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英雄の帰還



防衛省・地下特別保護室。


無機質な白い壁に囲まれたその部屋で、雪乃と結衣は重く沈んだ沈黙の中にいた。


九州の惨劇、獅子神の死、そして湊の喪失。張り詰めた糸が切れたように、二人の心にはぽっかりと暗い穴が空いていた。


「……待ってて、湊。必ず私が」


雪乃が膝の上の双剣を強く握りしめ、冷たい決意を新たにした、その時だった。


ガチャリ。

保護室の重厚な電子ロックが解除される音が響いた。


「……え?」


扉が開き、そこから姿を現したのは――見慣れない上質な黒い絹のシャツを身に纏った天谷湊だった。


「よお。……その、心配かけて、悪かったな」

「…………え?」


日常と変わらないトーンでの帰還。


雪乃と結衣は数秒間フリーズし、やがて弾かれたように立ち上がった。


「み、湊ッ!?」

「湊さん……っ!!」


雪乃が飛びつくように胸に顔を埋め、結衣が背中にしがみついて号泣する。


二人の温かい体温に、俺はようやく「帰ってきた」のだと実感し、その背中を不器用に撫で返した。


「本当に、湊なのよね……? 怪我は!? あの女からどうやって逃げてきたの!?」


「逃げてきたんじゃない。あいつと『交渉』して、俺がこれから立ち上げるギルドの後ろ盾になってもらったんだ。……ここまで送ってくれたのも、皇の用意してくれた車だ」


「……は?」

雪乃と結衣が、完全に固まった。


無理もない。誘拐された男が、その誘拐した当事者から全面的なバックアップを取り付け、VIP待遇で送り届けられたと言うのだ。


俺は苦笑しながらパイプ椅子に腰を下ろし、あの部屋での出来事を話し始めた。


   * * *


(1日前――皇の屋敷)


『――私と、子を成しなさい』


日本の絶対的な権力者からの、あまりにも直接的な要求。


俺の思考は停止した。


「国を救う英雄になるために……さあ、私を抱きなさい、湊。なんでも売り渡す覚悟なのでしょう?」


咲耶の豊満な身体が密着し、シーツの上に甘い重みがのしかかる。


だが、俺は数秒の沈黙の後、視線を彷徨わせ、気まずく頬を掻いた。


「……その。待ってくれ」

「あら? 怖気づいたの?」

「……いや」


俺は、ひどく熱くなった顔を逸らし、消え入るような声で呟いた。


「……経験、ないんだよ」

「……え?」

「だから、その……。初めては、ちゃんと好きになった相手と、そういうことはしたい……っていうか……」


沈黙が落ちた。


咲耶の紫色の瞳が、まん丸に見開かれている。


魔将を蹂躙し、炎で焼き尽くした狂気の化身。


その中身が、恋も知らない純情な「男の子」だったという事実。


数秒の沈黙後


「あはっ……」

咲耶の口から、吐息のような声が漏れた。


彼女の頬が極彩色に染まり、口元がだらしなく緩む。


「嘘……なにそれ。……可愛すぎるわ、あなた」


ドサッ。


俺の身体が、強引にベッドに押し倒された。


「おいっ、やめ――」

「ダメよ。逃がさない」


咲耶が俺の上に馬乗りになり、両手首をシーツに縫い付ける。


抵抗しようにも、魔力回路がボロボロの俺には、皇を跳ね除ける力すら残っていなかった。


見下ろす咲耶の瞳には、先ほどまでの「優れた遺伝子を求める支配者」の冷たさは微塵もなかった。代わりにそこにあるのは、無垢な年下男を無理やり組み敷き、歪で熱を帯びた『雌』の欲望


