逆鱗
ーーー京都
歴史の闇に溶け込む近衛家の本邸は、その日、文字通りの暴風雨に晒されていた。
豪壮な門構えは根元からへし折られ、前庭に敷き詰められた美しい白砂は、まるで巨人の手で掻き回されたかのように無惨に抉れている。
バキィィィンッ!!!!
母屋の重厚な檜の扉が、内側から爆発したかのように粉々に砕け散った。
立ち込める木屑と、空間そのものを圧殺せんばかりの紫色の魔力。その中心を、黒いドレスの裾を従えて静歩する女性がいた。
皇咲耶である。
その高貴な容貌には、東京で見せるような少女の甘さは微塵もない。世界で最も美しく凶悪な『魔女』の顔そのものだった。
「ひ、皇の当主様……っ! お控えなさいませ、ここは近衛の――」
廊下に這いつくばる近衛の私兵たちが、声を絞り出す。だが、咲耶は彼らを見向きもしない。ただ、一歩足を進めるたびに、彼女の足元から迸る圧倒的な威圧感が、兵たちの肋骨を物理的に軋ませ、その場に気絶させていった。
咲耶が向かったのは、母屋の最奥、近衛宗厳の寝室だった。
空間転移の魔術すら使わない。あえて足音を響かせ、敵の退路を恐怖で断つための確実な蹂躙。
襖が、彼女の手が触れる前に、マナの圧力だけで消し飛んだ。
「……おやおや、手荒なご訪問ですな。皇の当主殿」
部屋の奥で、近衛宗厳は寝間着のまま、白髪交じりの顎髭を震わせていた。額からは、滝のような冷や汗が伝っている。先ほど池袋ダンジョンでの中継映像が途絶えた瞬間から、この瞬間が来ることは予期していた。だが、これほどまでに早いとは。
「ジジイ」
咲耶の声は、地獄の底から響くように低く、冷たかった。
彼女が静かに右手を上げ、指先を宗厳へ向けた、その瞬間。
ドガァァァァァァァァンッ!!!!!
宗厳の背後にあった壁が、そしてその奥にあった離れの建物ごと、広大な敷地の半分が、一瞬にして音もなく消滅した。
夜の冷たい風が、破壊された断面から吹き込んでくる。近衛家が誇る最高峰の防魔結界など、彼女の純粋な魔力出力の前には、障子紙ほどの意味もなさなかった。
「な、何のおつもりだ……っ! 御三家の掟を破り、我が近衛を滅ぼす気か!?」
「掟? 誰に向かってそんな口を利いているの」
咲耶の姿がブレた、と思った次の瞬間、彼女は宗厳の目の前に立っていた。
細く、美しい指先が、宗厳の喉元を容赦なく掴み上げる。そのまま、老人の巨体を軽々と宙へと持ち上げた。
「が、は……っ、く……っ」
「湊たちの所へ猟犬を5匹放ったでしょう……言っておくけれど、証拠なんて探すつもりはないわ」
宗厳は、窒息の苦しみに顔を歪めながらも、必死に言葉を紡いだ。
「ふ、ふん……それでも…証拠、がなければ……いくら皇とて、国内も……諸外国への示しもつかまい……! 我は、何も、して、おらん……っ!」
ギリギリのところで、宗厳は「証拠不十分」を盾に、自身の命を守ろうと言い張った。
だが、咲耶の口元が、歪に釣り上がった。
「そう。証拠、ね。……そんなもの、最初からどうでもいいわ」
咲耶は、掴んでいた宗厳の身体を、大理石の床へと叩きつけた。
ドォン、と重い音が響き、宗厳が激しく咳き込む。
咲耶はその場に屈み込み、宗厳の白髪を乱暴に掴んで顔を跳ね上げた。彼女の紫色の瞳の奥で、狂気的なまでの独占欲と、底知れぬ殺意が揺らめいている。
宗厳の耳元で、彼女はドスの利いた、恐ろしく低い声で囁いた。
「よく聞きなさい、老いぼれ。……次、あの人の髪の毛一本でも触れるような真似をしてみなさい。証拠があろうとなかろうと、国がどうなろうと関係ない。……わたしがこの手で、近衛の血筋を、子供から老人に至るまで、一人残らずこの世界から根絶やしにしてあげるわ」
「ひっ……!!?」
宗厳の喉から、情けない悲鳴が漏れた。
