獣の散り際
「ガ、アァァァァァァァァァァァッ!!!!」
右腕を根本から吹き飛ばされた獅子神が、遅れてやってきた凄絶な激痛に絶叫を上げた。
千切れた肩口から大量の血が噴き出し、砂舞台の地面を赤く染め上げていく。
「獅子神さん!!」
俺は結界をバンバンと叩きながら叫んだ。
だが、結界の壁はビクともしない。五十万人の市民たちが、先ほどまでの歓声から一転、恐怖に顔を引きつらせて悲鳴を上げ始めていた。
『ハハハ! いい声だ! その痛み、その絶望! これこそが我らが好む極上の美酒よ!』
モラクスが、残虐な笑みを浮かべながら獅子神を見下ろす。
圧倒的な力の差。
最初から、勝負など成立していなかったのだ。バケモノはただ、人間たちに「勝てるかもしれない」という淡い希望を与え、それを一番高いところから突き落とすためだけに、わざと手加減をして殴り合っていた。
それだけじゃない。
先の2戦はあえて人間側といい勝負を「演出」したのだ。
「この、クソ野郎がァァァッ!!」
この絶望的な状況の中、それでも獅子神は倒れなかった。
それどころか、失った右腕の痛みと、生命の危機という絶対的なダメージが、『獣神の加護』を通じて彼の残された肉体に、かつてないほど天文学的な膂力を注ぎ込んでいた。
左腕の筋肉が異常に膨張し、血管がはち切れんばかりに脈打つ。
獅子神は、血の海を蹴り立て、モラクスの顔面へ向けて渾身の左ストレートを放った。
空気が圧縮され、ソニックブームが巻き起こる。
だが。
『――遅いな』
モラクスは、その巨体からは想像もつかない軽やかな動きで、獅子神の左拳をあっさりと「指二本」で受け止めた。
「なっ……!?」
『痛みが力を呼ぶ能力か。面白い。ならば、貴様がどこまで痛みに耐え、どこまで我を楽しませてくれるか、じっくりと試してやろう』
モラクスの空いた腕が、無造作に振るわれる。
その手刀が、獅子神の「左脚」の膝関節を、いとも容易く横薙ぎに切り裂いた。
ズバァァァァッ!!
「ご、ァ……ッ!?」
太ももから下が切断され、獅子神の巨大な身体がバランスを崩して地面に倒れ込む。
鮮血が闘技場に撒き散らされ、彼は残された左手だけで必死に上半身を起こそうともがいた。
『どうした? もっと怒れ。もっと痛がれ。そして、背後の家畜どもに、貴様の無様で醜い敗北の姿をたっぷりと見せつけてやれ!』
モラクスが、倒れ伏す獅子神の背中を、丸太のような足で容赦なく踏みつける。
ゴキッ、と背骨が悲鳴を上げる音が結界越しに俺たちの耳にも届いた。
「やめろ……やめろォォォッ!!」
湊は必死に結界を破ろうと拳を叩きつけるが、魔将の張った結界は微動だにしない。
五十万人の市民たちの悲鳴が、絶望のうねりとなって闘技場に響き渡る。
自分たちを守る最強の戦士が、手も足も出ずに解体されていく光景。それは、人間の心を完全に圧し折り、降伏と絶望を植え付けるための、悪魔の完璧な「処刑ショー」だった。
『さあ、次はどこをもごうか? 貴様のその誇り高き顔を、さらに恐怖と屈辱で染め上げようじゃないか!』
モラクスが、獅子神の残された左腕を掴み、ゆっくりと、わざと痛めつけるようにギリギリと捻り上げ始めた。
骨が砕ける音。筋繊維が千切れる音。
「……ハ、ハハ……」
だが、その凄惨な拷問の中で。
獅子神咆牙は、血だらけの顔を上げ、モラクスを睨みつけて嗤ったのだ。
「誰が……絶望するって……?」
『……何?』
「俺は、……ただの、喧嘩しか能がねえ、はみ出し者だ。……だけどな」
獅子神の脳裏に、かつて新宿のダンジョンで、共に戦ってくれた湊たちの姿がよぎる。
独りで戦い続けていた彼に、「背中を預ける」というぬくもりを教えてくれた、馬鹿で甘い連中。
「てめぇらみたいなゴミクズに、絶望なんてしてやるかよォォォォォォッ!!」
ブチィィィィンッ!!!
