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魔女の号泣



「――んっ……、くぁ……っ、やめっ……」


防衛省・地下第1演習場。


コンクリートの冷たい床に押し倒され、俺は上から覆い被さってくる皇咲耶の熱を、必死の抵抗で押し返そうとしていた。


だが、皇咲耶の圧倒的な魔力の重圧は、身体の自由を完全に奪い、俺の抵抗を虚しく空回りさせるだけだった。


「はぁ……っ、凑……もっと……」


咲耶の唇が俺の口内を蹂躙し、首筋を這い、鎖骨へと甘い熱を落としていく。


「やめろって……言ってんだろっ!!」


俺は全身の魔力回路を強引にフル稼働させ、右腕に『炎』の熱量を瞬間的に爆発させた。


ボンッ!!

至近距離での魔力の反発。


咲耶はその熱に驚き、一瞬だけ俺を拘束していた力を緩めた。その僅かな隙を見逃さず、俺は彼女の肩を強く押し返し、転がるようにして拘束から抜け出した。


「はぁ、はぁ……っ、いい加減にしろ、咲耶!」


俺は乱れたシャツの胸元をかき合わせ、床にへたり込んでいる魔女を鋭く睨みつけた。


「俺がギルドを立ち上げるのは、あいつらと一緒にこの日常を守るためだ。もしあんたが俺の仲間を見下したり、俺の前から排除しようとするなら……パトロンの契約は今すぐ破棄だ。あんたがどれだけ強大でも、俺は絶対に…、皇を敵に回してでもあいつらを守る!」


俺の怒声が、静まり返った演習場に響き渡った。


普段の俺からは想像もつかないほどの、明確な拒絶と怒りを孕んだ声。


それを真正面から浴びた咲耶の顔から、スッと血の気が引いていくのが分かった。


無理もない。

日本の裏社会を統べる『皇』の当主として君臨してきた彼女の人生において、男という生き物は常にすり寄り、傅き、彼女の機嫌を取るためだけに存在していた。自分になびかない男、ましてや自分を本気で叱り飛ばし、拒絶する男に対する「免疫」など、彼女には一ミリも備わっていなかったのだ。


さらに悪いことに、彼女にとって天谷湊への執着は、三十年間の人生で初めて知った『初恋』だった。


初めて愛した男からの、明確な拒絶と敵意。

その事実が、最強魔女の情緒をいとも容易く粉々に破壊した。


「あ……ぅ……」


咲耶の紫色の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。


「やだ……っ」

「は?」

「やだっ! やだやだやだぁぁぁっ!!」


咲耶は床に仰向けに倒れ込み、まるで駄々をこねる幼児のように、両手両足をバタバタと激しく振り回し始めた。大人の色気溢れる美女が、豪奢なドレスを振り乱して床を転げ回る姿は、あまりにも常軌を逸していた。


「湊に嫌われるのやだぁぁっ! 湊が構ってくれないから寂しかっただけなのにぃっ! パトロン破棄するとか言わないでぇぇぇっ! うわぁぁぁぁんっ!!」


「ちょっ……お、おい、咲耶!?」


「やだぁっ! 湊のバカ! わからずやぁぁっ!!」


ビービーと大声で泣き叫びながら、床に寝そべったまま俺のズボンの裾をギュッと掴み、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにする日本の絶対権力者の一角。


そのあまりにも凄まじいギャップと幼児退行っぷりに、少し離れた場所で警戒していた雪乃も、チャオも、橘も、結衣も、完全に口を半開きにして固まっていた。


「……えっと。あれが、さっき私たちを跡形もなく消し去ろうとしたバケモノ……?」


チャオが、青龍刀を持ったまま呆然と呟く。


「……いい大人の女が、あんな……えぇ……?」


雪乃も、殺気より先に困惑が勝り、双剣の切っ先をだらんと下げてしまった。


圧倒的な恐怖と緊張感で張り詰めていた演習場の空気が、一人の魔女の号泣によって、完全に毒気を抜かれてしまったのだ。


「わかった、わかったから! 泣き止んでくれ、頼むから!」


俺が慌ててしゃがみ込み、咲耶の頭を撫でると、彼女はヒックヒックとしゃくりあげながら俺を見上げた。


「……ほんと? きらいに、ならない……?」


「ああ。ちゃんと俺の言うことを聞けるならな。……いいか、仲間になりたいなら、まずは雪乃やチャオに謝ること。初対面でいきなり命を奪おうとしたんだ、絶対に許されることじゃない」


