね」
「ああ。言う機会もなかったからな」
「ニナ、というのね」
「うん」
セリアはその名前を確かめるように、静かに頷いた。
「覚えておくわ」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、ユリスは不思議と嬉しかった。
「いつか会ってみたいです!妹さんに」
アルトが言った。
「会えるといいな。そのときは、仲良くしてやってくれ」
「はい!」
アルトは嬉しそうに頷いた。
その返事があまりに素直で、ユリスはまた少し笑った。
セリアが小さく息をつく。
「アルト、そろそろ戻りなさい。初等部の方にも予定があるでしょう」
「うん」
アルトは頷いたが、すぐには動かなかった。
少し寂しそうに、セリアを見上げる。
「姉さん、ちゃんと休んでね」
「私は休むべきときには休むわ」
「そう言うときの姉さんは、だいたい無理するよ」
セリアは返事に詰まった。
ユリスは思わず笑いそうになったが、なんとかこらえた。
「……何か言いたそうね、ユリス」
「いや、俺は何も」
「顔に出ているわ」
「たぶんアルトの方が正しいんだろうなって思っただけだ」
「あなたまでそういうことを言うのね」
セリアは少しだけ不満そうに眉を寄せた。
けれど、本気で怒っているようには見えなかった。
アルトは最後にもう一度頭を下げて、初等部の校舎へ続く道を歩いていった。
その背中を、セリアはしばらく見送っていた。
「いい弟だな」
ユリスが言うと、セリアは前を向いたまま答えた。
「ええ。少し心配性だけれど」
「心配される姉なんだな」
「……今のは、どういう意味かしら」
「そのままの意味だよ」
セリアは何か言い返そうとしたが、その前に学院の鐘が鳴った。
低く澄んだ音が、白い校舎の間に広がっていく。
「クラス発表が始まる時間ね」
「ああ」
二人は掲示広場へ向かった。
そこにはすでに、多くの新入生が集まっていた。
壁に大きな水晶板が掲げられ、そこにクラス分けが順に映し出されている。
ユリスは人の間から、自分の名前を探した。
胸の奥が少し重くなる。
どのクラスになるのか。
測定結果はどう扱われたのか。
自分は、普通の下位として扱われるのか。
それとも、やはり別の何かとして見られるのか。
やがて、水晶板の中央に文字が浮かんだ。
第一組。
その下に、名前が並んでいく。
レオン・グランフィール。
セリア・ノルフェイン。
リナ・クラウゼ。
そして、ユリス・フォルク。
「……同じクラスか」
ユリスが呟いた直後、横から明るい声が飛んできた。
「ユリス!」
リナだった。
オレンジ色の短い髪を揺らしながら、人混みの間を抜けてくる。
「見た? 見たよね? 私たち同じクラスだよ!」
「ああ。見た」
「よかったぁ……!知ってる人がいるだけで、全然違うよね。私、ちょっと安心した」
リナは本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ユリスも少しだけほっとした。
セリアも同じクラス。
リナも同じクラス。
それだけで、知らない場所に放り込まれる感じは少し薄れた。
だが、その安心は長く続かなかった。
「第一組に、あいつも入るのかよ」
少し離れたところから、棘のある声が聞こえた。
振り向くと、赤茶色の髪をした少年がこちらを見ていた。
制服はきちんと着ているが、口元にはあからさまな不満が浮かんでいる。
その隣には、細身で眼鏡をかけた少年が立っていた。
こちらは表情をあまり動かさず、静かにユリスを観察している。
「カイル」
赤髪の少年――レオンが低く言った。
「余計なことを言うな」
「けど、レオン。第一組だぞ? お前やセリア嬢がいるのは分かる。リナだって珍しい適性がある。でも、ユリス・フォルクは違うだろ」
「言うなと言った」
レオンの声は強くなかった。
けれど、カイルはそこで口を閉じた。
眼鏡の少年が、穏やかに一礼する。
「失礼。彼は少し口が早い。僕はエリオット・ラングレイ。こちらはカイル・ベルグラント」
「……ユリス・フォルクだ」
「知っているよ。測定期間中、君の名前は何度も聞いた」
エリオットの声は丁寧だった。
だが、その丁寧さが、ユリスには少しだけ居心地悪く感じられた。
「通常分類不能。失敗率零。そういう反応を示した生徒が第一組に入るのは、不自然ではないと思う」
