灰燼の産声
右腕の魔力回路が、かつてないほどの異常な脈動を始めた。
赤黒い炎が、俺の皮膚を突き破らんばかりの狂気的な密度で全身を覆い始めようとしていた。
獅子神の死。五十万人の恐怖の悲鳴。そして、仲間をゴミのように嗤うモンスターたち。
頭の中で、人間としての理性を繋ぎ止めていた最後の『輪郭』が、音を立てて千切れた。
「……殺す」
俺が、全保留ポイントをステータスに注ぎ込もうと身を乗り出した、その瞬間だった。
「――待て!天谷!」
俺の肩を強く引き止める者がいた。
神代だった。
「離してください! あいつらは俺が、一匹残らず……!!」
「落ち着け。今のお前は冷静さを欠いている。その状態で飛び出せば、自分自身の熱量で自滅するぞ。……獅子神の死を、無駄にするな」
神代の隻眼が、静かに、しかし絶対的な威圧感を持って俺を射抜いた。
その瞳の奥には、彼自身の内側で燃えたぎる、俺以上の巨大な「怒り」が封じ込められているのが分かった。日本のトップとして、誰よりも長くこの国の探索者たちを率いてきた男だ。仲間の無惨な死を前にして、平気であるはずがない。
だが、彼はその怒りをすべて、極限まで研ぎ澄まされた「剣気」へと変換していた。
「……俺が行く。お前は、冷静になるまでここで見ていろ」
神代は俺から手を離すと、腰に帯びていた長刀をゆっくりと引き抜いた。
装飾の一切ない、白銀の刃。
彼が、見えないマナの障壁の内側――砂舞台の中央へと歩みを進めると、闘技場の空気が一瞬にして凍りついた。
物理的な冷気ではない。神代迅という一人の人間が放つ、あまりにも純度の高い「殺意」が、空間そのものを切り裂くような錯覚を起こさせていたのだ。
対するモンスターの陣営。
モラクスが引き下がり、大悪魔ベルゼの背後から、四体目の知性体が音もなく進み出た。
それは、これまでの異形とは打って変わって、ひどく「人間」に似た姿をしていた。
身長は二メートル半ほど。漆黒の西洋甲冑に身を包み、兜の奥には虚無の闇だけが広がっている。その両手には、神代の長刀よりもさらに巨大で、身の丈を優に超える漆黒の大剣が握られていた。
【名称:虚無の魔将・アスタロト】
【ランク:測定不能】
『……ほう。貴様が、人間どもの頭目か』
兜の奥から、くぐもった金属音のような声が響く。
「御託はいい。……一瞬で終わらせる」
第四戦。
『天剣』神代 迅と、漆黒の騎士アスタロトの戦いは、何の前触れもなく、瞬きすら許されない速度で始まった。
ドンッ!!
音が、完全に遅れて聞こえた。
神代の姿が、物理的に「消失」したのだ。
それは、音速はおろか、光の速度にすら届くのではないかと錯覚するほどの速さ。
湊からしても彼の動きは完全に「ブレた線」にしか見えなかった。
「――天剣流・絶技『無明』」
アスタロトの背後に、いつの間にか神代が立っていた。
その直後、漆黒の騎士の巨体を、何百、何千という不可視の斬撃が、全方位から同時に切り刻んだ。
ギィィィィィィィィィィンッ!!!!!
空間そのものが、無数の刃によって細切れにされたかのような絶景。
神代は、最初から出し惜しみを一切しなかった。
獅子神を失った今、敵の強大さは十二分に理解している。だからこそ、自身の持つ最強の奥義を、開始一秒から全開で叩き込んだのだ。
防御不能の絶対斬撃。どんな深層のボスであろうと、この一撃を受ければ細胞のひとかけらも残らずに消滅する。
誰もが、神代の圧倒的な勝利を確信した。
――だが。
『……なるほど。少しは「速い」な』
無数の斬撃の嵐の中で。
アスタロトは、微動だにしていなかった。
「なっ……!?」
神代の隻眼が見開かれる。
アスタロトの漆黒の甲冑には、確かに無数の刀傷が刻まれていた。しかし、それは表面を数ミリ削っただけで、致命傷には程遠かったのだ。
そればかりか、削られた甲冑の傷跡は、泥のようにうごめく黒いマナによって、瞬く間に完全に修復されていく。
『だが、「軽い」。……絶望の重さが、全く足りていない』
アスタロトが、右手に持った漆黒の大剣を、無造作に、ただ力任せに横へと薙ぎ払った。
剣技もへったくれもない、ただの暴力の塊。
しかし、その一振りが生み出したのは、闘技場の空間そのものを押し潰すような、極大の重力嵐だった。
「くっ……!」
神代は咄嗟に長刀を盾にするが、その圧倒的な質量に耐えきれず、目にも留まらぬ速度で後方へと弾き飛ばされた。
ズドォォォォォンッ!! と、神代の身体が結界の壁に激突し、砂埃が舞い上がる。
「神代さんッ!!」
俺は思わず叫んだ。
『どうした? 人類の頂点とやら。貴様の剣は、その程度か?』
アスタロトが、ゆっくりとした足取りで距離を詰める。
神代は壁を蹴って体勢を立て直し、再び消えた。
上空から、左右から、死角から。あらゆる角度から、神代の神速の刃がアスタロトを襲う。
神代の強さは、その異常なまでの身体能力を完璧に制御する「技術」にある。敵の装甲の継ぎ目、力の流れの淀み、そうした微小な隙を的確に穿ち、いかなる強敵をも切り伏せてきたのだ。
「――『神威』!!」
神代が、空中で身体を捻りながら、全身のバネと落下のエネルギーを剣の先端の一点に集中させ、アスタロトの兜の眉間へと突き刺した。
完璧な一撃。これ以上ない、武の極致。
ガキィィィィィィィィィンッ!!!!
