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始動



自宅のアパート。リビングに差し込む朝の光は、ひどく静かで、世界が絶望的なパニックに陥っていることなど微塵も感じさせないほど穏やかだった。


ピンポーン、と。


控えめだが、どこか急かすようなインターホンの音が室内の静寂を破る。


「湊、入るわよ」

「おはようございます、湊さん」


合鍵の回る音と共に足を踏み入れたのは、私服姿の雪乃と結衣だった。二人の表情は一様に硬く、その両手には分厚いバインダーと、最新型のタブレット端末が抱えられている。


俺は淹れたばかりのコーヒーを三つのマグカップに注ぎ、ローテーブルに置いた。


「早いな。椿さんのところでの修行は午後からじゃなかったのか?」


「ええ。でも、その前にあなたとギルド設立の件で話を詰めておきたいとおもって」


雪乃はコーヒーには口をつけず、テーブルの中央にバインダーを広げた。ストレートの黒髪の奥で揺れる彼女の瞳には、あの闘技場で感じた無力感を二度と味わうまいとする、覚悟の光が宿っていた。


「日本の探索者協会に、新しい『ギルド』を設立を申請するための絶対条件よ。詳細は結衣、任せていい?」


結衣が小さく頷き、タブレットの画面をスワイプして俺に向けた。


「新規ギルドの設立には、国と協会が定めた3つの条件をクリアする必要があります。一つ目は、ギルドマスターがA級以上の公式資格を有していること。二つ目は、マスターを含めた『役員』が最低6名在籍していること。そして三つ目は、活動拠点となる十分な広さと防魔設備を有する施設を所有していることです」


俺は腕を組み、画面に羅列された文字を視線でなぞった。


「一つ目のマスターの資格については、問題ないわね」


雪乃がバインダーのページをめくる。


「そうだね」

俺は頷いた。


「問題は、三つ目の『活動拠点』だけど……」


雪乃がそう言った瞬間、室内の空気がピキピキと音を立てて凍りついた。マグカップから立ち上っていたコーヒーの湯気が、一瞬にして白い霜へと変わる。


「……それについては、昨日『あの魔女』から、嫌がらせのように届いたわ」


雪乃が忌々しげに取り出したのは、豪奢な紫色の封筒――皇咲耶からの手紙と、分厚い不動産の権利書だった。


都心の一等地にそびえ立つ、地上十階、地下三階建ての新築ビル。地下には最新鋭の防魔訓練施設まで完備された、個人では逆立ちしても手に入らない巨大な要塞が、すでに「天谷湊」の個人名義へと書き換えられていた。


