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第21話

 ヨシカは濡れたからだで、信じ込んだ。失った悲しみはとうに枯れ果たした、と。そして実際、失くしたものが戻ってきたわけではなかった。

「キシャの石をマツバ族に返す」

「どうやって? 胸の肉を裂くのか?」

 オハラが嘲笑う。ヨシカは台所にあった包丁を掴むと、クロスのところへいった。

「クロスさん。あなたはこの計画に反対だったのでしょう。そして、」

 ヨシカは包丁の先でオハラを指した。

「このひとの上司」

「旦那は俺の上司じゃないよ。どっちかっていうと同僚みたいな感じ」

「どっちにしても身内でしょう。オハラさんは取り返しのつかないことをしました。でもオハラさんは、そう考えていないようなので、自分の尻は拭えないでしょう」

 オハラは癪に障った。ヨシカは刃を自分の方に向け、包丁をクロスに差し出した。

「だからあなたが」

「できるわけがないだろう」

 クロスは即座に拒否した。鼓動が耳鳴りのように響き出す。

「コチは最後のマツバ族です。ひとりなのに、一族のしきたりを大切にして生きています。キシャの石を守っていくのが彼の生活の芯です。彼の思想を理解ができなくても、関係ありません。石を奪うのは、彼の生命を殺してしまうのと同じです」

 ヨシカは淡々と話しながら、クロスの前に片膝をついた。クロスは背中に滂沱の汗を流した。逃げ出したくてたまらなくなった。

「あなたたちは、わたしたちが一生考えることのないぐらい大きな未来を考えなければならないのでしょう。でも、どこに住んでいようと、なんの立場であろうと、人間には命と尊厳があります。それで暮らしています」

 ヨシカは包丁を振り上げると、床に突き刺した。

「あなたたちはこの土地の芯を無下にしすぎた。甘すぎた計画の後始末を」

 クロスは額にも頬にも首からも、汗がふき出していた。呼吸も苦しくなっていく。それでもクロスは、ヨシカから目を離せなくなった。それなのにクロスは何も見なくなる恐怖がこみ上げた。視界が真っ黒になる、あの苦しい夜が戻って来る。

「ヨシカちゃん、頭、大丈夫?」

 オハラが気色悪いものを見る眼差しをヨシカにやった。ヨシカはスカートの紐を肩から抜く。そしてブラウスのボタンをひとつはずす。ふたつ、みっつ目のところでクロスがヨシカを押し倒すと、開いたブラウスの前を合わせて、閉じた。

「できない。わたしはもう、人は殺せない」

クロスの手は震えていた。

「それは、あなたの婚約者だったひとのことですか?」

 沈黙でクロスは肯定した。

「あなたが別荘に火を?」

 クロスは首を振った。クロスの汗が、ヨシカの頬に落ちる。

「ちがう。あの日は、ひどく空気が乾燥していて、カレンは手料理を作ってくれて、すこし目を離したうちに、火が。わたしは宰相のそばにいた。宰相を助けた。カレンは台所にいた。いたはずだ。けれど、助けに行かなかった。見えなかった。宰相と外へ逃げた。燃えた別荘に戻らなかった。あのとき、損得勘定をしなかったとはいえない。無意識に未来を選んだ。わたしは彼女の命より、わたしの命を選んだ。金のある未来を選んだ。それは確かだ」

 クロスはヨシカの上に懺悔を降らせた。ヨシカは村長を思い出していた。サギランを失くした日、村長はイオリを抱いていた。ヨシカがカラ喰いに襲われたとき、いちばん近くにいたのが村長だった。駆け出せば、ヨシカが救えた。村長はボロボロになるまでヨシカに謝った。自分はただ、イオリを抱きしめていただけだった、と。

「後悔はどうしようもない」

 ヨシカはクロスの震える腕を握っていった。過ぎたことはすべて運命。運命は特別ではない。

「先生がそういっていました」

 ヨシカの胸が光を放った。クロスは驚き腕で顔を庇い、ヨシカから離れた。

「外!」

 オハラが声を荒げた。窓の外から部屋のなかに光が注がれてきた。ヨシカの胸と同じ常盤色に輝く、大きな虎が屋敷を見据えていた。クロスとヨシカは茫然と窓の外を見つめた。

「俺も見たい!」

 オハラが喚く。カラ喰いは強烈な光を放っているのに、ちっとも眩しくなかった。目が眩むことはなかった。カラ喰いはまぶたを閉じている。長い睫毛の先からも、浮世なきらめきを漂わす。それでもヨシカを見ていることがわかった。カラ喰いは座り、ヨシカを夜のなかで待っていた。ヨシカは思い出した。

「わたしがサギランを食べられたとき、みどり色の光の玉が転がって、床の下に消えたと先生がいっていました」


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