モラクスに掴まれていた自身の「左腕」を、獅子神は自らの筋力で強引に引きちぎり、拘束から逃れた。
『なっ……自ら腕を!?』
驚愕するモラクスの隙を突き、右腕も、左腕も、左脚も失った獅子神は、残された右脚一本で地面を蹴り上げ、怪物の巨体へと跳躍した。
武器はない。殴る腕もない。
だが、彼にはまだ「牙」があった。
「死ねェェェェェェッ!!」
獅子神は、モラクスの喉元に喰らいつき、その鋭い歯で怪物の肉を力任せに噛みちぎったのだ。
極限の痛覚変換によって強化された顎の力は、怪物の強靭な皮膚を容易く食い破り、どす黒い血液を噴き出させた。
『ギ、アァァァァァァァッ!? 離せ、この狂犬がァァァッ!!』
モラクスが苦痛に暴れ、獅子神の身体を力任せに引き剥がし、地面へと叩きつける。
地面に叩きつけられ、もはや動くことすらできないはずの獅子神は、口の周りを怪物の血で真っ赤に染めながら、結界の外にいる俺に向かって、ニヤリと笑いかけた。
(……あとは、頼んだぜ、湊)
声には出さなかった。だが、その瞳は確かにそう語っていた。
『よくも、よくも我の肉体を……ッ! 許さん! 貴様はここで完全に終わらせてやる!!』
激怒で我を忘れたモラクスが、自身の腕を巨大な鋭い断頭斧へと変形させ、両手で高く振り上げた。
「やめろ……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
俺の絶叫は、届かなかった。
ズバァァァァァァァンッ!!!!
振り下ろされた巨大な刃が、獅子神咆牙の首を、いとも容易く切断した。
宙を舞う頭部
そして、首を失い、血の噴水を上げながらゆっくりと崩れ落ちる巨体。
闘技場は、完全な沈黙に包まれた。
五十万人の市民も、神代も、湊も、誰も声を発することができなかった。
生々しい死の重量を持ったまま、獅子神咆牙の肉体は、ただ物言わぬ『屍』となって、砂舞台の血の海に横たわっていた。
マナの障壁が消滅し、モラクスが血塗れの刃を揺らしながら、満足げに鼻を鳴らした。
「……あ、あ……」
俺の口から、乾いた、意味をなさない空気が漏れた。
いつも不機嫌そうに悪態をつき、誰よりも乱暴で、それでいて不器用だった男。
つい先刻まで当たり前に勝つと思っていた仲間の無惨な姿。
『――ハァーッハッハッハッ!! 見事だ! 実に見事な死に様だな、人間ども!!』
闘技場の奥。
腕を組んでいた大悪魔ベルゼが、腹を抱えて甲高く嗤った。
『……さあ、絶望しろ。次は誰の首が飛ぶか、楽しみで仕方がないぞ』
世界が、急速に赤黒い殺意の視界へと染まっていく。
俺の耳には、もうベルゼの言葉すら届いていなかった。
頭の芯が、怒りと憎悪の熱で、ドロドロに溶けていくのが分かった。
プツン、と。
俺の中で、人間としての理性を繋ぎ止めていた最後の『輪郭』が、完全に焼け焦げて千切れる音がした。
「……てめぇら」
俺は、冷たくなっていく獅子神の遺体に歩み寄り、その見開かれた目をそっと閉ざした。
そして、ゆっくりと立ち上がり、ベルゼたちを見据える。
右腕の魔力回路が、かつてないほどの異常な脈動を始め、赤黒い炎が、静かに、しかし狂気的な密度で俺の全身を覆い始めようとしていた。
【第三戦終了:人類側 残り2名 / 悪魔側 残り3名】