『これくらい、未来の旦那様へのささやかな結納品よ。せいぜい立派な英雄になってちょうだいね。 咲耶より』


甘い伽羅の香りが漂うキスマーク付きの便箋を見て、雪乃の瞳の奥の殺意が爆発しかけていた。


「……燃やしてやろうかしら、この紙クズ」


「待て待て、落ち着け雪乃! 気持ちは痛いほど分かるが、あいつの権力と財力はありがたく利用させてもらおう」


俺が必死になだめると、雪乃は不満げに鼻を鳴らしながらも、渋々といった様子で権利書から手を離した。


「これで、2つの条件はクリアよ。残るは…」


雪乃が真剣な面持ちで俺を見据える。


「ギルドの役員、最低6名。……現在、ここにいるのは湊、私、結衣の三人だけ。あと三人仲間を見つけなければ、申請すら出せないわ」


「適当な頭数を揃えるわけにもいかないしなあ」


俺はタブレットの画面を睨みつけながら言った。


「俺たちがこれから戦うのは、ただのダンジョン攻略だけじゃない。またいつ知性体が現れるかもわからない上に、人間の中にも色々と裏で画策する者たちもいる」


「でも、実力があって、どこの派閥にも属していない探索者なんて、そう簡単に見つかるでしょうか……?」


結衣が不安そうに眉をひそめた、その時だった。


ビーーーー、と。


テーブルの上に置いていた特殊端末が、電子音を立てて振動を始めた。


画面には、高度に暗号化された海外からの通信シグナルが点滅している。俺が画面をタップすると、空間にノイズ混じりのホログラム映像が投影された。


『――ふふ。随分と派手なことをしているみたいね、私の英雄』


映像の向こうで、長い黒髪を揺らし、妖艶な微笑みを浮かべていたのは――中国へと帰国したはずの、チャオだった。


背後には、豪奢なプライベートジェットの機内らしき光景が映し出されている。


「チャオ!? 国に戻ったんじゃ……」


『ええ。でも、状況が変わったのよ』


チャオはクスクスと悪戯っぽく笑いながら、細い煙管を指先で弄んだ。


『九州の未曾有の悲劇をたった一人で収束させ、魔将クラスの知性体三体を灰にした規格外のバケモノ。……そんな男が、既存のギルドに属さず独立したギルドを立ち上げる。これがどういう意味か分かる?』


チャオの漆黒の瞳が、画面越しに熱を帯びて俺を射抜く。


「天谷湊という個人と早期に強固なパイプを築くことこそが、我が国の最大の国益に繋がるって国のお偉方を説得してきたわ。……ちゃんと政府公認で、あなたの陣営に合流する許可をもぎ取ってきたからもちろん私も混ぜてくれるわよね?』


「政府を言いくるめたって……相変わらず無茶苦茶だな」


『誰のせいだと思っているの? ……これで決まりね? あぁ、早くあなたに会いたいわ、湊』


妖艶なウインクと共に、通信が一方的に切断された。


ホログラムの光が消えた室内に、再び重苦しい沈黙が戻ってくる。


「……あの、女まで…」


雪乃の口から、地獄の底から響くような声が漏れた。彼女の手元で、マグカップの取っ手がミシッと嫌な音を立てる。


「あ、あの、雪乃さん……落ち着いて……! 全力で怒る方向性がズレてます……!」


結衣が配置された冷気の中でガタガタと震えながら引き止めるが、雪乃の周囲の冷気はもはや吹雪のようになっていた。


「いいわ、面白いじゃない……。チャオが合流するなら、戦力的にはこれ以上ない補強よ。だけど、残りの二人……残りの二人は、絶対に、絶対に女以外の、まともな強者を連れてくるわよ!いいわね!?」


「あ、ああ……分かってる。善処する」


俺は冷や汗を拭いながら、タブレットを手に取った。


チャオの参戦。それは、ギルド設立に向けて最大の切り札が加わったことを意味していた。だが同時に、役員の最低人数を満たすためには、あと二人の隠れた実力者を見つけ出さなければない


「結衣、どうやってまだどこにも属していない優秀な人材を探すかアテはあるか?」


「はい。湊さんはSランクの探索者なので国が管理する探索者のデータ一覧を見る権限があります。探す条件はどうしますか?」


「……『タンク(前衛盾)』だ。アタッカーは俺と雪乃、それにチャオが加われば、攻撃力としては十分すぎる。だが、固い防御で時間を稼いでくれるタンクが絶対に必要だ。いざという時に後衛の結衣を、いかなる範囲攻撃からも守り抜くためにもな」


