紫電の咆哮
巨大なすり鉢状の闘技場を満たすのは、肌を刺すような濃密な瘴気と、すり鉢の縁を埋め尽くした五十万人の市民たちが発する、絶望と恐怖の呻き声だった。
大悪魔ベルゼが指を鳴らした瞬間、見えないマナの障壁が激しい音を立てて中央の舞台を囲い込み、強固な決闘場を形成する。
それは世界が注視する中で、一人ずつ順番にモンスターたちと命を削り合う、凄惨極まる「見世物」の舞台だった。
『――さて、最初の生贄は誰にする?』
ベルゼのねじれた角の奥、三日月のように歪んだ赤い瞳が、俺たち五人を舐めるように見つめる。
その挑発的な視線に、一歩も怯むことなく前に踏み出した男がいた。
「……御託はいい。その気色の悪い面、俺が最初に叩き潰してやる」
全身からバチバチと紫色の火花を散らしながら、一歩、また一歩と中央の砂舞台へと歩み出たのは、七星の一角――『雷帝』東 猛だった。
その背中は、普段の豪快な兄貴分のそれとは完全に異なり、故郷を蹂躙された男の、絶対零度の怒りに満ち溢れていた。
対する悪魔の陣営から、一歩前に出たのは、人間の骨を継ぎ接ぎしたような巨大な弓を背負った、異様に細長い四肢を持つ悪魔だった。緑色の皮膚からは、ぽたぽたと緑色の粘液が滴り落ち、触れた地面の砂を一瞬にして黒く腐らせ、煙を上げさせている。
【名称:腐肉の魔将・レラジェ】
【ランク:測定不能】
「東さん……!」
俺は通信機越しに声をかけた。
だが、東は振り返らない。ただ、自らの両拳を固く握りしめ、天を衝くほどの魔力を解放した。
「湊、神代さん、西園寺の嬢ちゃん、獅子神……。後ろでしっかり見てやがれ。これが、九州の男の戦い方だ」
ドンッ!! と、東の足元から爆発的な紫電が迸り、砂舞台がガラス状に焼き固められる。
第一戦――『雷帝』東 猛と、悪魔レラジェの、命を懸けた死闘の火蓋が切って落とされた。
* * *
「――ハァッ!!」
東の俊敏な踏み込みと同時に、闘技場の全方位から落雷に酷似した凄絶な轟音が響き渡った。
彼のステータスにおける『魔力』は120万。純粋な魔法の出力において、彼は日本の探索者の中でも群を抜いている。東が両手を突き出すと、極太の紫色の雷の龍――『紫電竜』が数体同時に形成され、空間を焼き切りながらレラジェへと牙を剥いた。
『ククッ……速いな。だが、それだけだ』
悪魔レラジェは、その長い腕で背負った骨の弓を引き絞った。
狙いは、迫り来る雷の龍ーーー、ではない。
レラジェの禍々しい弓の切っ先が向いていたのは――東の遥か真後ろ、五十万人の市民が閉じ込められている「骨の檻」だった。
「なっ……!?」
『避けてみろ、雷の王よ。貴様が躱せば、この美しく腐った矢は、後ろの家畜どもを数万人単位で溶かすことになるぞ?』
ヒュン、と。
空間が裂けるような音と共に、レラジェの弓から放たれたのは、高濃度の猛毒と腐食のマナを凝縮した、数千発の「緑色の雨」だった。
それは放物線を描き、東の頭上を通り越して、檻の市民たちへと降り注ごうとする。
「この、卑劣なバケモノがァァァッ!!」
東は自らの『紫電竜』を強行突破の盾として使うのをやめ、強引にその軌道を曲げた。
自身の身体を、矢の豪雨と檻の間の「射線」へと力任せに割り込ませる。
一切の回避は許されない。
もし一つでも躱せば、その余波だけで背後の子供たちが、母親たちが、一瞬にしてドロドロの肉塊に変わる。
東は、自身の俊敏な足を完全に止め、その場に文字通り「肉の防波堤」として直立した。
ズドドドドドドドドドドォォォォンッ!!!!!
「ガ、ハァァァァァァァッ……!!!!」
東の悲痛な絶叫が、闘技場に木霊した。
緑色の腐食の雨が、東の頑強な肉体を容赦なく穿ち、焼き、溶かしていく。
特注の魔力防護服が一瞬でボロ布のように溶け去り、その下の白い皮膚がジュウジュウと音を立てて赤黒く焼け爛れていく。
彼のHP数値が、レラジェの放つ「理不尽な毒」によって、ガリガリと削り取られていくのが、ステータスを介さずとも見て取れた。
「東さん!!」
『ハァーッハッハッハッ! 素晴らしい! 実に素晴らしいぞ人間! 避ければ助かるものを、なぜ進んで肉の盾になる!? そのままドロドロに溶けて、我が腐肉のコレクションに加わるがいい!』
レラジェが狂ったように笑いながら、第二、第三の矢を番い、さらに広範囲へと猛毒の雨を降らせる。
東の足元は、彼自身の傷口から流れ出た鮮血と、悪魔の毒液が混ざり合い、凄惨な血の海と化していた。
「……う、あ……あぁ……っ」
「東さん! もういい! もういいから避けて!!」
檻の中から、九州の市民たちの泣き叫ぶ声が響く。
自分たちを守るために、故郷の英雄がただ無抵抗に全身を溶かされている。その光景は、市民たちにとっても耐えがたい精神的拷問だった。
だが、血の海の中に膝を突きかけながらも、東の瞳の奥にある『紫の雷』は、微塵も消えてはいなかった。
「……うるせえ、な……」
東は、ドロドロに溶けかけた右腕を強引に持ち上げ、自身の顔に付いた緑色の毒液を、乱暴に拭い去った。
「誰に向かって、避けていいなんて言ってやがる。……俺を、誰だと思ってる」
東は、ギチ、ギチ、と、骨が軋む音を響かせながら、再び大地を踏みしめて立ち上がった。
全身から黒い煙が立ち上り、HPはすでに半分以下まで落ち込んでいる。凄絶な激痛が彼の脳髄を狂わせようとしているはずだ。だが、彼の顔には、狂気にも似た不敵な笑みが浮かんでいた。
「俺は……九州の、みんなの命を預かった『雷帝』だ。バケモノの小細工に、一歩でも引くようなヤワな生き方はしてねえんだよッ!!」
その咆哮と同時に、東の胸の奥から、まばゆいばかりの「黄金の光」が溢れ出した。
『完全解放!!』
バリバリバリバリバリィィィィィッ!!!!!
