未踏破領域でウォーミングアップ
「……あの、一つだけ、訊いてもいいですか」
夕闇が迫る訓練室の片隅で、橘漣は自身の細い手を見つめたまま、蚊の鳴くような声で呟いた。俺の手のひらから伝わる熱の残滓を、確かめるように何度も指を動かしている。
「なんだ、橘」
「天谷さん……あ、湊さんと、そちらの皆さんの探索者ランクって……その、お強いのはなんとなく察してますが……」
橘の大きな瞳が、不安そうに俺と雪乃を往復する。
俺はジャケットの襟を正しながら、正直に返答した。
「全員Sランクだ。ちなみにもうすぐ中国から合流するチャオって探索者もSランクだ」
「…………え?」
橘の思考が、完全に停止した。
(全員Sランク……?、、しかも中国から来るSランクのチャオってあの『神龍』の趙 雲蘭……?)
差し込んだ夕日が、彼の白皙の顔を不自然に照らし出している。口を半開きにしたまま、彫像のように固まる橘の横で、結衣が「ふふん」と少し誇らしげに胸を張った。
その瞬間、間を開けて橘が絶叫する。
「え、ええええええええええっ!?!?」
「声がデカい。行くぞ」
「い、嫌です! 無理です! 冗談じゃないっ! S級のバケモノたちのパーティーに、僕みたいなのが混ざったら一瞬で死にます!離してください、帰ります、おうちに帰らせてくださいぃぃぃ!」
我に返った橘は、狂ったように首を振り、回れ右をして全力で逃げ出そうとした。
【俊敏】だけが異常に発達したその足捌きは確かに速かったが、俺はその軌道を捉えて橘の背後に回り込む。
「うわっ!? はやっ――」
「お前の足、やっぱり最高だな」
逃げようとする橘の戦闘服の首根っこを、後ろからひょいっと片手で掴み上げる。ジタバタと宙で手足を暴れさせる美少年を完全に無視し、俺は雪乃と結衣に向かって告げた。
「目的地は錦糸町だ。移動中に、橘にうちの戦術を叩き込む」
「離してぇぇぇぇぇ! 誘拐だ! Sランクの職権乱用だぁぁぁっ!!」
訓練室の荒くれ者たちが呆然と見送る中、俺は泣き叫ぶ橘を小脇に抱え、夜の帳が下り始めた新宿の街へと連れ出した。
* * *
【錦糸町ダンジョン:地上一階・エントランス】
夜八時。ネオンの光が不気味にダンジョンの入り口を照らす中、俺たちは錦糸町に位置する巨大な縦穴の前に立っていた。
このダンジョンにおける探索者が到達した最高フロアは地下38階層。そこから先は、探索者が誰一人として生還していないことから、最下層が一体何階なのかは判明していない。
「ひ、ひぃ……っ、う、うう……」
隅で震えながら、橘は手のひらより少し大きい程度の『魔術防御盾』を発動し、これを辛うじて維持していた。
この程度の大きさでも彼の貧弱な【MP】がじわじわと削られているのが分かる。
「ダンジョンに入る前にもう一度橘のユニークスキルの特性を整理しよう」
俺は、青ざめる橘の前に立ち、タブレットのデータを思い浮かべた。
「一つ、ある程度離れていても、任意の場所に魔法の盾を任意の個数発現できる。
二つ、その魔法の盾は、敵の攻撃力に関係なく、あらゆる攻撃を防御できる。ただし、橘のMPが持つ限りだ。
三つ、出せる盾の『大きさ』は、ステータスの体力数値に依存する。
四つ、盾の形状は、ある程度自由自在に変形させられる。……これで合ってるな?」
橘は、涙目でコクコクと首を振った。
「は、はい……。特性だけ見れば、最強のスキルって言われます。でも、僕のステータスは最低値だから、出せる盾はせいぜい『お盆』くらいの大きさの極小サイズなんです! しかも【MP】が少なすぎて、一度に何個も出したら一瞬で気絶します! だから、実戦じゃ使い物にならないって――」
「十分だ。橘はただ、俺の指示どおりにスキルを発動させればいい」
俺は彼の背中を軽く叩いた。
「普段は中層……20階付近までしか潜ったことがないんだっけ?」
「はい……。それ以上は、パーティに同行させてもらっても命の危険があるので……」
「よし。じゃあ、今日は一気に『未踏破領域』まで駆け下りるぞ」
「はえ……?」
橘が間抜けな声を上げる暇すら与えず、俺と雪乃は同時に、黒い霧が渦巻く縦穴の底へと飛び降りた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁっ! 死ぬ! 死んじゃうぅぅぅぅっ!!」
絶叫する橘を強引に引き連れ、俺たちの不正規なダンジョンアタックが幕を開けた。
* * *
【地下30階:深層】
