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雌伏の炎



皇咲耶が部屋を去り、重々しい鍵の音が響いた後。


豪奢な天蓋付きのベッドに取り残された俺は、深く、長く息を吐き出した。


部屋の中には、頭がクラクラするような甘い伽羅の香りが充満している。


見えない重力の鎖は咲耶が部屋を出ると同時に解かれていたが、俺の肉体は鉛のように重かった。


【MP】1,698 / 496,160


視界の端に浮かぶステータスウインドウの数値が、今の俺の無力さを残酷に物語っている。


九州の死闘で、自身の肉体を完全に焼き切るほどの出力を強引に維持した代償。

俺の魔力回路は一度完全に崩壊し、加護による強引な修復でギリギリ首の皮一枚繋がっているだけの状態なのだろう。


「……こんな所で、寝てる場合じゃねえのに」


俺はベッドから身を起こし、絨毯の上に足を下ろした。


それだけの動作で、全身の骨が軋むような痛みが走る。


「……ん?」


ふと、ベッドの脇に置かれた豪奢なアンティークテーブルに目が止まった。


そこには、俺が着ていた血まみれの戦闘服が綺麗に畳まれ、その上に、見覚えのある「小さな手帳」が乗せられていたのだ。


『これを読んで自主鍛錬に励みなさい。あなたなら、一ヶ月あれば必ず自分のモノにできるわ』


チャオが俺に託してくれた、中国の『氣』と魔力循環の極意書。


咲耶たち皇の人間からすれば、ただの薄汚れた手帳にしか見えなかったのだろう。没収されることもなく、無造作に置かれていた。


俺は震える手でその手帳を手に取り、絨毯の上に胡座をかいて座った。


目を閉じ、チャオの極意書に記されていた通りに、深く、静かに呼吸を始める。


空気中の微小なマナを肺に取り込み、それを焼け焦げた自身の魔力回路へとゆっくりと流し込んでいく。


激痛が走った。まるで、傷口に直接塩を塗り込まれるような鋭い痛み。


だが、俺はその痛みを意に介さず、意識を研ぎ澄ませた。無理やり火を点けるのではない。小さな熱の種を、体内の壊れた道に沿って、少しずつ転がしていくような感覚。


額から脂汗が滲み落ちる。


どれほどの時間が経っただろうか。やがて、鋭い激痛が、じんわりとした温かい「熱」へと変わり始めた。


【MP】1,698 → 1,715 → 1,740……


呼吸と循環によって、体内の魔力を循環させてじっくり内側から器を修復していくイメージで少しずつMPの回復を試みる。


雀の涙ほどの回復量だが、繊細な魔力コントロールを日常的に意識することなく行えるようにするためだ。


「あら、素晴らしいわ。もう自力で魔力を練り始めているなんて」


不意に、背後から拍手の音が響いた。


いつの間にか部屋に戻ってきていた皇咲耶が、壁に掛けられた巨大な薄型モニターの電源を入れながら、妖艶に微笑んでいた。


「……何の用だ」


「気になっているだろうからあなたに、外の『様子』を教えてあげようと思ってね」


咲耶がリモコンを操作すると、モニターに現在の日本のニュース映像が映し出された。


『――繰り返します。九州エリアのダンジョンブレイクは収束したものの、防衛省の公式発表によれば、九州へ赴いた七星の1人である獅子神氏の戦死が確認されました。また、同じく七星の神代氏、東氏、西園寺氏も重体で病院に収容されているとの情報が……、今回の一件を収束に導いた天谷氏は行方不明との一部報道もーー』


画面の中では、キャスターが青ざめた顔で原稿を読み上げ、街頭インタビューでは人々が頭を抱え、泣き叫んでいる映像が次々と流れていた。


『嘘だろ!? 日本のトップが半分以上いなくなるなんて……!』


『またあんなブレイクが起きたら、今度は誰が俺たちを守ってくれるんだよ!』


日本中が、完全な「パニック状態」に陥っていた。


人類の希望であった七星が半壊し、最強の盾であった獅子神が死んだ。一般市民にとって、それは日本という国の防衛機構が完全に崩壊したことを意味していた。


「見ての通りよ、湊。世界は今、圧倒的な恐怖と混乱の中にあるわ」


咲耶はモニターを消し、俺の前に歩み寄った。


「この混乱に乗じて、裏では『近衛』のジジイ共が動き出している。彼らはメディアを操り、恐怖を煽り、残された探索者たち――あなたの知人たちも含めて、強制的に軍隊のように徴用して国の支配下におこうと企んでいるわ。……あなたが守りたかった『日常』なんて、このままでは一瞬で跡形もなく消え去るのよ」