「分かりました。防御力特化のA級以上の探索者をリストアップしますね」


「いや、」

結衣の指を、俺は言葉で制した。


「B級以上で、ここ数年、ステータスが『伸び悩んでいる』探索者をリストアップできないか?」


「え? 伸び悩んでいる、ですか?」


雪乃が怪訝な顔をする。


「スムーズに成長している有望な探索者は、すでに国や大手ギルドに囲い込まれてる。今から札束で横取りしても、立ち上げ前のギルドなんかに転属はしてくれないだろう」


俺はタブレットの画面を覗き込みながら、静かに言った。


「それなら大手に目をつけられず、日の目を見ていない人材……それでも昔の俺みたいに諦めきれずにダンジョンに潜り続けているような諦めの悪いやつだ」


結衣の指がキーボードを叩き、条件を絞り込んでいく。


数百人の顔写真が、滝のような速度でスクロールしていく中、俺はその『データ』の不自然さだけを凝視し続けた。


「……とめてくれ!」


俺の言葉に、画面が一人の少年のプロフィールで停止した。


【氏名】たちばな れん

【年齢】17

【ランク】B級


画面に映し出されたのは、中性的な整った顔立ちに、どこか憂いを帯びた大きな瞳を持つ、ひどく繊細な印象の美少年だった。およそ前衛で荒々しく盾を構える「タンク」のイメージからは程遠い。


「この子……」

結衣がプロフィールの詳細を読み上げる。


「直近、体力とMPの数値が伸び悩んでいるようにみえます。その代わり、俊敏の数値だけが異常なほど突出して伸び続けている……、!?」


「どうした?」


驚く結衣へ湊が問いかける。


「保有スキルは『ユニークスキル』――【魔術防御盾マジックタンク】となっています」


「ユニークスキルって?」

再び湊が聞き返す。


「簡単に言えば、他に同じスキルが確認していないその人固有のスキルになります。つまり湊さんや私のスキルも同じくユニークスキルということになりますね」


「ユニークスキル……」

湊が画面を眺めながらなにやら考え込む。


「でもユニークスキル持ちなのに、B級でくすぶっているの?」


雪乃も不思議そうに画面を覗き込む。

「データの詳細を見てみて」


俺は、橘漣のパーティー離脱履歴の多さを指差した。


「前衛のタンクは、一般的には高いHPと『体力』で物理攻撃を真正面から受け止めるのが仕事のはずだ。……だが、この子は、そのタンクに重要とされる体力とMPがほとんど伸びず、代わりに前衛には不要とされる『俊敏』ばかりが跳ね上がってしまった。結果として、ユニークスキルを持ちながらも『攻撃を防げない紙の盾』として、あらゆるパーティーから役立たずと見捨てられ続けているんじゃないか」


世界で一人だけのスキルを持ちながら、システムの残酷なステータス配分によって、どこの組織にも居場所を失った少年。


「……行こう。実際に会って、本人の口から事情を聞きたい」


俺はタブレットの電源を落とし、ジャケットを羽織った。


   * * *


新宿の片隅にある、探索者協会の中級者用訓練施設。


夕暮れ時の騒がしい風が吹き抜ける中、俺たちはその片隅にある、個人用の防壁ブースへと足を運んでいた。


防護ガラスの向こう側。


そこには、大汗をかきながら、自身の体躯に見合わない半透明の魔法の盾を展開している橘の姿があった。


「はぁ、はぁ……っ、くそ……っ!」


橘が悲痛な声を上げると同時に、彼の手元から広がっていた美しい紫色の魔術障壁が、わずか数秒でパリンとガラスのように砕け散った。


それと同時に、彼は激しい呼吸の乱れと共にその場に膝を突く。ウインドウを見るまでもなくステータスの物足りなさ。彼がどれほど必死にスキルを展開しようとも器であるステータスがそれを満足に発揮できないのだ。