「速すぎる……っ! 何ですかこの人たち!?」
橘の悲鳴が、湿った洞窟の通路に響き渡る。
彼の驚愕は当然だった。
通常、パーティーを組んで数日かけて攻略するはずの20階から30階までの道のりを、俺たちはわずか『三十分』で突破していた。
通路に現れるモンスターの群れ――巨大な岩石の身体を持つゴーレムや毒を吐く蛇のようなモンスター
それらは、俺たちの足を一瞬たりとも止めることはできなかった。
「――『氷華』」
雪乃がすれ違いざまに双剣をひと振りするだけで、前方を塞いでいた数十体のモンスターが、悲鳴を上げる間もなく一瞬にして氷像へと変わり、砕け散っていく。
「橘、もっと速度を上げろ。お前の【俊敏】なら、この速度に付いてこられるはずだ」
俺は、自身の『炎神の小手』から放たれる微小な熱量で、背後から迫るモンスターの群れをノールックで灰に変えながら、前方を走る橘を促した。
「付いていける、じゃなくて! 付いていかざるを得ないだけですっ! 後ろから火炙り、前から凍結魔法が飛んでくる地獄のランニングマシンじゃないですかぁぁぁっ!!」
橘は涙をボロボロと流しながら、必死になって足を動かしていた。
だが、俺の狙い通り、彼の【俊敏】の数値は本物だった。ある程度合わせてるとは言え、俺と雪乃の移動速度に、彼はついてこれていた。
そして――。
【地下38階層】
周囲の岩肌が、どす黒い紫色から、血のような深紅へと変色していく。
空気の密度が異常に重くなり、大気中に漂うマナの残滓が、パチパチと不気味な放電現象を起こし始めていた。
地面には、かつてここで命を落としたであろう探索者たちの、錆びついた武器や引き裂かれた防具の残骸が、無数に転がっていた。
「ここが……38階……。この先は、誰も生きて帰ってきていない……」
橘の足が、恐怖で完全にストップした。彼の顔からは、血の気が完全に引き、唇がカタカタと震えている。
「といっても有力な探索者がまだ攻略に乗り出していないのもあるだろう?」
「ですが、ここから先はマップがない完全な『未踏破領域』です。……湊さんから問題ないと思いますが……念の為、気をつけてください」
結衣が杖を強く握りしめながらそう言うと
「……モンスターの悪臭が、一段と濃くなりましたわね」
雪乃が双剣の刃を重ね、冷たい金属音を響かせる。
「行くぞ。橘、お前の本当の力を発揮するのはここからだ」
俺は躊躇なく、人類が一度も踏み入れたことのない、地下39階層へと続く暗黒の斜面へと一歩を踏み出した。
* *. *
【地下48階層】
38階を超えてからダンジョンの構造は一変していた。
通路は消え失せ、巨大な結晶が隙間なくそびえ立つ、異様な『水晶の迷宮』。
キィィィィィィィィィンッ!!!!!
不意に、迷宮の全方位から、鼓膜を物理的に破らんばかりの不快な高周波が響き渡った。
「――っ! 来るぞ!」
雪乃の警告と同時に、周囲の巨大な水晶の影から、異様な姿をしたモンスターたちが姿を現した。
体長は三メートルを超え、人間の上半身に、巨大なカマキリのような鋭い鎌と、蜘蛛の四肢を持つ異形。その頭部には、不気味に明滅する『魔術結晶』が埋め込まれている。
【名称:深層の守護者(結晶種)】
【ランク:A+】
その数、およそ五十体。
これまでの階層のモンスターとは、次元が違う。一体一体が深層のボス部屋に出現するモンスターに匹敵していた。
『ギ、ギギギギギギギギッッッ!!!』
異形たちが一斉に鎌を振り上げ、その頭部の結晶から、極大の『紫色の破壊光線』を同時にチャージし始めた。
狙いは、先頭を走る俺と雪乃――ではない。
悪意に満ちたその視線が向いていたのは、俺たちの遥か後方、後衛の結衣だった。
「しまっ――」
雪乃が迎撃のために踏み込もうとするが、敵の配置は完全に俺たちの死角を突いていた。
五十発の破壊光線が、一斉に放たれる。その奔流は空間を歪め、結衣のいる後方へと一直線に収束していく。
「結衣ちゃんっ!!」
橘が叫んだ。
結衣が、ぎゅっと目を閉じる。
誰もが、その直撃を防ぐことは不可能だと確信した、その瞬間。
「橘!! 出せッ!!」
俺の怒声が、迷宮に響き渡った。
橘の肉体が、本能のままに動いた。
彼は、五十発の光線の『弾道』を、その網膜で完璧に捉えていた。
「――そこだぁぁぁぁぁぁっ!!」
橘が、両手を前方へと突き出す。
ユニークスキル【魔術防御盾】
パリン、パリン、パリン、パリンッッ!!!!
