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剛姫の軛



「……フン。実に不愉快な見世物ですわね」


引き渡された東のボロボロの肉体を見送り、すり鉢状の闘技場コロッセオの中央へと歩み出たのは、西園寺椿だった。


漆黒の艶やかな黒髪が夜風に揺れ、豪奢な黒いドレスが砂を擦る。その右手に握られた鉄扇だけが、彼女の静かな、しかし確かな殺意を物語っていた。


対するモンスターの陣営。

ベルゼの背後に控えていた残る三体の知性体のうち、一歩前に進み出たのは、異様な風体をした怪物だった。


人間の皮を何枚も剥ぎ取って繋ぎ合わせたような、薄汚れた外套。その奥から覗くのは、肉の削げ落ちた骸骨のように細い四肢。そして、両手には黒く濁った巨大な双叉槍バイデントが握られている。


【名称:狂乱の魔将・エリゴス】

【ランク:測定不能】


エリゴスは、消滅したレラジェの灰を長い足で踏みにじりながら、爬虫類のように細くひび割れた舌を出して嗤った。


『ベルゼ様。やはり、あの太平洋で九尾が消滅したからと、急遽深層から引き上げてあてがっただけの代用品レラジェでは、前座にもなりませんでしたね』


その言葉に、結界の外で見守る俺は奥歯を鳴らした。


あの東さんを死の淵まで追い詰めたレラジェが、五柱の中で「代用品」に過ぎなかったというのか。


『ですが、ここからは違いますよ。……私は、人間の「心」を壊すのが専門でしてね』


エリゴスが双叉槍をひと振りすると、再び見えないマナの障壁が立ち上がり、椿とモンスターを完全に隔離した。


第二戦――『剛姫』西園寺椿の、誇りを懸けた戦いが始まった。


「――『嵐刃らんじん』」


椿の冷徹な声と共に、鉄扇が鋭く一閃された。


何の前触れもなく、結界内の全空間の気圧が急激に圧縮され、目に見えない無数の真空の断層がエリゴスへと襲いかかる。並のモンスターであれば、触れた瞬間に肉片へ変えるだろう。


しかし。


『ククッ、そんな大雑把な風、私の前では無意味です』


エリゴスは双叉槍を滑らかに回転させた。


その動きは、武術の「化勁かけい」に酷似していた。だが、決定的に違うのは、そいつが操っているのが洗練された武術ではなく、他者の魔力や運動エネルギーのベクトルを物理的に「狂わせる」異質なマナの波動だということだ。


椿の放った絶対不可侵の嵐が、エリゴスの槍が描く円軌道に触れた瞬間、その軌道を不自然にねじ曲げられ、砂舞台の地面を虚しく抉るだけに終わった。


「……私の風を、受け流しましたの?」

椿の眉が微かに動く。


純粋な戦闘おいて神代をも凌ぐと言われる彼女は、間髪入れずにドレスの裾を翻し、エリゴスの懐へと踏み込んだ。


音速を超える速度で放たれる、鉄扇による一撃。当たれば巨岩すら粉々に消し飛ばす物理の破壊力。


だが、エリゴスはその一撃をも、双叉槍の柄でヌルリと受け流した。


『さあ、ルールを思い出してください、人の子よ。避ければ後ろの家畜が死ぬ。……私の攻撃を簡単に避けることができますかな?』


エリゴスが槍を鋭く突き出す。


狙いは椿の胴体。彼女のステータスなら、まともに受け止めても致命傷には至らないはずだった。彼女は防御の姿勢をとり、その一撃を正面から受けた。


だが、槍の先端が椿のドレスに触れた瞬間。


放たれたのは、直接的な物理の破壊エネルギーではなかった。


――キィィィィィィィィィンッ!!


黒く濁ったマナの波動が、椿の肉体を透過し、彼女の「脳髄」へと直接流れ込んだのだ。


「……っ!? あ、ああぁっ……!」


椿が、突然自身の頭を左手で押さえ、激しくよろめいた。


鉄扇を取り落としそうになりながら、膝から崩れ落ちる。


「西園寺さん!?」


俺は結界の外から叫んだ。

俺の視界に映る彼女のステータスに目をやると【HP】はほとんど変化ない。


だが、【MP】に目をやると恐ろしい速度でガリガリと音を立てるように減少していた。


『ククク……精神汚染魔法――「狂乱の呪い」。私の槍に触れた者は、己の内に秘めた最も深い恐怖とトラウマを脳内に強制再生され、魔力回路を内部から食い破られる。……避ければ後ろの人間が死ぬ。さあ、まともに喰らい続けなさい!』