それは、誇り高き旧御三家の当主としての脅しではない。一人の男を盲目的に愛し、そのためなら世界を滅ぼすことも厭わない、本物の『怪物の宣告』だった。
「二度と、わたしの湊に手を出すな」
咲耶は髪を放り投げ、振り返ることもなく、再び空間を引き裂いてその場から掻き消えた。
残された近衛宗厳は、破壊された寝室の床で、ただガタガタと己の身体の震えを止めることができずにいた。
* * *
数日後。東京・新興ギルド『黎明』の拠点。
最上階の広大なラウンジには、京都での修羅場が嘘のような、いつもの(少し偏った)日常が戻っていた。
「湊ぉ、これ剥いて?あ、種もちゃんと取ってよぉ」
「……手首の骨でも折れてるのか? 自分でやれよ…」
「やだー! 湊が手で剥いてくれないと、わたし食べなーい!」
ソファの上で、黒いドレス姿の咲耶が、俺の膝の上に完全に仰向けに寝転がっていた。一粒数万円は下らない大粒の高級葡萄を俺の口元へと突きつけ、幼児のようにジタバタと足を動かしてゴネている。
あの京都での冷酷な魔女の姿はどこへ行ったのか。俺は深い溜息を吐きながら、仕方なく葡萄の皮を剥き、その艶やかな唇へと放り込んだ。
「んふっ、美味しいっ♪ 湊が剥いてくれたから、世界一甘くておいひいわ!」
パァッと顔を輝かせた咲耶は、そのまま俺の首に両腕を絡ませ、すりすりと頬を擦り付けてくる。
「……ねえ、雪乃。あのお姫様、いつまで私たちのギルドマスターを独占してるつもりかしら。そろそろ私の青龍刀の錆にしてあげようかと思うんだけど」
「奇遇ね、チャオ。私も今、あの泥棒猫ごとソファを絶対零度で凍り漬けにしようかと考えていたところよ」
少し離れた円卓から、雪乃とチャオが隠しきれない修羅の殺気を放っている。それに巻き込まれまいと、円卓の端で橘と結衣がガタガタと震えながら紅茶を啜っていた。
「まあ、待てお前ら。咲耶が近衛のジジイを詰めてきてくれたおかげで、当分はあいつらも動けないはずだ」
俺がそう言って頭を撫でてやると、咲耶は嬉しそうに俺のシャツをギュッと握りしめた。だが、すぐにその紫色の瞳に心配そうな色が浮かぶ。
「でも、湊の右腕……やっぱり放置できないわ。九州での後遺症なんでしょ? 結衣ちゃんの治癒魔法でなんとかならないの?」
咲耶の言葉に、結衣が申し訳なさそうに眉をひそめて首を横に振った。
「……すみません。【癒神の加護】で、『治癒魔法の効果』と『精神力』が底上げされて、あらゆる傷や状態異常を瞬時に全快にすることができるんですけど……、今の湊さんの魔力回路は『傷ついている』というより、過剰な出力に耐えきれず『構造そのものが変質してしまっている』ようなんです。私の最大出力の治癒スキルをつかってみたんですが、細胞や回路の『形の書き換え』までは戻せなくて……」
結衣の説明に、ラウンジの空気が少しだけ重くなる。
スキルや加護は万能ではないということかーー
「問題ない。チャオの極意書による『マナの循環』で、少しずつだが制御のコツは掴み始めている」
俺が右腕を軽く回してみせると、チャオが腕を組み、真剣な顔で口を開いた。
「湊、少し良いかしら。その『マナの循環』についてなんだけど……。中国にいた頃、私の師匠から聞いたことがあるのよ」
「師匠? チャオに武術を教えた人か」
「ええ。限界を超えて変質した魔力回路を元通りにする……いや、変質した回路を『さらに強靭な器へと拡張して安定させる』方法をね」
チャオの言葉に、全員の視線が集中した。
「それは、中国の奥地に伝わる秘術のようなものよ。特定の希少素材を用いて特殊な『霊薬』を精製し、それを服用した状態で、極限までマナを循環させるの。そうすれば、ショートを起こす変質した回路を、完全に湊の力として定着させることができるらしいわ。……ただ、その素材が少し厄介なの」
