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樹海ダンジョン



 翌朝


 まだ薄暗い空の下、俺たち『黎明』の探索メンバーは、拠点の地下にある専用の車両ポートに集まっていた。


 チャオが中国のルートから取り寄せたという、防弾仕様の大型SUVのトランクを開け、各自の装備と数日分の野営物資を詰め込んでいく。


「湊、本当に忘れ物はない?」


 トランクを閉めようとした俺の横から、スッと白い手が伸びてきて、チェックリストが表示された端末を差し出してきた。


 柊雪乃だ。


 彼女は、いつもの戦闘用の重装束ではなく、移動用の動きやすい黒のタートルネックに、細身のタクティカルパンツという洗練された出で立ちだった。長い黒髪は邪魔にならないよう高い位置でポニーテールに結い上げられており、その凛とした横顔は、早朝の冷たい空気と相まって、息を呑むほどに美しかった。


 不意に、彼女の香りと、首筋の白い肌が至近距離で目に入り、俺の心臓が僅かに跳ねる。

ふいにかつての荷物持ち時代には雲の上の存在だったSランクの天才魔法剣士が、今はこうして、俺のすぐ隣に立っている。その事実を改めて意識してしまい、俺は少し気恥ずかしさを覚えながら視線を端末へと落とした。


「ああ、平気だ。ポーションの予備も、橘の魔力回復用のタブレットも多めに積んだよ」


「そう。……なら、いいのだけれど」


 雪乃はチェックリストから視線を外し、俺の顔を、そして俺の右腕を、じっと見つめてきた。


 その氷のように透き通った瞳の奥に、ほんの微かな『揺らぎ』が混ざっている。


「……雪乃?」

「あ、いえ……」


 雪乃はハッとしたように視線を逸らし、耳の裏をわずかに赤らめながら、俺から距離を取ろうとした。


 だが、俺は彼女が振り返るよりも早く、その細い手首をそっと掴んだ。


「何か、心配事か?」

「……っ」


 掴まれた手首から伝わる熱に、雪乃の肩がビクッと跳ねる。


 彼女はしばらく俯いていたが、やがて観念したように小さく息を吐き、俺の目を真っ直ぐに見返してきた。


「……あのお姫様が言っていたこと。あながち、間違いではないと思って」


「咲耶が?」


「ええ。あなたの右腕の不調……それは、私たちにとって最大の懸念事項よ。もし、池袋ダンジョンの時のように、戦闘の最中に回路がショートしてしまったら……」


 雪乃の言葉が、そこで途切れる。彼女は唇を強く噛み締め、俺の手首を掴み返してきた。


「私は、もう二度と、あんな思いはしたくない。……私の前で、あなたが倒れる姿なんて、絶対に見たくないのよ」


 それはいつもクールな『氷の魔剣士』が、初めて俺に見せた、一人の少女としての弱音だった。


「……悪い。心配かけたな」


 俺は掴まれた彼女の手を優しく握り返し、安心させるように微笑んだ。


「でも、今回は違う。橘の盾があるし、結衣の治癒とバフもある。チャオの近接戦闘は頼りになるし……何より、隣には、最強のアタッカーである雪乃がいるだろ?」


「……っ」

 雪乃の頬が、ポッと朱に染まる。


「だから、雪乃はただ、俺の背中を信じて、思い切り前を向いて剣を振ってくれ。……そうすれば俺は安心して立ち回れる」


「……調子の良いことばっかり言って。バカ湊」


 雪乃はわざとらしく鼻で笑い、俺の手をパシッと振り払った。だが、その声はひどく優しく、彼女の口元には、氷が溶けるような柔らかい笑みが浮かんでいた。


「言われなくても、あなたの前に立つ敵は、私が全部凍らせてあげるわ。……だから、絶対に無茶はしないでよ」


「ああ、約束する」