俺が厳しく言うと、咲耶は渋々といった様子で立ち上がり、雪乃とチャオの方へと向き直った。


その瞬間。


咲耶の瞳から、俺に向けていた熱がスッと消え失せ、絶対零度の冷徹な氷のような眼差しへと切り替わった。路傍の石ころを見るような、徹底的に見下した支配者の目。


「…………」

(ひぃっ……!)


その一瞬の視線の変化に、雪乃とチャオがビクッと肩を震わせる。


だが、咲耶が俺の方をチラリと振り返ると、俺は無言で腕を組み、「ちゃんと謝れ」という圧をかけた。


すると咲耶は、再びパッと幼い少女のような表情に戻り、両手をもじもじと交差させながら、上目遣いで雪乃たちへ頭を下げた。


「あの……その、いきなり失礼な態度をとって……ごめんなさい」

「……あ、いえ」

「……どういたしまして?」


あまりの情緒の乱高下と、自分たちと湊に向ける態度の違いに、雪乃たちも引き攣った笑いを返すことしかできなかった。


「それから、もう一つだ」


俺は、鼻をすする咲耶に向き直り、真剣な声で告げた。


「恋愛ってのは、両者の気持ちがあって初めて成立するものだ。今日みたいに、強引に力ずくで迫ったり、魔法でどうにかしようとするのは禁止だ。……そういうのは、本当にダメだぞ」


俺の言葉に、咲耶は顔を真っ赤にして俯いた。


「……だって、湊が全然振り向いてくれないから……わたし、どうしていいか分からなくて……っ」


「順序ってものがあるだろ。とにかく、俺が言ったルールを守れて、あいつらを仲間として大切にできるなら、あんたも俺たちのギルドの一員として受け入れる」


俺がそう言うと、咲耶はパァッと顔を輝かせた。


「ほんと!? 湊のそばに、ずっといていいの!?」


「ああ。パトロンとして、よろしく頼む」

「やったぁっ!!」


咲耶は子どものように飛び跳ね、再び俺の首に抱き着こうとしたが――途中でピタリと動きを止め、不満げに唇を尖らせた。


「……でも。それだけじゃあ、わたし頑張れない」


「は?」


「パトロンとして、湊のギルドに資金もビルも、全部提供するのよ? 強引に迫っちゃダメなら、わたし、ただの都合のいい金づるじゃない……。ご褒美がないと、割に合わないもん」


ゴネ始めた魔女は、俺のシャツの袖をツンツンと引っ張りながら、上目遣いでひどく甘ったるい声を出した。


「湊の言いつけは守る。でも、その代わりに……月に一回、わたしと『デート』して。二人きりで。……それくらいは、聞いてくれよね?」


その言葉に、背後で雪乃とチャオが「はぁ!?」と声を上げるのが聞こえた。


だが、咲耶の瞳は真剣そのものだった。力づくによる制圧ではなく、純粋な「一人の女性」としての、初めての真っ当な交渉。


「……分かった。月に一回、休みの日に。それでパトロンとして全力を尽くしてくれるなら、約束する」


俺がため息交じりに承諾すると、咲耶は今日一番の満面の笑みを浮かべ、今度こそ俺の腕にギュッと抱き着いてきた。


「ふふっ、約束よ湊! あぁ、何を着ていこうかしら……っ♪」


最強の盾(橘)を手に入れ、強力な戦力チャオが合流し。


そして最後に、最も厄介で、最も情緒の不安定なパトロン(咲耶)が、完全なる『枷』となって俺に縛り付いた。


だが新ギルド設立に向けた役者は、ここにすべて出揃った。


日本の命運を懸けた、俺たちの本当の戦いは、この甘く危険な火種を抱えたまま、静かに幕を開けようとしていた。


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