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束の間の安息



 魔力回路が全快した日の翌朝。


 拠点であるギルド『黎明』の最上階ラウンジで、俺は少しばかり気乗りしない様子で、深々と溜息を吐いていた。


「お待たせ、湊……っ!」


 パタパタと軽い足音を立てて自室から現れた皇咲耶の姿に、俺は思わず目を丸くした。


 彼女は、いつもの威圧的な黒いドレスではなく、淡いピンク色のシフォンブラウスに、清楚な白いフレアスカートという、ひどく可憐な私服に身を包んでいた。丁寧に巻かれた黒髪からはふわりと甘い香りが漂い、ほんのりと桜色に染まった頬が、彼女の息を呑むような美貌をさらに際立たせている。


 どこからどう見ても、冷酷な『皇の魔女』ではなく、これから初デートに向かう普通の可愛らしい女性だった。


「どう……かしら? 変じゃない? いつもと違う服だから、少し不安なのだけれど……」


 咲耶はスカートの裾を少しだけ摘み、上目遣いで俺の顔色を窺ってくる。三十歳という年齢を感じさせない、あまりにも初々しく愛らしい仕草。


「……いや、似合ってる。綺麗だ」


「っ……! ほ、ほんと!? えへへ……嬉しい……♪」


 俺が素直に褒めると、咲耶はパァッと顔を輝かせ、弾むような足取りで俺の腕にギュッと抱き着いてきた。豊かな胸の感触が腕に伝わり、無邪気な笑顔が至近距離で見上げられ、俺は思わず小さく咳払いをして視線を逸らす。


「 今日は丸一日、湊の時間をわたしが独占するんだからね!」


「……分かってるよ。俺の腕を治すために留守番してくれた礼もあるしな。付き合ってやる」


 俺は少し渋々といった態度を取りつつも、腕に縋り付く咲耶と共に、専用エレベーターへと向かった。


 だが、二人が乗り込んだエレベーターの扉が閉まった直後。


 ラウンジの巨大な観葉植物の陰から、こそこそと動き出す『三つの影』があった。


「……行ったわね。それじゃあ、私たちも出撃よ」


 黒いトレンチコートの襟を立て、目深に帽子を被ったチャオが、ニヤリと口角を上げる。


「本当にやる気ですの? プライベートの尾行なんて、ギルドマスターに知れたら怒られないかしら……」


 大きなサングラスにマスクという、逆に怪しすぎる変装をした雪乃が、溜息をつきながらも双剣をコートの下に隠す。


「む? 主どのの後をつけるのか? 我も行くぞ! 外の世界の『美味い飯』というものを、片っ端から食い尽くしてやるのだ!」


 人間の姿になり、白いチャイナドレスから獣耳と尻尾をピンと立てたハクが、目を輝かせて二人の背中に張り付いた。


「ハク、あんたはその耳と尻尾をどうにかして隠しなさい! 目立ってしょうがないわよ!」


「ええい、鬱陶しい! 帽子で隠せばいいのだろう、帽子で!」


 かくして、ギルド『黎明』が誇る最高戦力の女性陣三名による、ギルドマスターと最強のパトロンの『極秘デート尾行作戦』が、ドタバタと幕を開けたのだった。


   * * *


 咲耶が「どうしても普通の恋人たちがするようなデートがしたい」とゴネて連れてこられたのは、品川にある都内有数の巨大水族館だった。


 だが、エントランスを抜けた瞬間、俺は周囲の異様な静けさに気がついた。


 休日だというのに、広大な館内には一般の客の姿が一人も見当たらない。ただ、黒いスーツを着た皇家のお抱えSPたちが、数十メートルおきに直立不動で配置されているだけだった。


「……なぁ、咲耶。これ、もしかして」

「ふふっ、当然でしょう? 湊と二人きりの神聖な時間を、有象無象に邪魔されたくないもの。今日の閉館時間まで、この水族館はすべてわたしが買い占めたわ」


 咲耶はピンクのスカートを揺らしながら、自慢げに胸を張った。


 普通のデートと言いつつ、やっていることは完全に権力による強行突破だ。俺は呆れて溜息を吐いたが、彼女が今日のためにどれほど気合いを入れているかが伝わってきて、怒る気にはなれなかった。


「……まあいい。ほら、行くぞ」

「あ、待って、湊……」


 大水槽へと続く薄暗い青いトンネルに入ったところで、咲耶が突然、その場にもじもじと立ち止まった。


 彼女は顔を耳の裏まで真っ赤に染め、自身の細い指先をせわしなく弄んでいる。


「何だよ、急に」

「あの……その、手を……繋ぎたい、のだけど……」

「手?」

「うん……。わたし、これまで男のほうから言い寄られて跪かれることしかなかったから……自分から好きな人の手を繋ぐのって、どうやったらいいか、分からなくて……っ」


 日本の裏社会を牛耳る絶対権力者が、まるで初めての恋に戸惑う中学生のように顔を俯かせ、震える手を少しだけ前に出している。


「…………」


 俺は、そのあまりにも健気で愛らしい姿に、思わず毒気を抜かれてしまった。


 これまでの彼女なら、「手を繋ぎなさい」と命令するか、有無を言わさず腕を絡めてきていただろう。それが今、相手の気持ちを慮り、不器用に愛情を表現しようとしている。


(……柔らかくなったな、本当に)