「……ちょっと、二人とも。朝っぱらから何イチャイチャしてるのよ。お姫様がいないからって、油断しすぎじゃない?」


 後方から、青龍刀を肩に担いだチャオが、呆れたような声で割って入ってきた。その後ろでは、橘と結衣がニヤニヤしながらこちらを見ている。


「なっ……イ、イチャイチャなんてしていません! 今のはただの、ギルドマスターとの作戦会議の一環です!」


 雪乃が顔を真っ赤にして早口で捲し立てる。


「はいっはい、作戦会議ね。じゃあ、そろそろ出発するわよ。富士の樹海は、日が出ているうちにある程度潜っておかないと厄介だからね」


 チャオが運転席に乗り込み、エンジンをかける。重低音が地下ポートに響き渡った。


「よし、全員乗ったな。……行くぞ、富士へ」


 俺の合図と共に、漆黒のSUVは拠点を出発し、一路、日本の象徴である巨大な魔境へと向けて走り出した。


   * * *


【S級指定ダンジョン・富士の樹海:第一層】


 東京から車を走らせること数時間。


 富士山の麓に広がる広大な樹海は、それ自体が世界でも有数の危険度を誇るS級指定ダンジョンとなっていた。


 地上から地下へと続く通常のダンジョンとは異なり、この富士の樹海は、果てしなく続く深い原始の森そのものが「階層」として空間を歪ませている、特異な構造を持っている。


 車を頑強な検問ゲート前に停め、俺たちは一歩、森の中へと足を踏み入れた。


 その瞬間、世界の色が変わった。


「……っ、何これ。空気が、肌にまとわりつくみたいに重い……」


 樹齢数百年はあろうかという巨木が鬱蒼と生い茂り、太陽の光は厚い葉の天井に遮られて、ほとんど地上には届かない。辺りは、昼間だというのに黄昏時のように薄暗かった。


 足元は苔むした溶岩が複雑に入り組んでおり、一歩踏み外せば、どこまで続いているかもわからない暗い地割れ(風穴)が口を開けている。さらに、大気中に漂うマナの濃度が尋常ではなかった。東京のダンジョンが「洗練された魔力」だとすれば、ここは「荒々しく狂暴な野生のマナ」。呼吸をするだけで、肺の奥がジリジリと灼けるような錯覚に陥る。


「気をつけて。この森は、ただ歩くだけで探索者の精神を削るわ。チャオ、ナビゲーションの調子はどう?」


 雪乃が双剣の柄に手をかけ、周囲の暗がりを警戒しながら尋ねる。


「……最悪よ」


 先頭を歩くチャオが、タブレットの画面を見て忌々しげに顔をしかめた。


「完全に死んでるわ。マナの磁気異常で、GPSも電子コンパスも、ついでに私の特注の探索魔道具も全部狂ってる。現在地すら分からないわね」


 富士の樹海が『帰らずの魔境』と呼ばれる最大の理由がこれだった。


 空間そのものがマナによって歪められており、真っ直ぐ歩いているつもりでも、いつの間にか同じ場所をぐるぐると回らされる。道という概念が存在しない原始の緑海。


「結衣、橘、マナの毒気に当てられないよう、呼吸を一定に保て。チャオの野生の勘だけが頼りだ。頼むぞ」


「任せなさい。伊達に中国の霊山で修行してないわよ」


 チャオは青龍刀の先端で草木を掻き分けながら、微かな風の流れと、植物の生え方だけを頼りに進路を決めていく。


 だが、魔境の洗礼はそれだけでは終わらなかった。


 ずぶっ、と。


 俺たちの数メートル前方を歩いていた橘の足元が、不自然に沈み込んだ。


「うわっ!? し、底が抜けた――」

「橘、動くな!」


 俺は神速で手を伸ばし、橘の戦闘服の襟元を掴んで強引に引き戻した。


 彼が踏み抜いた場所は、厚い苔に覆われて巧妙に隠されていた、底の見えない溶岩の竪穴だった。カラカラと、落ちた石が音を立てるが、いつまで経っても着底した音が聞こえてこない。