闘技場の天井を覆っていた黒い瘴気の雲を突き破り、成層圏から文字通りの「神の雷」が、東の肉体へと垂直に激落した。
巨大な光の柱が天と地を繋ぎ、結界すらもビリビリと震え上がる。
『なっ……なんだ、あのマナの変異は!? 肉体が……消えている!?』
レラジェが、初めてその醜悪な顔を驚愕に歪めた。
光の柱の中から現れた東の姿は、もはや「人間」の形を維持していなかった。
皮膚も、筋肉も、血流も。そのすべてが、物質としての境界を突破し、純粋な『紫電のエネルギー』そのものへと変換されていた。
髪は逆立ち、剥き出しになった眼球からは、絶え間なくプラズマの閃光が迸っている。
「――終わりだ、バケモノ」
東の声は、空間そのものを震わせる振動波となって響いた。
次の瞬間。
ドンッ!!
音がない。
東が動いた、という認識すら、悪魔の動体視力には届かなかった。
『雷神の加護』によって肉体をエネルギー化させた東の俊敏は、一時的にシステムの上限を遥かに突破し、本物の「雷速(秒速数万キロ)」へと到達していたのだ。
『が――』
レラジェが言葉を発するよりも早く、東の「雷の拳」が、悪魔の顔面へと突き刺さっていた。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
爆発ではない。純粋な高エネルギーによる、分子結合の破壊。
触れた瞬間、レラジェの頭部の半分が、細胞レベルで一瞬にして焦げ付き、消滅した。
『ギ、ギャアアアァァァァァァッ!?』
「まだだ、まだ足りねえぞ!! 俺の故郷を汚した代償を、その安い命で支払い続けろッ!!」
そこからは、目を覆うような一方的な「蹂躙」だった。
東の姿は、闘技場の中央で数十条の『紫の光の筋』となって乱反射し、レラジェの肉体を全方位から音速を越えた速度で寸断し続けた。
右腕が吹き飛び、左脚が千切れ、自慢の骨の弓が粉々に砕け散る。
『ヒィッ、あ、魔将である我が、人間に……これほどの……っ! ベルゼ様、助けて――』
「誰が助けるって? てめぇの味方も、全員ここで順番にブチ殺すんだよォォォッ!!」
東の最後の一撃。
全身の雷エネルギーを右拳に集中させ、巨大な雷の槍と化した東が、レラジェの胸の核へと一直線に突き抜けた。
「――『紫電絶禍』ァァァッ!!!」
ドッパーーーーーーーーーーンッ!!!!!
闘技場全体が、一瞬だけ昼間のような白い光で埋め尽くされた。
雷撃の熱量によって、悪魔レラジェの巨体は、灰すらも残さずに完全に「蒸発」し、その場から跡形もなく消滅した。
「……ガハッ……」
光が収まった砂舞台の中央。
元の肉体へと戻った東が、大量の血を吐き出しながら、ゆっくりと膝を突いた。
肉体を雷に変換した代償。そして、まともに浴び続けた腐食の猛毒。
彼の全身は、炭化と腐食によってボロボロに崩れかけており、HPゲージは、文字通り『一桁』のところで点滅していた。
「東さん!!」
俺は、障壁が消えた瞬間に舞台へと飛び込み、倒れ込む東の巨体をその腕で受け止めた。
「……へへ。どうだ、湊……。俺の戦い方、少しは……参考になったかよ……」
東は、かすむ瞳で俺を見上げ、血に染まった口元で、いつものように豪快に、不敵に笑ってみせた。
「最高でしたよ、東さん。……あとは、俺たちに任せて休んでてください」
「おう……頼んだ、ぜ……」
東は満足そうに目を閉じ、完全に意識を手放した。
彼自身のHPはギリギリで残っているものの、意識を失い戦闘不能。
俺は東の身体を抱えて急いで結界の外で待機する救護班へ引き渡しに行く。
第一戦、人類の勝利。
だが、その代償として、俺たちは早くも最高戦力の一角を失った。
血の匂いが立ち込める砂舞台を見つめながら、俺は右の拳を強く、壊れるほどに握りしめた。
悪魔たちの卑劣な理不尽。
その本質を、俺たちはこの最初の戦いによって、嫌というほどに刻み込まれたのだ。
次なる戦いの舞台へ向けて、闘技場の中心に、新たな絶望の影がゆっくりと動き始めていた。
【第一戦終了:人類側 残り4名 / 悪魔側 残り4名】