「んっ……!?」

俺の唇が、柔らかく熱いもので塞がれた。


ただのキスではない。強引にこじ開けられ、舌が深く絡みつく。


甘く、陶酔を誘うような唾液と共に、咲耶の魔力が俺の体内に流れ込んでくる。


「ん……くぁ……やめっ……」


抵抗して顔を逸らそうとする俺の顎を、咲耶の手が乱暴に固定する。


深い、深い口づけ。息が詰まり、脳が痺れる。


流れ込んできた魔力が、俺の心臓の表面に、紫色の茨のような『紋章』を焼き付けた。


「ぷはっ……はぁ、はぁ……っ」


ようやく唇が離れると、咲耶は糸を引く口元を手の甲で拭い、荒い息を吐きながら妖艶に微笑んだ。


「……『契約』の魔法よ。これで、あなたは私との約束から逃げられない。三年の猶予をあげるわ」


「……なに、を……っ」


「でも……やっぱり、三年なんて長すぎるわ。もう少しだけ、堪能させてもらうわね」


咲耶の瞳が、とろりと妖しく細められた。


「なっ――んぅっ!?」

さらに深く、貪るようなキス。


俺の抵抗など意に介さず、咲耶の唇は俺の口内を、やがて首筋へ、鎖骨へ、胸元へと滑り降りていった。


「やめっ、ふざけ――っ!」

抗う声は、甘い香りと重力の鎖に押さえ込まれる。


咲耶は俺の肌に幾つもの赤い痕を刻みつけながら、自身が完全に満足するまで、狂ったように全身へ熱いキスを浴びせ続けたのだった。


   * * *


俺が事の顛末を話し終えると、保護室の中は、凍えるような空気に包まれていた。


「…………」


雪乃と結衣が、無言のまま俺を見下ろしている。


俺は気まずく視線を逸らした。詳細は隠そうとしたが、襟元から覗く無数の赤いキスマークで完全にバレていたのだ。


「あの女……ッッ!!」


雪乃がワナワナと肩を震わせ、手元のパイプ椅子をへし折った。


「湊さんも湊さんです! なんですか『経験ない』って! そこで正直に言うから変に興奮させちゃうんですよ!!」


結衣までが涙目で俺の肩をポカポカと叩く。


「悪かったって! 契約魔法まで使われるなんて思わなかったんだよ!」


俺が必死に弁解すると、雪乃がハッとしたように顔を上げ、俺の胸ぐらをガシッと掴んだ。


「ちょっと待って。……『好きになった相手としたい』って言ったわね?」


「え? あ、ああ……言ったけど」

「……誰!?」

「はい?」

「好きな相手がいるの!? 誰!? どこの女よ!!」


雪乃の顔がものすごい至近距離まで迫り、氷の魔力が室内の気温をさらに急降下させる。


「え、いや、特定の誰かってわけじゃなくて、一般論として――」


「はぐらかさないで! 結衣のこと!?」


「わ、私!? 私はその、湊さんが望むならいつでも――じゃなくて!」


カオスな状態になった保護室の中で、俺は頭を抱えた。


「頼むから落ち着いてくれ! とにかく、俺にはこれしか方法が思いつかなかったんだよ!」


俺がぽつりと呟くと、雪乃は顔を上げ、涙を拭って真っ直ぐに俺の目を見た。


「……私も、強くなるわ」

「雪乃?」

「西園寺さんに頼み込んで、彼女の指導を受けることになったの。これからのどんな相手とも戦えるように」


俺は驚きで目を見開いた。


あの氷のように冷徹でプライドの高い西園寺椿が、七星でもない雪乃を弟子にしたというのか。


「あなたの背中は、私が守る。あんな変態魔女に、湊を奪わせたりなんかしないんだから」


雪乃の瞳には、かつてないほど強烈な決意の炎が宿っていた。結衣もまた、力強く頷く。


「……ああ。頼りにしてるよ、二人とも」


俺は立ち上がり、保護室の白い天井を見上げた。


「さあ、始めようか。俺たちの手で、人々の希望となる新しい『ギルド』を」


   * * *


同刻。


京都の山奥に位置する、皇家の広大な本邸。

明かりが点いていない、静寂に包まれた暗い寝室。


皇咲耶は、湊が先ほどまで横たわっていたベッドのシーツに顔を埋め、大きく、深く息を吸い込んだ。


「はぁ……っ、あぁ……凑……っ」


シーツに残る、微かな汗の匂いと、焼け焦げるような熱の残滓。


それを嗅ぐだけで、咲耶の身体の奥底が熱く脈打ち、指先が微かに震える。


旧御三家の当主として、これまで数え切れないほどの優秀な男たちを見てきた。


だが、あの少年はそんな有象無象な男たちとは全く違った。

狂気的な暴力で世界を蹂躙したかと思えば、子どものように顔を赤らめ、「好きになった相手と」などと純情なことを口にする。


その圧倒的なギャップと無垢さが、咲耶の中で眠っていた『何か』を完全に狂わせてしまったのだ。


「三年……三年も、わたし我慢できるかしら……」


暗闇の中、咲耶は自身の唇を艶やかな指先でなぞった。


そこに残る湊の感触を思い出しながら、彼女は熱を帯びた瞳で、妖しく、そしてひどく甘く微笑んだ。


「絶対に逃がしてあげない。……湊は頭のてっぺんから爪の先まで、私のものよ」


表舞台で英雄への道を歩み始めた少年と、彼に狂わされた魔女。


複雑に絡み合う欲望の糸は、日本の命運を巻き込みながら、さらに深く、激しく結びついていくのだった。


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