「あ、ありがとうございます、マスター……。危なかった……」


「足元だけじゃない。上も、横も、すべてが罠だと思った方がいい」


 周囲の木々からは、時折、意思を持っているかのように蠢く肉食植物の蔓が触手を伸ばし、大気中の瘴気は階層を下る(森の奥へ進む)につれて、じわじわと濃くなっていく。


 一歩進むごとに、肉体と精神が確実に削られていく感覚。白虎にたどり着くどころか、中層に達する前に遭難しかねないという圧倒的な「大自然の理不尽」が、俺たちの行く手を阻んでいた。


   * * *


【第二層へ入ってから約4時間後】


 どれほどの距離を歩いただろうか。


 時間の感覚すら曖昧になり始めた頃、俺たちはさらに深い、霧の立ち込めるエリアへと到達していた。


「……ハァ、ハァ……マナの圧力が、さっきの倍近いです……」


 結衣が杖を支えにしながら、苦しそうに息を吐く。


彼女にとって、この高濃度マナの霧は、それだけで身体に重りを付けられているようなものだった。


「結衣、無理をするな。橘、一回陣形を止めろ。ここで少し――」


 俺が休息を提案しようとした、その瞬間。


 ――地鳴りのような、不気味な地響きが足元から伝わってきた。


 ズゥゥゥゥン……、ズゥゥゥゥン……。


 霧の奥から、周囲の巨木をなぎ倒しながら姿を現したのは、この魔境の生態系の上位に君臨する、圧倒的な巨体だった。


 体長4メートルを超える、全身が冷え固まった漆黒の溶岩石の甲殻で覆われた巨大な熊――『溶岩甲殻の巨熊ラヴァ・シェル・ベア』。


 その背中からは、樹海のエネルギーを吸い上げたと思しき巨大な結晶樹が生えており、真っ赤に発光する瞳が、明確な捕食者の意志を持って俺たちをロックオンした。


『グルァァァァァァァァァッッ!!!!』


 咆哮一過。その風圧だけで、周囲の濃霧が一気に吹き飛ぶ。


 A級ダンジョンのボスを遥かに凌駕する、S級指定ダンジョンならではの圧倒的な質量。


「来るわよっ!」


 雪乃が双剣を構え、その足元から絶対零度の冷気が広がる。チャオも青龍刀を構え、身体に濃密な『氣』を纏わせた。


「――待て、二人とも。ここは俺に任せてくれ」


 俺は二人の前に歩み出ながら、自身のステータスウインドウを視覚化した。


【氏名】天谷 湊

【HP】300,000 / 300,000

【MP】8,068 / 496,160

【筋力】350,000

【俊敏】380,000

【知力】250,000

【魔力】400,000 (魔法:火属性Lv.3)

【保留ポイント】65,000

【特殊加護】炎神の加護 / 闘神の加護


 池袋ダンジョンでの探索で獲得した【保留ポイント】が新たに65,000ほど加算されている。だが、問題はそこではない。


 九州での後遺症のせいか、現在の俺の【MP】は微量しか回復しておらず、枯渇寸前まで落ち込んでいた。


 俺は、右腕を静かに見つめた。


 ここで下手に炎の小手を纏って残り少ない魔力を強引に振り絞れば、また回路が焼き切れて気絶するリスクがある。今のこの極限状態の樹海で俺が意識を失えば、それこそ全滅の危機に直結しかねない。