しかし。
神代の白銀の長刀は、アスタロトの兜に数センチ突き刺さったところで、完全に「停止」した。
『……言ったはずだ。軽い、とな』
アスタロトの左手が、神代の長刀の刀身を、素手でガシリと掴んだ。
ピキッ。
嫌な音が、闘技場に響いた。
「ば、馬鹿な……」
神代の顔に、初めて「驚愕」と「焦燥」が浮かんだ。
日本最高の鍛冶師が、深層のレア素材を限界まで鍛え上げて造り出した、神代専用の業物。
それが、アスタロトの異常な握力と、甲冑から溢れ出す圧倒的なマナの密度の前に、ミシミシと悲鳴を上げ始めたのだ。
パキィィィィィンッ!!!!!
無惨な音と共に、神代の長刀が、粉々に砕け散った。
剣を失い、空中で完全に無防備となった神代の胴体へ向けて、アスタロトの漆黒の大剣が、無慈悲に振り下ろされた。
「しまっ――」
ズドバァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
「ガ、アァァァァァァァァァッ!!!」
神代の口から、おびただしい量の鮮血が噴き出した。
かろうじて砕けた剣の柄で致命傷は避けたものの、その絶大な質量を真正面から浴びた神代の肉体は、砲弾のように砂舞台へと叩きつけられ、何度もバウンドしながら無惨に転がった。
「神代さん!!!!」
砂煙が晴れた後。
そこに倒れていたのは、日本の頂点たる『天剣』の、あまりにも残酷な敗北の姿だった。
肋骨は完全に砕け、内臓が破裂し、手足は不自然な方向に曲がっている。HPゲージは残りわずか。
ピクピクと指先が動き、神代は血の池の中で必死に立ち上がろうとするが、その身体はもはや、起き上がることを許してはくれなかった。
『……ふぁあ』
その時、闘技場に、ひどく場違いな、気の抜けたような声が響いた。
大悪魔ベルゼが、退屈そうに大きな欠伸をしたのだ。
『……終わりか。つまらん。本当につまらんぞ、人間』
ベルゼは、倒れ伏す神代と、息絶えた獅子神を一瞥し、深い失望の溜息を吐いた。
『人類の頂点がこの程度とは。もっと我らを楽しませ、絶望の味を熟成させてくれると思ったのだが……これでは興が削がれた』
ベルゼが、パチン、と指を鳴らした。
ゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォッ!!!
闘技場の地面が、至る所で割れ始めた。
そして、その地割れの奥底から、ドス黒い瘴気と共に、数え切れないほどのモンスターたちが、雪崩のように湧き出してきたのだ。
オーク、ミノタウロス、キメラ。その数は、数千、いや、数万にまで膨れ上がり、すり鉢状の闘技場を黒く塗り潰していく。
「なっ……おい!1対1の代表戦だって言っただろうが!!」
俺が叫ぶと、ベルゼは嘲笑うように肩をすくめた。
『飽きたと言ったのだ。お遊戯の時間は終わりだ。……そこに転がっているゴミどもも、檻の中の家畜どもも、一匹残らず喰っていいぞ』
ベルゼの号令と共に、数万のモンスターの群れが、一斉に檻の中の市民たちと、倒れている神代たちへ向けて殺到を開始した。
市民たちの絶叫。泣き叫ぶ子供たちの声。
結界は、もはや1対1の勝負のためのものではなく、ただの巨大な「餌箱」へと変貌したのだ。
その光景を見た瞬間。
俺の脳内で、何かが限界を超えて「沸騰」した。
怒り? 悲しみ?
そんな生ぬるい感情ではない。
この理不尽な世界に対する、そして、俺の日常を、仲間を無惨に踏みにじったモンスターどもに対する、純粋で絶対的な『殺意の飽和』。
「……あは、あははははははは」
俺は、狂ったように嗤いながら、空中にステータスウインドウを展開した。
保留ポイント【6,460,000】
俺は、その全ての数値を、自身の肉体と魔力回路へ向けて、一切の躊躇なくスワイプした。
「全部だ。俺の命も、ステータスも全部くれてやる……!!」
頭部、胴体、五臓六腑、血液の一滴に至るまで全身に魔力がみなぎる。
【仮想武具:灰燼魔鎧を展開】
【※警告:MPが0になると解除されます】
うるせえ。
死ぬ前に、全部殺せばいいだけだ。
ブォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
九州の空を覆う瘴気の結界が、内側からの異常な熱量によって物理的に歪み、悲鳴を上げた。
俺の全身から、どす黒いマグマのような炎が噴き出し、禍々しい『炎の装甲』となって肉体を完全に包み込む。
背中からは炎の翼が噴き出し、顔は赤黒いバイザー状の熱線に覆われる。
もはや、人間の姿ではない。
暗い地獄から這い出てきた『狂気と炎の化身』
迫り来る数万のモンスターたちが、俺の全身から放たれる熱気だけで、触れることもなく次々と「灰」となって蒸発していく。
アスタロトが、そしてベルゼが、初めてその顔に明確な「驚愕」と「恐怖」を浮かべた。
「お前ら全員、俺が灰にしてやる」
俺は、人間と悪魔を隔てていた強固なマナの障壁に、炎の装甲に包まれた右手を突き立てた。
指先から流し込まれた億単位の熱量が結界を焼き切る。
パキィィィィィィィンッ!!!!
絶対の結界が、ガラスのように粉々に砕け散った。
「どこからでも来いよ、ゴミ共!! 余さず全部、燃やし尽くしてやるからよォォォッ!!」
俺は炎の翼を広げ、絶望に染まった闘技場の中心へ、虐殺の嵐となって飛び込んだ。




