獣の加護
西園寺椿の、血に染まった身体が医療班の担架へと横たえられる。
その白かった肌は無数の裂傷に覆われ、呼吸はひどく浅い。俺は彼女の無事を祈るようにその背中を見送り、再び血の匂いが立ち込める砂舞台へと視線を戻した。
一歩、前へ出ようとした神代の肩を、分厚い手のひらが強引に掴んで引き戻した。
「おい、……天剣様の出番はまだ早えよ」
前に出たのは、獅子神咆牙だった。
その巨大な身体から放たれる殺気は、すでに人間の枠を超え、飢えた猛獣のそれへと変貌している。引き締まった筋肉が軋む音を立て、太い血管が首筋に不気味に浮かび上がっていた。
「あの気色の悪い肉の塊だ。……俺の拳の、最高のサンドバッグになりそうじゃねえか」
神代は静かに獅子神の横顔を見つめ、短く「……任せた」とだけ言い、剣の柄から手を離した。
対するモンスターの陣営。
大悪魔ベルゼの背後から、地鳴りのような足音を立てて歩み出てきたのは、山のような巨体を持つ怪物だった。
牛の頭部を持つその姿は、人間の肉や骨を無理やり継ぎ接ぎして肥大化させたかのような、歪で醜悪な肉の塊。全身の皮膚の隙間からは、どろりとした赤黒い瘴気が体液のように噴き出している。
【名称:巨躯の魔将・モラクス】
【ランク:測定不能】
モラクスが巨大な足で地面を踏みしめると、それだけで天神のすり鉢状の地形が激しく揺れ動いた。
ブゥゥゥゥンッ!!
再びマナの障壁が立ち上がり、二人の巨体を外界から完全に隔離する。
第三戦の火蓋が切られた。
「ガァァァァァァァッ!!」
先手を取ったのは獅子神だった。
彼の爆発的な踏み込みは、分厚いアスファルトの地面を粉々に砕き散らした。一瞬にしてモラクスの懐へと潜り込むと、限界まで引き絞られた剛拳を、怪物の脇腹へと叩き込んだ。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
闘技場全体に、大砲を至近距離でぶっ放したかのような狂気的な衝撃音が響き渡る。
モラクスの巨大な肉体が僅かに浮き上がり、数メートル後方へと引きずられた。皮膚が裂け、そこから黒い血が噴き出す。
『……ホォ。人間にしては、少しは重いではないか』
モラクスは痛がる素振りすら見せず、その丸太のような両腕を上空で組み合わせ、獅子神の頭上へ向けてハンマーのように振り下ろした。
直撃すれば、ダンプカーすらもペチャンコに潰れるであろう絶対的な質量。
ドンッ!!
だが、獅子神はそれを避けない。
避ければ、その拳の風圧と衝撃波だけで、背後にある五十万人の檻に甚大な被害が及ぶ。彼はただ両腕を頭上で交差させ、怪物の出鱈目な一撃を真正面から受け止めた。
ギチ、ギチギチッ……!!
骨が軋み、肉が潰れる嫌な音が障壁の内部から響いてくる。
獅子神の足元が完全に陥没し、彼の両腕の皮膚から、極度の圧力を受けた鮮血がプシューッと霧状に噴き出した。
『ククッ……どうした人間。防戦一方ではすぐに潰れるぞ?』
モラクスが歪な口を開いて嗤い、さらに出力を上げて獅子神を力任せに押し潰そうとする。まともに喰らい続ければ、どれほど強靭な肉体を持っていようと、いずれは骨が砕け散る。
だが。
「……ハッ。痛ぇなぁ、バケモノ」
押し潰されそうな圧殺劇の中で、獅子神の口元が、狂ったような笑みの形に歪んだ。
彼の全身の毛穴から、どす黒い、赤黒いオーラが爆発的に噴き出し始める。
『獣神の加護』に意識を集中する。
受けた痛覚とダメージの質量を、そのまま自身の「膂力」へと際限なく変換する、戦えば戦うほどに理不尽な暴力を増していく呪縛。
獅子神の目が、完全に理性の一線を越えた深紅の輝きを帯びる。
「だが……そんだけかよォォォォォッ!!」
バキィィィィィンッ!!!