エリゴスが槍を容赦なく連続で突き出す。


椿は、後ろの檻を守るために一歩も動けず、その理不尽な精神攻撃をすべて正面から浴び続けた。


「う、お……おの、れ……西園寺の、名にかけて……あなたのような、下劣なバケモノに……っ!」


椿の美しい顔が苦悶に歪み、黒髪が乱れる。


現実世界の視界が黒く塗り潰され、彼女の意識は、強制的に自身の精神の最も暗い「深淵」へと引きずり込まれていった。


   * * *


暗い、ひどく冷たい廊下だった。


椿の意識は、幼い頃に過ごした西園寺家の広大な屋敷の中を彷徨っていた。


『椿。お前は西園寺家の最高傑作だ。決して負けることは許されない』


『お前が敗れれば、一族の誇りは地に落ちる。完璧であれ。誰よりも強く、美しく、冷徹であれ』


四方八方の襖から、両親の、祖父母の、一族の重鎮たちの声が響いてくる。


彼女の背中に伸しかかる、目に見えない巨大な鉄の鎖。


【剛姫】という異名は、他者が畏怖を込めて呼んだものではない。彼女自身が、絶対に折れてはならないという強迫観念の中で作り上げた、冷たい「鎧」だった。


『……ほら、見なさい。貴女のそのつまらない誇りのせいで、あの五十万人は死ぬのです』


屋敷の暗がりから、エリゴスの嗤い声が響く。


襖が開き、そこには五十万人の市民たちが、血の涙を流しながら椿を見つめている光景が広がっていた。


『助けて、剛姫様』

『あなたが弱いから、私たちは殺されるんだ』

『完璧な令嬢なんて嘘っぱちじゃないか!』


呪詛のような声が、椿の鼓膜を物理的に破らんばかりの音量で叩きつける。


「違う……私は、西園寺の娘として……すべてを護り抜く……!」


『無理ですよ。貴女の身体はもう限界だ。魔力回路は暴走し、心は悲鳴を上げている。……楽になりなさい。ここで膝を突き、負けを認めれば、一族の重圧からも解放される。五十万人の死も、すべてあの悪魔のようなモンスターたちのせいにすればいい』


暗闇の中で、エリゴスが椿の耳元で甘く囁く。


鎖が、彼女の首に巻き付き、ギリギリと締め上げる。


完璧でなければならない。しかし、目の前の敵は完璧な自分をいとも容易く凌駕してくる。


敗北の恐怖。一族を失望させる恐怖。五十万人の命を背負い切れないという、押し潰されそうなプレッシャー。


「あ……あぁ……」


精神世界の中で、椿の瞳から光が消えかける。

両手から力が抜け、冷たい屋敷の畳の上に、力なく膝を突こうとした。


   * * *


現実の闘技場。


椿の身体は、完全に力なく俯き、両腕をだらりと下げていた。口の端からは一筋の鮮血が流れ落ちている。


『ハァーッハッハッハ! 壊れたか! どれほどステータスが高かろうと、人間の心など硝子細工よりも脆い!』


エリゴスが双叉槍を高く振り上げた。


今度は精神攻撃ではない。物理的に彼女の心臓を穿ち、その命を完全に終わらせるための、純粋な殺意の一撃。


「だめだ……! 西園寺さん、避けろ!!」


俺が結界を叩きながら絶叫した。

槍の切っ先が、椿の胸に迫る。


あと数センチで彼女の命が散る――その瞬間だった。


ガシィィィィンッ!!!!


「……え?」

俺は、自分の目を疑った。


虚ろな目をしていたはずの椿の左手が、信じられない速度で跳ね上がり、エリゴスの双叉槍の刃を「素手」で完全に掴み止めていたのだ。


刃が手のひらに食い込み、ボタボタと鮮血が滴り落ちるが、彼女の腕は微動だにしない。


『なっ……!? 貴様、なぜ動ける! 精神は完全に破壊したはずだ!』


俯いていた椿が、ゆっくりと顔を上げた。


乱れた黒髪の間から覗くその黒曜石の瞳には、先ほどまでの絶望や恐怖は微塵もなかった。


そこにあるのは、凍てつくような、絶対的な「傲慢」と「怒り」。


「……他人の頭の中に土足で踏み込んでおいて、見せる幻がその程度ですか?」


椿の冷酷な声が、闘技場に響き渡った。


「一族の重圧? 敗北の恐怖? 五十万人の命の重さ?……笑わせないでくださいませ」


ギリィッ! と、彼女が左手に力を込めると、エリゴスの持つ双叉槍の刃に、ミシミシと亀裂が走り始めた。


「私が背負っているモノは、あなたがたのような下劣な害獣が、薄っぺらい幻覚で計り知れるほど……軽くはありませんわ!!」


バキィィィィィンッ!!!


黒く濁った双叉槍の先端を、文字通り粉々に握り潰した。


『馬鹿な!? 私の精神汚染を、純粋な「自意識プライド」だけでねじ伏せただと!?』


驚愕に目を見開くエリゴス。


椿は、血の滴る左手を振り払い、右手で落としていた鉄扇を拾い上げた。


「……確かに、少しだけ意識を持っていかれましたわ。このままでは魔力回路が暴走してしまいますね。ならば」


椿は、一切の躊躇なく、その鉄扇の先端を、自らの「太もも」へと深く突き刺した。


ザクッ!! という生々しい肉を裂く音が響き、黒いドレスが彼女自身の鮮血で赤く染まる。

『狂ったか!? 自傷行為など――』


「……激痛こそが、私を現実に繋ぎ止める最高の楔ですわ」


強烈な物理的痛覚によって、魔力回路の暴走と脳内に残る呪いの残滓を強引にリセットしたのだ。


椿は、血の滴る太ももから鉄扇を引き抜くと、それを空中へと放り投げた。


「風よ、我が血を吸い、すべてを切り裂く『檻』となれ」


椿が両手を広げた瞬間、彼女の傷口と左手から吹き出た鮮血が、周囲の空気と混ざり合い、赤黒い『血の嵐』へと変貌した。


それはエリゴスを攻撃するためのものではない。


闘技場の空間、すなわち背後にある五十万人の檻の前面を完全に覆い尽くす、絶対的な『血風の防壁』だった。

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