「炎を纏わせるのを封印して……純粋な『肉弾戦パワー』だけでねじ伏せる」


 俺は両手を固く握り締め、腰を落として格闘の構えを取った。


「結衣! 補助魔法バフをくれ!」


「は、はいっ! ――【完全均衡の祝福(パーフェクト・バランス)】!!」


 後方から、結衣の杖がまばゆい黄金の光を放つ。


 瞬間、俺のステータス――【筋力】【俊敏】【体力】の数値が、強制的に限界値を突破して爆発的に跳ね上がった。


 全身の筋肉が圧倒的なエネルギーで満たされ、世界がまるで止まっているかのように遅く見え始める。


『ガァァァッ!!』


 巨熊が、その岩石のような巨大な前脚を振り下ろして突進してきた。


 家一軒を容易く粉砕するであろう、圧倒的な破壊の質量。


 だが、俺は逃げなかった。


 結衣のバフによって神速の領域へと達した俺の足が、溶岩の床を爆発的に蹴る。


 ドンッ!!


 空気が破裂するような音を置き去りにし、俺は巨熊の正面から、真っ向勝負でその懐へと飛び込んだ。


『ギチッ!?』


 巨熊の赤い瞳が、驚愕に揺れる。


「おおおおおらぁぁぁっ!!」


 俺は、腰の捻りから生み出されるすべての体重を乗せ、純粋な肉体の筋力だけで、巨熊の分厚い下顎へと、強烈なアッパーカットを叩き込んだ。


 ズガァァァァァァァァンッ!!!!!


 肉体と岩石が激突したとは思えない、凄まじい衝撃波が周囲の木々をなぎ倒す。


純粋な物理の衝撃。


 4メートルを超える巨熊の巨体が、俺の一撃によって、一瞬だけ完全に宙へと浮き上がった。


『ガ、ハ……ッ!?』

「まだだっ!」


 着地と同時に、俺はさらに踏み込む。


 巨熊が苦し紛れに振り回してきた、鋼鉄をも引き裂く爪の連撃。


結衣のバフによって極限まで底上げされた【俊敏】により、その爪の軌道を完全に見切り、わずか数ミリの差で、すべての攻撃を紙一重のステップで躱していく。


 左、右、そしてストレート。


 巨熊の、溶岩石でできた頑強な脇腹、胸元、そして結晶樹の根元へと、俺の拳が、容赦のない肉弾戦の連打となって叩き込まれていく。


 ドカッ! バキィン! ズドォンッ!!


 一撃ごとに、ボスの頑強な岩の装甲がメキメキと音を立てて砕け、飛び散っていく。


「橘! ヘイトを取れ!」

「任せてくださいっ! ――【挑発の残響】!」


 橘が盾を叩き、強烈なヘイト魔法を放つ。巨熊の意識が一瞬だけ橘へと逸れた、その最大の隙。


「これで、終わりだぁぁぁっ!!」


 俺は地を這うような低い姿勢から、巨熊の懐へと滑り込み、全体重と、バフによって極限まで高められた全筋力を右拳へと集約させた。


空気そのものを圧縮するほどの、純粋な質量の一撃。


 ドゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!


 ボスの胸元、心臓の魔核が存在する位置へと、俺のストレートが真っ直ぐに突き刺さった。


 内側から響く、パキィンという結晶が砕け散る音。


『グ、ル、ア…………』


 巨熊は最後の唸り声を漏らし、その巨体を大きく傾けると、そのまま地響きを立てて轟沈した。


 ゆっくりと、光の粒子となって消えていく。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 俺は構えを解き、大きく息を吐き出した。


 右腕を見つめる。


「……やったわね!炎を使わずに、あのクラスのモンスターを拳一つで難なく倒すなんて改めて強くなったわね湊」


 雪乃が、凛とした様子で双剣を収めながら呟く。


「やるじゃない、マスター。あなたのその肉体フィジカル、合格点よ」


 チャオが嬉しそうに俺の肩を叩いた。


「皆の、おかげだよ」


 結衣の言葉通り、森の奥からは、さらに濃密な瘴気と、未知のモンスターたちの気配が、音もなくこちらへと這い寄ってきていた。


白虎の領域までは、まだ遠い。



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