押し込まれていたモラクスの巨大な腕を、獅子神が力任せに下から跳ね上げた。
怪物の体勢が大きく崩れ、無防備な胸元が晒される。
そこからは、一切の魔術も小細工もない、純粋な「肉と肉の削り合い」が始まった。
「オラァッ!!」
ズドォォォォォンッ!!
獅子神の拳がモラクスの胸を穿ち、分厚い肉を抉り取る。
対するモラクスも、その巨大な拳で獅子神の顔面を殴り飛ばし、血を噴き出させる。
互いに一歩も引かず、回避という選択肢を完全に捨て去った二頭の獣が、ただ目の前の敵を破壊するためだけに拳を振るい続ける。
闘技場の砂舞台は、またたく間に二人の流した赤と黒の血によって泥濘と化していった。
獅子神の特注の戦闘服は引き裂かれ、剥き出しになった胸板には無数の打撲痕と裂傷が刻まれている。心臓の鼓動が、壊れた時計のように激しく脈打っているのが外からでも分かった。
その攻防は「互角」の殴り合いだった。
いや、ダメージを受けるごとに速度と重さを増していく獅子神の拳が、徐々にモラクスを圧倒し始めていた。
「いける……! 獅子神さんの力が、あの怪物を上回ってる!」
背後の檻に閉じ込められている五十万人の市民たちからも、「やれ!」「いけえええっ!」という悲痛な応援の声が上がり始めていた。
人類の希望。最強の獣が、絶望を打ち砕こうとしている。
ドゴォォォォンッ!!
獅子神の渾身のアッパーが、モラクスの牛の顎を完全に打ち抜いた。
巨体が宙に浮き、ドスンと大きな音を立てて仰向けに倒れ込む。
「ハァ、ハァ……どうだ、クソ野郎。これでもまだ、人間の力が足りねえか?」
血まみれの獅子神が、荒い息を吐きながら倒れたモラクスを見下ろした。
勝負は決したかに見えた。このまま押し切れると、誰もが信じた。
――しかし。
『……ハハッ。ククク、アハハハハハハッ!!』
倒れ伏していたはずのモラクスが、突如として、腹の底から響くような不気味な笑い声を上げた。
「……何がおかしい」
『いや、すまない。人間という生き物は、少し希望を見せてやると、こうも面白く踊り狂うのかと思ってな』
モラクスは、砕けたはずの顎をゴキリと自らの手で強引に元の位置に戻しながら、ゆっくりと立ち上がった。
その全身から立ち上るマナの質が、先ほどまでとは全く異なっている。
重く、冷たく、そして圧倒的な「絶望」の質量。
『貴様の強さの限界を測るために、我の力を「十分の一」まで落として相手をしてやったのだが。……どうやら、測る必要もなかったらしい』
「……なんだと?」
獅子神が眉をひそめた、その瞬間だった。
ドンッ。
モラクスの巨体が、「消えた」。
いや、極限の速度で動いたのだ。巨体からは到底考えられない、物理法則を無視した圧倒的な速度。
「――っ!?」
獅子神が反応しようと腕を上げた、その時にはもう、遅かった。
ブチャァァァァッ!!!!!
鈍い音と、生暖かい液体が弾ける音。
獅子神の右肩から先が消えていた。
「あ……?」
獅子神が、自身のなくなった右腕を見下ろす。
少し遅れて、激しい噴水のように、切断面からおびただしい量の鮮血が噴き出した。
モラクスは、自身の巨大な手のひらで握り潰した獅子神の「右腕だった肉片」を、ボトボトと地面に落としながら、醜悪に口元を歪めた。
『さあ、絶望の時間の始まりだ。人間ども』
偽りの拮抗が崩れ去り、本性を現したのモラクスの前に、闘技場は完全なる静寂と凍てつくような恐怖に支配された。




