黄金の鳥籠
深い、泥のような眠りだった。
血と灰の匂いがこびりついていたはずの鼻腔を、今はひどく上品で、甘く陶酔を誘うような伽羅の香りがくすぐっている。
「……ん」
重い瞼をゆっくりと押し上げると、視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪奢な天蓋付きのベッドと、和と洋が入り混じったような豪邸の一室だった。
間接照明が薄暗く部屋を照らし、床にはふかふかの絨毯が敷き詰められている。
俺は跳ね起きようとして、全身の筋肉が軋むような鈍痛に顔をしかめた。
「痛っ……」
自身の身体を見下ろす。
あの闘技場で限界を迎え、文字通りズタズタに引き裂かれていたはずの肉体は、不思議なことに傷一つなく完全に塞がっていた。着ているものも、血まみれの戦闘服から、肌触りの良い黒の絹の寝巻きへと着替えさせられている。
(……そうだ。俺はあの悪魔を倒して、それから)
俺は空中に自身のステータスウインドウを呼び出した。
【名前】天谷 湊
【HP】180,325/300,000
【MP】1,698/496,160
【筋力】350,000
【俊敏】380,000
【知力】250,000
【魔力】400,000 (魔法:火属性Lv.3)
【保留ポイント】0
【特殊加護:炎神の加護 / 闘神の加護】
「……ゼロ、か」
乾いた笑いが漏れた。
九州の死闘で稼ぎ出した異常な数のポイントは、崩壊しかけていた俺の魔力回路と肉体を強制的に繋ぎ止めるための『治療費』として、完全に底を突いていた。
さらに、MPは枯渇状態。またあの魔将たちと戦えと言われたら間違いなく敗れるだろう。
「あら。もう起きてしまったの?」
不意に、部屋の奥に置かれたアンティークソファから、艶やかな声が響いた。
音もなく立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる一つの影。
紫色の長い髪。着崩した和装の隙間から覗く、豊満な胸の谷間と、雪のように白い長い脚。
年齢は三十に届くか届かないかといったところだろう。大人の女性が持つ、熟した果実のような色気と、そして――息をするのも忘れるほどの、圧倒的で底知れぬ『魔力』の重圧。
「あなたは……?」
「ご挨拶が遅れたわね。私は『皇 咲耶』。……あなたをあの泥まみれの戦場から救い出した命の恩人よ」
咲耶はベッドの縁に腰を下ろすと、長い指先で俺の頬をそっと撫でた。
ひやりとした、だがひどく甘い感触。
俺は反射的に身をよじり、彼女の手を払いのけた。
「触るな。……ここはどこだ。他のみんなは……、神代さんや、東さん、西園寺さんたちは無事なのか!?」
俺が睨みつけると、咲耶は不快がるどころか、嬉しそうに目を細めた。
「フフッ、いい目ね。すべてを燃やし尽くした直後だというのに、まだそんな熱を宿しているなんて。……安心しなさい。無事に保護されたわ。一人、首と胴体が泣き別れになった不細工な男は例外だけれど」
「……ッ!!」
獅子神の最期を「不細工」と嘲笑われた瞬間、俺の頭に血が上った。
右手を開き、強引に『炎神の加護』を起動しようと魔力を練り上げる。
「燃え――」
シュゥゥゥゥッ……。
だが、俺の右腕から立ち上ろうとした赤黒い炎は、咲耶がふうっと小さく息を吹きかけただけで、一瞬にして冷たい水蒸気へと変貌し、霧散してしまった。
「な……」
「ダメよ、湊。あなたの魔力回路はあなたの内なる力で強引に繋ぎ合わせたばかりのガラス細工なの。今無理をして熱を帯びれば、今度こそ本当に灰になってしまうわよ」
咲耶が指先を軽く鳴らすと、今度は俺の全身が、見えない『重力の鎖』によってベッドに縫い付けられたように動かなくなった。
「何者だあんた……」
咲耶はクスクスと笑いながら、俺の耳元へと顔を近づけてきた。
彼女の吐息が首筋にかかる。
「日本の裏社会を統べる『旧御三家』。……純粋な武と前衛の【西園寺】。政治と影の暗躍を担う【近衛】。そして、あらゆる魔法を極め、絶対的な神秘を司るのが、私たち【皇】よ」
咲耶の紫色の瞳が、妖しく光る。
「……あの椿とかいう未完成のお子様は、当主でもなんでもない所詮は西園寺家の末席。七星などという表舞台のアイドル遊びにかまけている小娘と皇の当主である私の実力はまったくの別物よ」
「……その皇の当主様が、なんで俺なんかを……。五十万人の命が懸かってたあの場では、高みの見物だったくせに」
俺が吐き捨てるように言うと、咲耶はふっと真顔になり、俺の顎を指先でクイッと持ち上げた。