「おいおい、またすぐにバリアが割れてるぜ? 相変わらず使えねえユニークスキルだな」


防壁ブースの周囲から、下品な嘲笑が響いた。


声をかけたのは、別のブースで訓練をしていたC級やB級の、いかにも素行の悪そうな探索者たちのグループだった。


「せっかくのユニークスキルも、持ち主がその燃費の悪いヒョロガキじゃ宝の持ち腐れだな!」


「おい、次の深層のパシリに誘ってやろうか? モンスターの魔法が一発飛んできたら、その自慢の俊敏で俺たちの後ろに隠れろよ、ぎゃははは!」


浴びせられる屈辱的な言葉に、漣は固く拳を握りしめ、地面を見つめたまま唇を噛み締めていた。


言い返す言葉などないのだ。この世界において、ステータスの数値は絶対的。いくら珍しいスキルを持っていようと、実戦で使えなければただの「お荷物」でしかない。


彼が諦めたように立ち上がり、自身の荷物をまとめてブースを出ようとした、その時だった。

「――お前のその【魔術防御盾マジックタンク】、うちで活用してみないか?」


静かだが、訓練室の喧騒を明確に切り裂く声。

漣がハッとして顔を上げると、そこには俺と、その背後に控える雪乃と結衣が立っていた。


「……え? あ、あの……僕に、言ってるんですか?」


漣は大きな瞳を丸くし、困惑したように自身の胸を指差した。


「ああ、そうだ、橘漣。単刀直入に言う。俺が新しく立ち上げるギルドの『前衛』になってほしい」


俺の言葉に、周囲の探索者たちが一瞬の静寂の後、ゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。


『おいおい、兄ちゃん正気かよ!?』


『そいつはな、逃げることしかできない「紙の盾」だぞ!』


『俊敏ばっかり高くて、前衛に立った瞬間にすぐ逃げ出すような腰抜けだ! 盾のくせに満足に攻撃を受けれないタンクをスカウトするなんて、どんな弱小ギルドだよ!』


外野の野次を無視し、俺は橘の前に歩み寄った。


橘は俯き、自嘲気味に悲しい笑みを浮かべた。


「……周りの方達が言う通りですよ。たしかに僕のスキルは、魔法の盾を任意の場所に、任意の数展開することができてあらゆる攻撃を無効化できます。……でも、それはあくまでその障壁を維持するMPと体力のステータスが潤沢にあることが条件………僕にはそれがかけらもない。……だからただ逃げ回るしかできない、どこのパーティーからも追い出された不完全な欠陥品なんです。スカウトなら、もっとタフな前衛を他に探してください」


「自分のステータスを『欠陥』だと思っているのか?」


俺の問いに、橘は悔しそうに瞳を潤ませながら頷いた。


「……当たり前です! タンクなのに俊敏ばかり伸びるなんて、こんな理不尽なことがありますか…っ!」


「なら尚更うちに来て欲しい、橘」


俺は、彼の細い肩にそっと手を置いた。


「ただの鈍重なタンクじゃない、戦場を駆け回りながら必要に応じて必要なだけ攻撃を防げる優秀な人材じゃないか」


湊にそう言われた橘はその言葉の意味が全く理解できていないといった顔をしている。


「ではさらにストレートに言おう。不足しているステータスを補う術があるとしたら?」


「そんなおいしい話があるわけ……」


「あるんだよ。俺はステータスの数値を操作できるユニークスキル持ちだ」


「…………へ?」


橘は驚くあまり言葉を失っていた。


湊が合図を送ると、隣に立つ雪乃の足元から、訓練室の床を一瞬にして極寒の白銀へと変える冷気を開放した。


さらに、俺の右腕からは、圧倒的な密度の『赤黒い炎』が立ち上る。


「な……っ!? この、バカげた魔力の質量は……!?」


周囲で嘲笑っていた荒くれ者たちが、その絶大な威圧感の前に、悲鳴を上げて腰を抜かした。橘の瞳にも、かつてないほどの激しい衝撃が走る。


「それに、うちのアタッカー陣は、とてつもなく強い。橘が危なくなっても守ってみせる」


俺は、赤黒い炎を消し、橘の目を真っ直ぐに見据えた。


「あ……」


漣の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

どこのパーティーからも役立たずと罵られ、見捨てられてきた少年。その彼が、今日初めて人から必要だと言ってもらえたのだ。


「……僕の、この足と、盾が……あなたたちの、役に立ちますか……?」


「橘じゃなきゃダメなんだ」


夕闇が迫る訓練室の中で、

誰にも見向きもされなかった美しい鈍色の盾が、静かに湊の手をとった。


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