空間に、小気味よい硝子の割れるような音が連続して響いた。
結衣の数十メートル前方――空中の中空。
放たれた五十発の破壊光線の軌道が、一本の極太の奔流へと『収束するポイント』。
そのピンポイントの虚空に、橘の放った淡い紫色の魔法の盾が、同時に数枚発現したのだ。
【体力】が低いため、一枚あたりの盾の大きさは、彼の言う通りせいぜい『お盆』程度の極小サイズ。
だが、橘はその盾の形状を、光線のエネルギーを外側へと受け流すための『鋭角な錐の形』へと、自在に変形させて配置していた。
ズドォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
紫色の破壊光線が、空中の極小の盾へと直撃した。
しかし。
『攻撃力に関係なく、MPが持つ限り、あらゆる攻撃を完全に無効化する』
キィィィィィィンッ!! と、耳を劈くような激突音が響く。
破壊の光線が、橘の出現させた小さな錐の盾に触れた瞬間、その威力を完全に『無効化』され、左右の水晶の壁へと不自然にへじ曲げられて霧散していったのだ。
「……は、あ……っ、はぁ……っ!」
橘の顔から、滝のような汗が吹き出る。
わずか数秒の防御。だが、それだけで彼の【MP】は完全に底を突き、紫色の盾はサラサラと砂のように崩れ落ちて消えた。
橘はその場に膝を突き、激しく肩を上下させる。
だが、後方の結衣は――完全に、無傷だった。
「……信じられない」
雪乃が、走りながらその光景を見て、驚愕の声をもらした。
五十発の広範囲魔法を、正面から巨大なバリアで受け止めようとすれば、数百万のMPがあっても足りない。
だが、橘は咄嗟に光線の弾道を完璧に見極め、攻撃が最も集中する『一瞬の交差する箇所』にだけ、最小限のMPで極小の盾を出現させ、形を変えて受け流したのだ。
「言っただろ、橘」
俺は、一瞬にして橘の前に立ち塞がり、右腕に『灰燼の炎』を発現させた。
「お前の力が俺たちには必要だ」
俺は右腕を横一文字に振り抜いた。
ただの払いのけの動作。だが、そこから放たれた数万度の炎の波は、水晶の迷宮を焼き尽くしながら直進し、群がっていた五十体の異形たちを、悲鳴を上げる暇すら与えずに一瞬にして完全なる『灰』へと変えた。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!!!
一撃。迷宮の半分が消し炭になり、静寂が戻る。
「ひ、え……っ」
橘は、その圧倒的な破壊力を前に、腰を抜かしたまま完全に硬直していた。
「結衣、橘のMPを回復してやってくれ!」
「は、はいっ!」
結衣が急いで杖を構え、橘の身体を温かい光で包み込む。瞬く間に、彼の枯渇していた魔力が満たされていく。
ーーー最深部(62階)
一同は巨大で漆黒の扉の前に立っていた。
誰も到達したことのない最深部、その『ボス部屋』の入り口だ。
俺は振り返り、まだ息を荒くしている橘を見下ろした。
彼の瞳には、先ほどまでの恐怖だけでなく、自分の力が僅かとはいえ深層で通用したのだという、確かな『自信』が芽生え始めていた。
「ここから先は、このダンジョンの主が待っている。充分気をつけていこう」
俺は、漆黒の巨大な扉にゆっくりと手をかけた。
運と世界に見放された少年が、英雄の盾へと覚醒するための最後の舞台。
その重厚な扉が、ギギギ……と、重い音を立てて、ゆっくりと開かれようとしていた。