「……あなたのその『バグ』のような力を、近衛のジジイ共に渡すわけにはいかないからよ」
咲耶の声から、先ほどまでの甘さが消え、冷酷な支配者の響きが混じった。
「あの九州での未曾有のダンジョンブレイク。……悪魔たちが知性を持ち、代表戦などという知恵をつけた裏で、近衛の連中が何らかの糸を引いていたと考えるわ」
「なんだと……?」
「彼らは、七星や既存の探索者たちの力を測り、必要とあらば間引きしようとしたと私は考えるわ。……でも、あなたは彼らの想定を遥かに超えて、たった一人で、知性体のイレギュラーを三体も灰にするという規格外の暴力で、盤面を完全にひっくり返してしまった」
咲耶は、俺の首筋にそっと唇を落とした。
ピリッとした魔力の静電気が走る。
「近衛は今、あなたの力を危険視し、同時に喉から手が出るほど欲しがっているはずよ。……あなたがもしあのまま防衛省の病院に運ばれていたら、明日の朝には近衛の暗殺部隊に消されるか、力づくで連れ去られて洗脳をされていたんじゃないかしら。だから、私が先にお持ち帰りしてあげたの。皇の絶対的な庇護下へね」
「……俺を、あんたの手駒にするってことか」
「手駒? 嫌だわ、そんな安い言葉で縛るつもりはないの」
咲耶は俺の胸板に手を這わせ、うっとりとした表情を浮かべた。
「私はね、あなたのその『熱』に惚れ込んだの。理屈も、限界もすべて置き去りにして、ただ大切なもののために世界を燃やし尽くしたその狂気に。……湊。私と婚姻を結びなさい。私の『番』になれば、皇のすべてをあなたに与える。すべてを焼き尽くして、この国の頂点に立たせてあげるわ」
それは、男であれば誰もが抗いがたい、究極の誘惑だった。
絶世の美女からの求愛と、絶対的な権力。
すべてが思い通りになる、黄金の鳥籠。
だが。
「……ふざけるな」
俺は、重力の縛りに抗いながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
咲耶の紫の瞳を、真っ直ぐに睨み返す。
「俺は、国の頂点になんかこれっぽっちも興味はねえ。……俺が守りたいのは狭いアパートで、仲間と飯を食って、くだらない話をして笑い合う……そんな当たり前の『日常』だけだ」
獅子神が、最後に笑って託してくれたもの。
雪乃が、俺の帰りを待っている場所。
それだけが、天谷湊という人間を繋ぎ止めるすべてなのだ。
「あんたが近衛と何をしようが勝手だ。だが、俺の日常を脅かす奴がいるなら……それが旧御三家だろうがなんだろうが、俺が全部、灰にしてやる」
俺の殺意を帯びた言葉に、咲耶は一瞬だけ目を丸くし――次の瞬間。
「あはっ……ふふっ、アハハハハハハッ!!」
狂ったように、しかし心底嬉しそうに甲高い声で笑い声を上げた。
「最高……! 本当に最高だわ、あなた! 私の力と魅了を前にして、まだそんな反逆の牙を剥き出しにするなんて……! ますます気に入ったわ!!」
咲耶は立ち上がると、恍惚とした表情で俺を見下ろした。
「いいわ、天谷湊。あなたがその気なら、たっぷりと時間をかけて、その首に私の鎖を繋いでみせる。……まずは、そのボロボロの魔力回路が繋がるまで、この皇の屋敷で大人しく飼われていなさい。逃げ出そうとしても無駄よ? 外はすでに、あなたを狙う近衛の猟犬どもがうろついているのだから」
咲耶が艶やかなウインクを残し、部屋の扉を閉めて出ていく。
ガチャリ、と重い鍵の閉まる音が響き、俺は再び一人、豪華なベッドの上に取り残された。
「……くそっ」
保留ポイントはゼロ。
絶望的な状況だが、心が折れることだけは絶対にない。
俺は必ず、あの日常へ帰るのだ。
* * *
同じ頃。
東京都内、防衛省の厳重な地下医療施設。
ベッドで横たわる雪乃は、包帯を巻かれた自身の腕を見つめながら、静かに、しかし確かな怒りと決意を燃やしていた。
「……湊」
彼が連れ去られる瞬間、自分は何もできなかった。
ただ吹き飛ばされ、圧倒的な力の差を見せつけられただけ。
七星ですらない今の自分では、旧御三家というバケモノたちの盤上に立つ資格すらないのだ。
傍のテーブルに置かれた、自身の二振りの双剣。
「……待ってて。私は必ず、もっと強くなる」
雪乃は、冷たい刃を強く握りしめた。
「御三家だろうと、悪魔だろうと関係ない。……あなたを、必ず私が取り戻すから」
かつてない喪失と、水面下で動き出した旧き血の権力闘争。
日本の頂点を巡る、新たな、そして最も血生臭い戦いの幕が、静かに開かれようとしていた。