「どんな素材だ?」
俺が身を乗り出して尋ねると、チャオはタブレットを操作し、一枚のマップをホログラムとして円卓に投影した。
「一つ目は、『月光花の雫』。これは、満月の夜にしか咲かない特殊な植物から採取できるマナの結晶よ。これは私がなんとか手配できる。……問題は二つ目。S級指定ダンジョン――『富士の樹海』の深層に生息する四神の一角を冠する特級モンスター、『白虎』の魔核」
「白虎……!」
橘が驚きの声を上げた。
「富士の樹海ダンジョンは、地形が複雑で遭難者が絶えない最悪の魔境です。それに、白虎って……S級パーティーですら討伐を避けるような、超特級のバケモノで滅多に素材も出回らないとか!」
「ええ。でも、湊のあの異常な魔力出力に耐えうるだけの回路を再構築するには、それだけの純度と質量を持ったマナの結晶が必要なのよ」
チャオはそう言って、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「行くぞ」
俺は迷わず即答した。
「ダンジョンでの襲撃の件で分かった。今のままじゃ、俺はいざという時に足手まといだ……仲間の足を引っ張ることになる。黎明のマスターとして、ここで立ち止まっている暇はない」
「湊が行くなら、わたしも行く!」
咲耶が、弾かれたように俺の腕にギュッと抱き着いた。
「そんな野良猫くらい、わたしの魔法で消し炭にして、魔核だけ綺麗にくり抜いてきてあげる!」
「ダメだ、咲耶」
俺は彼女の額を指先でコツンと叩き、首を横に振った。
「いったぁい!? なんでよ、湊! わたし、役に立てるのに!」
「お前には、東京に残ってもらう。これは俺からの、正式な『依頼』だ」
俺の言葉に、咲耶は不満げに口を尖らせたが、俺の真剣な眼差しに気圧されたように言葉を呑んだ。
「近衛のジジイを脅してきたとはいえ、あいつらが次にどんな手を打ってくるか分からない。それに西園寺の当主だって、俺たちの存在を警戒しているし他にもどんなやつから目をつけられているかわからない。……俺たちが富士に行っている間、東京の防衛省や、この新しいギルド拠点が手薄になるんだ。お前の圧倒的な制圧力で、ここを、俺たちの帰る場所を守ってほしい。……パトロンとして、俺が一番信頼できるお前にしか頼めないんだ」
「……っ」
咲耶の顔が、みるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。
ただの「お留守番」ではない。「一番信頼できるから、帰る場所を託す」という、湊からの真っ直ぐな言葉。
彼女はもじもじと指を絡ませ、幼児のようにゴネていた態度を引っ込めると、恥ずかしそうに俺の袖を引っ張った。
「……わかったわよ。湊がそこまで言うなら、お留守番、してあげる。……その代わり、絶対に無事に帰ってくること。それから、帰ってきたら……」
咲耶は俺の耳元に顔を寄せ、ひどく甘ったるい声で囁いた。
「約束の『デート』、絶対に二人きりで、たっぷりしてもらうんだからね?」
「ああ、分かっているよ」
俺が苦笑して頷くと、咲耶は今日一番の、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「よし、決まりね」
雪乃が立ち上がり、双剣の柄を叩いて微笑んだ。
「橘くんの防壁があれば、富士の猛攻も凌げるわ。結衣の治癒もある。……湊、チャオ、橘くん、結衣。準備を整えなさい。明日、富士の樹海ダンジョンへ向けて出発するわよ」
「おう!」
ギルド『黎明』は、次なる試練の地、富士の樹海へと向かって、力強く一歩を踏み出すのだった。