 出会った当初の、他者をゴミのように見下していた傲慢な魔女の姿は、ここにはない。


 少しずつ、だが確実に、彼女は一人の普通の女の子としての感情を学び変わろうとしているのだ。


 俺は渋々付き合ってやると言った手前、少し気恥ずかしさを感じながらも、そっと右手を差し出した。


「……はぐれないように、しっかり掴まっとけよ」

「っ……! うんっ!!」


 咲耶は弾かれたように顔を上げ、俺の手を両手で包み込むようにギュッと握りしめた。


 大水槽の青い光の中、彼女の満面の笑みが、宝石のようにキラキラと輝く。俺の胸の奥で、静かな安堵と、くすぐったいような温かい感情が広がっていくのを感じた。


   * * *


『……うおぉぉぉぉぉぉ! あの巨大な魚、美味そうだな! 主どのに焼いてもらえば絶品に違いないぞ!!』


「シーッ! ハク、声が大きいわよ! バレたらお姫様に魔法で消し炭にされるわ!」


 少し離れた水槽の陰。


 パンフレットで顔を隠しながら、チャオが必死にハクの獣耳(帽子の中に収納中)を押さえつけていた。


 その後ろで、雪乃がカメラのレンズを密かに二人に向けながら、信じられないものを見るように口をパクパクさせていた。


「嘘……、あのお姫様が、あんな純情な乙女みたいな顔で、手を繋いで喜んでるなんて……」


「フフッ、強烈な弱みを握ったわね。あのツンケンしたパトロンも、湊の前じゃただの恋する女の子ってわけ。後でこの写真を見せて、たっぷりからかってやりましょう」


 チャオが悪戯っぽく笑うが、雪乃は少しだけ複雑そうな瞳で、楽しそうに笑い合う二人の後ろ姿を見つめていた。


   * * *


「わぁっ! 湊、見て見て! ペンギンさんが歩いてるわ! すっごく可愛いっ!」


 ペンギンコーナーのガラスにべったりと張り付き、咲耶は子供のように目を輝かせていた。


「ほら、湊もこっち来て! あの一番小さな子、転んじゃったわ!」


 俺の腕を引き、キャッキャとはしゃぐ咲耶。


以前なら「こんな鳥、目障りだから焼き鳥にしてあげる」くらい言い放ちそうなものだが、今の彼女は純粋に命の輝きを楽しんでいるようだった。


 俺は彼女の横顔を見つめながら、自然と口元を緩めていた。


「湊? どうしたの、わたしの顔になんか……あっ」

 振り返った咲耶と、視線が交差する。


 俺が優しく微笑んでいることに気づいたのか、彼女は一瞬キョトンとした後、ボンッという音が聞こえそうなくらい顔を真っ赤に染めた。


「な、なな、なに!? どうしたの、そんな優しい目で見つめられたら、わたし……心臓が、破裂しちゃいそうなんだけど……っ!」


「いや、ただ……お前、そういう普通の笑顔ができるようになったんだなと思って。こっちまで嬉しくなった」


「~~~~~ッッ!!!」


 俺の言葉に、咲耶は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んでしまった。


「ず、ずるいわ……湊のバカ……。そんなこと言われたら、わたし、もう本当にあなたなしじゃ生きていけなくなっちゃうじゃない……っ」


 しゃがみ込んだまま、彼女は俺のズボンの裾をキュッと握りしめる。


 そして、上目遣いで、ひどく甘く、少しだけ情念の籠った紫色の瞳で俺を見上げてきた。


「ねえ、湊。昨日は……本当は、狂いそうだったの。わたしの心臓に刻まれた茨の紋章が、湊とあの泥棒猫チャオの魔力で混ざり合っていくのが分かって。……嫉妬で、狂いそうだった」


「咲耶……」


「でもね、わたし、我慢したの。湊がわたしのことを『信頼できる仲間だ』って言って、お留守番を頼んでくれたから。……わたし、湊の『いい子』でいたかったから、我慢したのよ」


 それは、不器用で、重すぎる愛情を必死に抑え込み、好きな人に褒められようと背伸びをする、一人の女の子の痛切な告白だった。


「だからね、湊? わたしのこと、今日はいっぱいいっぱい、甘やかして。……湊の視界には、わたしだけを映して、いっぱい愛してくれないと……わたし、我慢できなくなっちゃうから」


 俺は、その重くて、愛おしい感情を真っ直ぐに受け止めた。


 しゃがみ込んでいる彼女の前に跪き、顔を覆っていた彼女の手を優しく退かして、その潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返す。


「……ああ。分かってるよ」


 俺がそう言って、彼女の頭を優しく撫でてやると、咲耶はポロポロと嬉し涙をこぼしながら、俺の首に腕を回して強く抱き着いてきた。


「大好き……湊、だーいすきっ……♪」


 誰もいない水族館の青い光の中、俺たちはしばらくの間、互いの温もりを確かめ合うように静かに身を寄せ合っていた。


 ――そして。

「……ねえ、チャオ。もう帰らない? 私、なんだか胸焼けがしてきた」


「……同感ね。まさかあのお姫様に、こんな純愛を見せつけられる日が来るなんて。毒気が抜かれたわ……」


『むぅ……我はまだ何も食っておらんのだが!?』

 少し離れた物陰で。


 完璧に当てられ、白旗を揚げた三人の追跡者たちが、こっそりと踵を返していく気配に、俺は気づかないフリをして小さく苦笑を漏らすのだった。


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