咲耶の言葉は、冷酷な真実だった。


俺がここに囚われたままでは、雪乃も結衣も、他の仲間たちも、国家や旧御三家の権力闘争の渦に巻き込まれ、使い潰されるかもしれない。


「……俺を解放しろ……、いや、解放してください、皇さん」


俺は、ゆっくりと立ち上がり、彼女の紫の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「あら。まだご自分の立場が分かっていないの? 今のあなたが外に出て何ができるのかしら」


「もちろんそれはわかってる……だから、あんたと『交渉』したい」


咲耶が、面白そうに目を細めた。


俺は、静かに、しかし絶対的な覚悟を持って言葉を紡いだ。


「俺は新しく『ギルド』を立ち上げる。そして、俺自身が文字通り日本の『英雄』として表舞台に立ち、この混乱をすべて俺一人の力で収束させてやる。ダンジョンの脅威も、国民の不安も、俺が全部叩き潰す」


「……へえ?」


「だけど、そのためには政治的な壁や、近衛のような権力者連中の干渉が邪魔になる。……だから、あんたたち『皇』が、俺のギルドの後ろ盾になってほしい」


部屋の空気が、ピタリと止まった。


俺の提案は、囚われた身の分際でその元凶の である張本人に向かって「スポンサーになれ」と要求する、正気と思えない交渉だった。


咲耶は数秒間、瞬きもせずに俺を見つめ――やがて、腹を抱えて笑い出した。


「ふふっ……あははははははっ! 面白い! 本当に面白いわ、あなた!」


彼女は笑い涙を拭いながら、俺の目の前まで歩み寄り、その顔を至近距離まで近づけてきた。


「……でも、まだ甘いわね、湊。あなたの虚勢なんて、私には全部お見通しよ」


咲耶の冷たく、すべてを見透かすような瞳が俺を射抜く。


「英雄になる? 混乱を収束させる?……笑わせないで。あなたにはそんな大層な正義感なんてこれっぽっちも持ち合わせていないし、そんな柄でもない。あなたに本当に英雄として民衆の希望たり得る振る舞いができるかしら」


彼女の指先が、俺の胸元をなぞる。


痛いところを突かれた。


彼女の言う通りだ。俺が英雄という名の偶像アイドルとなれるかなんて自分でも疑問である。だが己の自由も、甘い考えも仲間の日常を守るためならすべてを売り渡す覚悟を決めたのだ。


「……自分自身を贄にしてまで、ちっぽけな日常の砦を築こうとする。本当に、馬鹿で、いじらしくて……愛おしい雄」


咲耶は、うっとりとした吐息を漏らした。


そして、俺の首に両腕を回し、妖艶な微笑みを浮かべた。


「いいわ、天谷湊。その狂気的な自己犠牲と覚悟に免じて、あなたの提案、概ね受諾してあげる」


「……本当か」


「ええ。皇の全権力と財力をもって、あなたの立ち上げるギルドを完全にバックアップし、あなたの仲間を絶対的に保護することを約束するわ。……あなたは英雄として表舞台にたち、人類の希望になりなさい」


予想外にあっさりとした承諾に、俺は拍子抜けした。

だが………、旧御三家の当主が、無条件でそんな破格の取引を飲むはずがない。


「……当然条件はあるんでしょう?」


俺が問うと、咲耶は俺の耳元に唇を寄せ、甘く、鼓膜を溶かすような声で囁いた。


「ええ、でもとても簡単なことよ……私があなたに与える絶対の庇護、その唯一の対価として求めるものは……」


咲耶は俺の首筋にそっと唇を落とし、情欲に濡れた目で俺を見つめ上げた。


「――私と、子を成しなさい」

「…………は?」


俺の思考が、一瞬完全に停止した。


「私の血と、あなたの規格外の力を宿した遺伝子……それが交われば、一体どれほど恐ろしく美しい『怪物』が産まれるのかしら。想像しただけで、子宮の奥が疼いて仕方がないの」


咲耶は俺の身体に密着し、逃げ場を塞ぐように妖艶に微笑む。


「国を救う英雄になるために……さあ、私を抱きなさい、湊。なんでも売り渡す覚悟なのでしょう?」


甘い伽羅の香りと、突きつけられた狂気的な条件。


日本の命運と仲間たちの日常を懸けた取引は、予想もしなかった最悪で最艶の盤面へと、俺を強引に引きずり込もうとしていた――?


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