「不自然じゃないって、どういう意味だ?」
ユリスが思わず聞き返す。
エリオットは少しだけ考えた。
「優秀だから、というより、目を離せないから、かな」
悪意のある言い方ではなかった。
だからこそ、胸に残った。
目を離せない。
それは、期待されているという意味ではない。
危ないものを見張るような響きがあった。
「エリオット」
今度はレオンが止めた。
エリオットはすぐに口を閉じる。
「失礼。悪意はない」
ユリスは返事に困った。
悪意はない。
確かに、カイルのような嫌味とは違う。
けれど、エリオットの目は、ユリスを同級生というより観察対象として見ているようだった。
その視線に、少しだけ胸がざわつく。
「ユリスはユリスだよ!」
リナが前に出た。
声は明るかったが、目は少しだけ真剣だった。
「同じクラスなんだから、最初からそんな言い方しなくてもいいでしょ」
「別に、間違ったことは言ってないだろ」
カイルがむっとしたように言う。
リナは引かなかった。
「間違ってなくても、言い方ってあるじゃん!」
「リナ」
ユリスが小さく声をかける。
けれど、リナはユリスを見ずに言った。
「だって、嫌でしょ。自分のことを数字で測ったように言われるの」
その言葉に、ユリスは黙った。
胸の奥に、小さく温かいものが落ちる。
カイルが言い返そうとする。
だが、その前にセリアが口を開いた。
「第一組は、成績が良い者だけを集める場所ではないわ」
淡々とした声だった。
「正しく伸ばすべき才能も、慎重に向き合うべき性質も、同じように見なければならない。ユリスがここにいるのは、学院がそう判断したからよ」
「つまり、フォルクは危険だから入れられたってことですか、セリア嬢」
カイルが言う。
セリアは目をそらさなかった。
「危険性を理解せずに扱う方が危険だということよ」
その言葉に、ユリスは少しだけ息を止めた。
かばわれたのか、危険だと言われたのか、よく分からない。
たぶん、どちらもだった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
セリアは怖くないとは言わない。
大丈夫だとも言わない。
それでも、見ない理由にはならないと言う。
測定最終日の廊下で聞いた言葉を、ユリスは思い出した。
「全員、教室へ移動しなさい」
教師の声が広場に響いた。
ざわめきが少しずつ移動を始める。
レオンはユリスの横を通り過ぎる直前、足を止めた。
「ユリス」
「何だ?」
「同じクラスになった以上、授業ではお前の魔法も見ることになる」
「ああ」
「俺は、まだお前の力を認めたわけじゃない」
レオンの赤い瞳が、まっすぐにユリスを見る。
「だが、測定で見たものをなかったことにするつもりもない」
それだけ言って、レオンは歩き出した。
カイルが慌てて後を追い、エリオットも静かに続く。
リナが小さく息を吐いた。
「なんか、濃いクラスになりそうだね」
ユリスは吐息交じりに答える。
「最初から疲れるんだけど」
「大丈夫。たぶん、もっと疲れるよ!」
「……全然大丈夫じゃない」
リナが笑った。
セリアは教室へ向かう廊下を見つめながら、いつもの調子で言った。
「疲れるだけなら問題ないわ。四月からは特訓も始めるのだから」
「それ、まだ本気だったのか」
「当然よ」
「授業も始まるんだぞ」
「だからこそよ。授業であなたの魔法が暴走する前に、見る練習を始める必要がある」
「見る練習って、俺がするのか?」
「もちろん。あなた自身が見えなければ意味がないでしょう」
「……俺、今日から普通に授業受けるつもりだったんだけど」
「普通に授業を受けるための特訓よ」
ユリスは頭を抱えたくなった。
けれど、不思議と足は止まらなかった。
教室へ向かう白い廊下の先から、新しい生徒たちの声が聞こえてくる。
四月。
正式な学院生活が始まる。
怖さはまだある。
自分の魔法が何を壊すのか、まだ分からない。
けれど、もう一人で手のひらを見下ろしているだけではなかった。
セリアがいる。
リナがいる。
敵なのか、味方なのか、まだ分からない相手もいる。
それでも、ここから始まるのだと思った。
ユリスは教室の扉の前で、一度だけ深く息を吸った。
白い扉が開く。
新しい席。
新しい授業。
新しい視線。
そして、自分の魔法と向き合う日々。
ユリスは一歩、教室の中へ踏み出した。




